われおもうに

なぜ人間社会は弱者を保護するのか?という質問に対する神回答…Yahoo!知恵袋

弱肉強食が自然の摂理であるのなら、弱者は抹殺されてしかるべきでは?

2011年6月にYahoo知恵袋へ寄せられた質問とそれに対する回答。
僕がこのやりとりを知ったのは今から4年前の2014年のことだった。今も強く心に残っている。

優生思想的な考え方にどう反論したら良いのか。
感覚として、そして理性のうえでは間違っているとわかる。でも、それを信じ込んでいる人にどんな説明をすれば論破できるのだろうか。わからなかった。そんなとき、このやりとりに出会い、成る程と思った。

ただし、すべてを包括する究極の答えというわけではない。
「生存」=「子孫を残すこと」を前提とした、生物の生存戦略に限定した説明であり、障害者を肯定する論拠とはなっても、子どもを残さない人たちは蚊帳の外に置かれたままだ。その意味で危うさを孕んだ論理ではある。

とはいえ一読の価値があると思う。

【質問】irie120310さん

弱者を抹殺する。
不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。

自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。
でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?

文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。
ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。

優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。

【ベストアンサー】mexicot3さん

え~っと…よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません。弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません。虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています。

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自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です。
個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます。
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます。

個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません。
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです。

種レベルでは「適者生存」です。
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません。
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです。
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意。)

そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです。

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります。
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの…。

あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り。

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです。

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです。

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります。

「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります。

人間の生存戦略は…「社会性」。

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する。
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる”弱者”です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する…という戦略です。

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の”弱者”を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します。

人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました。

生物の生存戦略としては大成功でしょう。

(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません。)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ。
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です。遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です。

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません。

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです。

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから。)

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね。
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです。

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです。

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです。

「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです。

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです。

※句点を補ったり行間を詰めるなど、若干手直ししました。

 

最初にこれを読んだとき、たとえば下のような言葉が強く心に響いた。

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ。

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません。

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです。

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです。

目が見えないことが生存のための利点になる可能性だってあるという話も、目からウロコだった。要するに、今に生きる僕たちにはわかりゃしないのだ。

だが注意しなければならないのは、最初にも触れたように、生物の生存戦略という視点からの話しかされていないということだ。個人の障害を肯定的に捉えることができるのは画期的だと思うが、「生存」=「子孫を残すこと」を前提としているため、子どもを残さ(せ)ない人たちが完全に視野から外れてしまっている。

だから、LGBTは子どもを産まない、つまり「生産的」でないという理由で差別し抹殺しようとする杉田水脈議員の発言には、ここからは反論できない。ヘタをすると逆手に取られる危険性だってある。

質問者がどういう意図で人権の視点を除外するよう求めたのか真意はわからない。ただ、純粋に生物学的な観点からも何か言えたらいいのにな、と僕も思う。天賦人権説を否定する国会議員が驚くほどたくさんいる今の日本では、人権を振りかざしても、まるで糠に釘ということにもなりかねないから。