われおもうに

杉田水脈議員のLGBT差別論考 「生産性」どころの話じゃない

新潮45の2018年8月号に掲載された杉田水脈議員(自民党)の論考が大きな波紋を広げている。「日本を不幸にする『朝日新聞』特集」に収められた一文で、タイトルは「『LGBT』支援の度が過ぎる」。

この中の「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない…そこに税金を投入することが果たしていいのか」という文言が発売前から話題になり、SNSなどで批判と擁護の声が激しく飛び交った。そこで実際に全文を読んでみたのだが、読んでわかったことは、そこだけに問題があるわけではないということ。

ここに書かれたこの人の考え方全体が、LGBTへの差別そのものだ。

全編に差別意識が漂っている

杉田氏が冒頭に掲げたデータによると、この1年間で新聞各紙に取り上げられたLGBT関連の記事は、朝日260件、読売159件、毎日300件、産経73件。…ん?えーと、一番多いのは朝日ではなくて毎日?
それなら、まず俎上に載せるべきは毎日新聞だということになるはずだが、違うのだろうか。

だが、杉田氏は臆することなく朝日新聞の批判を開始する。

LGBTの権利を拡張し、差別を解消して多様な生き方をめざすことに対して、杉田氏はあからさまに疑義を呈する。今も差別などされていないと考えるからだ。そして、ありもしない差別を告発し、必要以上にLGBTを援護しているのが朝日新聞をはじめとするリベラルなメディアだと非難する。しかも、そうした過剰な報道が、結果としてLGBTの増加を助長しているのではないかというのが彼女の見方だ。国会議員がここまで真正面から多様性の推進を批判し、メディアの報道活動に対し敵意を見せるとは思わなかったので驚かされた。

結局のところ杉田氏はLGBTの存在自体を認めたくないのだということが、この論考を読むとわかる。LGBTとも「私自身は気にせず付き合えます」と一方では言いながらも、「なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう」というのが本心なのだ。根拠もロジックもなく、ただただ自身の解釈と主観が書き連ねられたこの論考の全編に、杉田氏自身の生の差別意識が漂っている。

LGBT差別はない、制度的にも問題はないという前提

この論考には暗黙の決まり事がある。日本におけるLGBTを取り巻く環境を以下のように認識しなければならないのである。

  1. 日本人はLGBTに対する差別意識を「そんなに」持っていない。
  2. LGBTに対する支援制度もまあまあ整備ができている。

明言されるわけではないので、気づくまでかなり戸惑うことになる。しかし、この2つを頭に叩き込んでおかないと杉田氏の言うことはほとんど理解できない。「はー?何を言ってるんだコイツ」となる。「仮にこうだとしたら」と頭にセットしてはじめて意見として承ることができるのだ。この論考を読むうえでの絶対的な前提と言っていいだろう。

ただし、論拠は示されないし、どう考えても現実に基づいたものではない。まやかし。だから鵜呑みにしてはいけない。この論考は一定条件の下でしか成立しない法則について述べているようなもので、その一定条件にあたるのがこれら2つの前提なのだ。そう考えればいい。

LGBTの生きづらさは個人的(私的)な問題?

LGBTの当事者の方々たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。…(中略)…これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。…(中略)…そこ(親の無理解)さえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。

杉田氏がLGBTにまつわる問題をどのように考えたいのかが、この文章からよくわかる。一見ソフトな口調だが、よく見るとかなり強引に話の方向を誘導しようとしていることがわかる。

LGBTの当事者にとって何よりも辛いのは親の理解が得られないことだ、ということを否定するつもりはない。たぶん真実なのだと思う。たとえば、素敵なパートナーと巡り会い、理解ある友だちに囲まれ、経済的にも大成功を収めたとしても、親に拒絶されたままだったら手放しで喜ぶことはできないだろう。

しかし、だからといって社会的な差別があってもかまわないと言う人が一人でもいるだろうか。詭弁というか、問題のすり替え以外の何物でもない。

そうやってLGBTにまつわる問題を個人の問題、親子関係の問題に封じ込めようとしているのだ。そして「そこさえクリアできれば・・・日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか」と一気に飛躍する。親子の確執さえ解消できたら、すべての問題は解決すると言っている。

では、親はなぜ理解してくれないのだろう。親の個人的な考え方だけで決まるものだろうか。橋幸夫より三田明が好きとか、自民党支持とか、持ち家主義(もしくは借家主義)とか、そういうレベルの問題なのだろうか。

そうではないだろう。

LGBTの親たちは社会の一員として生きている。その社会にLGBTに対する差別意識(偏見)が存在すれば、全員とは言わないまでも多くの人がそれに影響され、共有する。そう考えると、親たちが我が子を拒絶するのは、社会が拒絶するからだと言うこともできる。社会に差別意識が存在し、社会が理解しないから、親たちも理解できないのだ。

「理解」という言葉を使うからわかりづらいが、無理解とは多くの場合、差別そのものなのだ。所属する社会の中で共有されている差別意識が無理解を生むのである。

ならば、LGBTの当事者が親の無理解に苦しむということは、社会に広がる差別意識(偏見)に苦しむというのとイコールなのだ。家庭内でなんとかすべき問題とは言えなくなる。なぜなら、親たちも家庭の外の偏見と闘わなければならないから。親が理解してくれたとしても、家の外に「かなり生きやすい社会」が待ち受けているとは言えなくなるから。

杉田氏のように差別意識を無いものとしてしまうと(前提①)、こういう視点がすっぽり欠落してしまう。逆に、1つ目の前提を取っ払って考えると、LGBTの問題が個人(家族)の問題だなんてとても言えなくなるはずだ。社会全体の意識を変えていかなければ解決などできないのだ。

これこそ典型的な矮小化というやつだろう。

自分で乗り越えろ?

リベラルなメディアは『生きづらさ』を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。

個人の問題に何をガーガー言っているのかと言いたいのだろう。もちろん、問題視するほど日本の制度は悪くない(前提②)と思っているからこそ、改革を訴えるメディアをこうやって簡単に切って捨てることができる。杉田氏からすれば、見当外れにしか見えないのかもしれない。そんなことより、誰にとっても世の中は辛く理不尽なものなのだから、その辛さに耐え、それを乗り越える術を個人として学び取るべき、となる。

自分で乗り越えろ。いわゆる自己責任論だ。
しかし、これもLGBTの問題を個人の問題だと矮小化するから言えることに過ぎない。

「寛容な社会」?

ところで、LGBTの人権を守るための制度は本当に整備されているのだろうか?(前提②)

この件について杉田氏は、キリスト教国やイスラム教国に比べて日本はLGBTを迫害しない「寛容な社会」だったと述べるだけだ。今日における法制度の到達点にはまったく触れようとしない。まったく触れないままに合格点を与え、メディアが制度改革を訴えるのを頭ごなしに非難しているのだ。

残念ながら僕には知識がなくて、具体的な問題点を挙げたり国際比較をしたりして客観的な議論をすることはできない。

だが、少なくともこれだけは言える。

立法府に籍を置く杉田氏の姿勢がこれで良いはずがない。制度が整っているのならば具体的にそれを説明するべきだし、不備があるのなら改善に向けた道筋を示せばいい。それが彼女ら国会議員の役割だろう。だが杉田氏の少なくともこの論考における態度は、問題を隠蔽していると言われても仕方のないものだ。

蛇足みたいなものだが、前提②を取っ払って考えてみよう。日本の制度はまだまだ足りない部分があるとしたら?
当然、メディアが意識の啓蒙や制度改革に向けた論陣を張るのは正しい振る舞いだということになる。言いがかりなのだ。

生産性云々は言葉の綾?

ここまでの杉田氏の主張を僕なりにまとめるとこうなる。

  1. LGBTを最も苦しめているのは親が理解してくれないこと。
    制度的な差別ではない。
  2. つまり、LGBTの問題とは親と子が個人(家族)として乗り越えるべき私的・個人的な問題である。
    国の施策では解決できない。
  3. 親子の確執さえ解消できれば、日本はLGBTにとって生きやすい国である。
    差別意識もないし。
  4. メディアは火のない所に煙を立てている。
    制度もまずまず整っている。

極端に見えるかもしれないが、論旨から外れてはいないと思う。

このあとに登場するのが、あの有名なフレーズだ。

彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。

たしかに残忍な考え方だし、優生思想が見え隠れする。だが、僕はどちらかというとこれは言葉の綾に近いのではないかと思う。子育て支援や不妊治療などの少子化対策は税金を投入する「大義名分」がある、それに比べてLGBTは…という流れで出てくるわけで、少子化との比較だったから「生産性」という言葉を使ってしまっただけなんじゃないかと。

それより(と言うと語弊があるかもしれないが)、「税金を投入する」という言葉に唐突な印象を受けないだろうか。最初から気になっていたのだが、何に使うんだろう。

べつにLGBT専用の施設とか家屋を作れとは誰も言っていないと思う。LGBTが求めているのは、すでに在る制度を自分たちにも適用してほしいということが中心ではないかと思うのだが、違うのだろうか。それなら、法律や条令を改正するだけで済みそうなものなのに。あとは啓蒙活動用の教材的なものとか。いずれにしても金額なんて知れている。

まったくの推測だが、杉田氏は「税金」という言葉を使ってみたかっただけではないかと僕は思っている。税金という言葉に過敏に反応する人々が「LGBT≠国の案件」という彼女の主張に共感してくれるとにらんで。たぶん深い考えもなしに。その目論見が成功したかどうかはわからないが、まったく予期せぬ方向から大炎上してしまったというのが真相ではなかろうか。

「生産性」云々も怖い発想だが、杉田氏の怖さはもっと奥深いところにあると思えてならない。

個人的な問題から嗜好の問題へ

LGBTの問題を個人の問題へと矮小化した杉田氏は、次にLGBTの分断を図る。
T(トランスジェンダー)は障害だから支援の対象となるが、「LGBは、性的嗜好の話」にすぎないと主張。「個人」の問題からさらに個人の「嗜好」の問題へと貶めているのだ。

嗜好の問題ということは煙草や酒と同じレベルということになる。さらに性的嗜好となると…例を挙げるのは控えるが。要するに、税金をかけることはあっても税金で支援する対象ではないと言いたいのだ。

LGBTの存在そのものを否定しようとしている

LGBTの問題を「性的嗜好」の問題へと貶める一方で、杉田氏はメディアの責任も追求している。「性的嗜好」にすぎないものを擁護する報道を繰り返すことで、これの認知を広め、愛好者(?)を増大させる弊害を犯しているというのだ。LGBTを増やしているのはメディアだと言っているに等しい。

多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然と報道することが・・・(中略)・・・普通に恋愛して結婚できる人まで、『これ(同性愛)でいいんだ』と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

この中で杉田氏は男女の恋愛・結婚を「普通」と表現し、LGBTを「不幸な人」と呼んでいる。氏のLGBTを見る目をこれらの言葉が言い表している。次の言葉も同様だ。

なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。

本当に言いたかったのはこれだろう。杉田氏は男と女の二つの性しか認めたくないのだ。LGBTは普通ではない異常な存在。多様性などといって「不幸な人」を増やしているだけだと。

『常識』や『普通であること』を見失っていく社会は『秩序』がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。

杉田氏が人に優劣をつけて選別する思想を持っていることは明らかだ。優生学や選民思想と言うよりも原始的で感覚的なものかもしれないが、人の尊厳を軽視し、社会にとってのある種の価値で線引きして弱者を排除する論理を信じていることは間違いない。

おそらくこれは誰もが多かれ少なかれ持っている感覚で、成長とともに理性でコントロールする術を身につけ、また知性で徐々に矯正していくものではないかと思う。だが、杉田氏はそれを完全に怠っているように見える。弱者の側に身を置いた経験がないのか、あるいはたんに知性が足りないのか。

本人には自覚がないのかもしれないが、この論考で示されているのはほぼむき出しの差別意識である。それは無自覚だからと言って許されるべきでものではない。それを言うなら2年前に「津久井やまゆり園」で19人の障害者を刺殺した植松聖(さとし)被告も、本人からすれば善意の行動をとっただけである。

ちなみに逮捕後の植松被告の言葉をいくつか挙げてみる。

●「障害者は不幸しか作れない。いない方がいい」
● 重度・重複障害者は「人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在」
●「意思疎通がとれない重度・重複障害者は安楽死の対象にすべきだ」
●「重度・重複障害者を育てることが、莫大なお金と時間を失うことにつながります」

杉田氏のLGBTに対する考え方と根の部分は同じだ。

まして杉田氏は圧倒的多数を占める与党の国会議員である。影響力を持ち、一般の国民とは比べものにならない権力を手にしている。たとえ植松容疑者のような直接的な犯罪は犯していないとしても、同じような稚拙な(そして暴力的な)考え方を持ち、それを公の場で発言することは犯罪行為に近い行いだ。

それどころか、この論考はたんに植松容疑者と同じ考えを披露しただけのものではなく、杉田氏の行動宣言を含んでいる。LGBTを個人の(嗜好の)問題へと矮小化することで社会の枠組みから排除し、加えてメディアの報道にプレッシャーをかけることでその存在を不可視化しようという企てだ。社会からの抹殺を図るという意味で植松容疑者の殺人行為と同じ方向性を持つ行動が、すでに始まっていると言っていいのかもしれない。

知性を欠いた稚拙な考えだからといって、冷笑して済ませていると大変なことになる。
曲がりなりにもこの人は政権党の国会議員なのだ。
その国会議員が、どう考えてもあの残虐な殺人事件と同じようなことを始めているのだ。

【メモ】杉田氏の差別思想と差別的行動

優生学的発想(差別思想)

男と女のみが「普通」(正常)であるという認識。

  1. LGBTは正常ではない=「不幸な人」という捉え方。
  2. 「普通」「常識」を見失う社会は崩壊するという考え方。
排除の論理

LGBTを徹底的に見えない存在にしようとしている。

  1. 個人的(私的)な問題であるという主張を執拗に繰り返している。
    ・家庭内で解決すべき問題である(≠国家の案件)というミスリード。
    ⇒公的な施策の否定。
    ⇒公的な場面からの排除。
    ⇒家庭内に封じ込める。
  2. メディアによる報道の批判
    ・報道がLGBTの自己肯定を許し、新たなLGBTを生むという発想。
    ⇒報道がなければLGBTは無くなるという思い込み。