歴史のお勉強

「天皇の二つの顔」について、もう少し考えてみる

8月18日の「伊藤博文が作り上げた明治国家 〜天皇の二つの顔〜」についてもう少し考えてみたい。とりあえず思いついたことを思いつくままに書き散らすので、事実誤認や論理の飛躍も多い「妄想」でしかないと思うが。

ちなみに伊藤博文ら明治の元勲たちが行ったことの善し悪しは問わない。よくわからんし。

天皇がいなければどうなっていたか?

武士以外にとっては「お上」の首がすげ替わっただけ?

徳川幕府が倒れて明治政府が誕生したことを、武士以外の階級の人々はどの程度理解できたのだろう。自分があの時代の農民や町人だったとしたら、何が起こっているかまったくわからなかっただろうなあと思う。わからぬままに「とりあえず関係なさそうだからいいや」と受け流していたんではないかと。文字が読めなければ噂話が耳に入るだけだろうが、それで全貌が理解できるとはとても思えない。江戸の住民なら徳川が失脚したことはすぐにわかったかもしれないが、それだってせいぜい「薩長が天下を取った」という程度の認識だろう。将軍が徳川から薩長に替わった、つまり「お上」の首がすげ替わっただけだと受けとめた人がほとんどだったのではないだろうか。

身分制度がなくなるという点についてはどうだろう。農民と町民では意味合いが異なるのかもしれないが、それまでずっと支配される側にあった彼らが、ある日突然、支配者がいなくなると言われて理解できるものだろうか。青天の霹靂のようなものではなかったのか。結局、それまで藩に納めていた年貢を今後は国に納めろと言われて、「なんだ、殿様が替わっただけか」と理解し、それ以上考えようとはしなかったのではないだろうか。

明治政府の顔ぶれを見ても、徳川時代と何が違うのかほとんどわからない。幕政の中心にあった者や各藩の藩主は政府の中枢から排除されたのかもしれないが、その後釜に座ったのも同じ武士なのだから。しかも、彼らは幕末の動乱を通じて藩の名の下に力を振るっていた下級武士たちだ。事情を知らない庶民にとっては、主君の恩を仇で返した不忠者か、陰に隠れた昔の主君たちの操り人形と映ったのではないだろうか。

それまで絶対的な権力者だった武士が、「これからは武士の世の中ではない」と言いながら武士(と貴族が少々)だけで構成された新政府を開いても、言っていることとやっていることが一致しないのだから信用できないだろう。宴会でお偉いさんが部下に正座をさせ、お酌をさせながら「今日は無礼講だ」と言うのと同じだ。

このあと僕が長々と述べることは要約すると次のようなことだ。

明治維新というのは、日本を西洋諸国による支配から守るための革命だった。倒幕までの動きは権力を握っていた武士階級だけで進められたが、それをたんなる覇権争いに陥らせなかったのは、広く武士たちの間に尊皇思想が行き渡っていたからではないか。倒幕派だけでなく幕府内・佐幕派の間でもそれは教養として身についていた。すべての武士が天皇を敬うという共通の基盤の上に立っていたから、権力争奪戦(という側面はもちろんあったが)が混迷を極めることなく、比較的短期間のうちに体制の移行が実現した。

伊藤博文が作り上げた明治国家 〜天皇の二つの顔〜」で触れた「顕教」と「密教」のうち顕教の部分は、新政権への移行後、それまで武士の世界だけで共有されていた尊皇思想を国民全体に広げるための施策だったのではないか。

もちろん、褒められたやり方ではない。武士の場合は誰かに強制されたわけではなく、自らのアイデンティティを説明するものとして自然に選び取られていったものだったのに対し、これは半強制的にその思想を植え込もうとするものであり、洗脳と言っていいものだ。ただ、日本の独立を守るための新体制を日本人全体に理解させるには、可及的速やかにこの洗脳を成し遂げなければならない、そう考えたのではないか。

僕の妄想かもしれないし、小さな部分を無理矢理拡大して全体を語ろうとしているのかもしれない。でもまあ、とりあえず思いつくままに書き綴ってみる。

これがもし正しいとすれば、次のように言えることになる。
日本に天皇が存在しなければ、明治維新は成立しなかったのかもしれない。

日本に天皇という存在がなくても武家社会は誕生したかもしれないが、天皇がいなければ武家社会を終わらせることはできなかった。少なくとも明治維新のような形で世の中が変わることはなかっただろう。

維新の鍵は「尊皇」思想

明治維新とは、当時においては武士による武士のための革命でしかなかったはずだ。被支配層のほとんどは流れに身を任せていただけだろうと思う。上にも書いたように、その意味を理解することさえ難しかったのではないだろうか。

でも考えてみたら、幕末の志士たちも最後はわけがわからなくなっていたのではないかという気がする。それくらい大きなどんでん返しが途中で起こっているからだ。

たとえば犬猿の仲だと言われていた薩摩と長州が手を結ぶ(薩長連合)なんて、150年後の僕たちから見ればドラマチックで痛快だけれど、薩長それぞれの藩士にとっては「なんだそれ?」という話だったろう。今で例えるなら、日米安保条約を破棄して北朝鮮と同盟を組んでアメリカと戦うっていうのに近いかもしれない。

「尊皇攘夷」という言葉も罪深いと思う。(たぶん)幕末の志士たちの旗印のような存在だったはずだが、いつの間にか方向が大きく変わっていた。薩摩も長州も開国論に鞍替えしてしまったからだ。これだって、ついて行けない志士が多かったんじゃないだろうか。

「尊皇」と「攘夷」については、僕自身も最近までよくわかっていなかった。たとえば幕府も尊皇だったということがどうもピンときていなかった。

「尊皇」は、うっかりすると倒幕派の専売特許のように勘違いしてしまうが、実際は倒幕・佐幕に関係なく当時の武士が共通して抱いていた思想だ。というか、倒幕側よりむしろ幕府の中で強く支持されていたと考えるべきだろう。もともとこの思想は水戸学から生まれたものなのだから。水戸藩は徳川御三家の一つで、しかも徳川慶喜はその水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭の子どもなのだ。当時これをもっとも強く信奉していたのは将軍慶喜だったとさえ言えるかもしれない。幕臣の中には早くから大政奉還論を唱える者もいたというから、慶喜個人の特性と言うわけではなく、幕府全体にしっかり根を張っていたと考えて間違いないだろう。

「攘夷」はどうか。

これも倒幕派が幕府への批判として声高に叫んだという印象が強いが、別に彼らのオリジナルな主張というわけではない。なんと言っても「鎖国」を始めたのは徳川幕府なのだから、幕府こそ外国を遠ざけたかったに違いない。しかし、ペリーの圧力に屈して譲歩せざるを得なかったのだ。そこを倒幕派が突いてきた。幕府にすれば相当歯がゆかったのではないだろうか。それを言い始めたのはオレたちだ、と言い返したかっただろう。と同時に、相手がいかに井の中の蛙であるかもよくわかっていたはずだ。

案の定、このあと実際に外国との交戦を経験した薩摩と長州は、幕府と同様あっさりと開国論に転じる。結局、慶応元年(1865)の段階で、維新の主要なプレーヤーはすべて攘夷を捨ててしまっていた。まあ、だからといってそれぞれの組織の末端の人々までこれについて行けたかというと、僕にはそうは思えないのだが。

いずれにしても、倒幕派も佐幕派も天皇を崇敬していたし、開国をやむを得ぬものと考えていた。ちょっと不思議な気もするが、最終的に両者とも「尊皇開国」で一致していたということだ。言い方を変えれば、政策という点では幕府ははじめから大きな間違いを犯してはいなかったのだ。間違っていたのは倒幕派のほうで、幕末にいたってようやく幕府の考えに追いついたと見ることもできる。違うのは誰がどのような形で統治するかという点だけ。見ようによってはただの覇権争いだ。だが、不毛な天下取りに終わらず、日本の歴史を画する大変革として展開していった。

で、この明治維新という大変革が成功した鍵は何だったのかというと、「尊皇」が武士に共通の思想であったということなのではないかと僕は思う。

…ただの決めつけです。論証なんてできません。

主君に忠誠を尽くすとか親を敬うというのと同じように、武士たちの頭の中に尊皇思想が刷り込まれていたということ。だから、「錦の御旗」を争うというゲームが成り立ったのだし、徳川慶喜はあっという間に戦意喪失したのだ。それがなければ、どこまでも力と力をぶつけ合う消耗戦が繰り返されたはずで、社会の仕組みを変える大変革などけっして成し遂げられなかったのではないかと思う。

しかし、これはあくまでも偶然の産物であって、誰かがこうなることを予想して尊皇思想を広めたわけではない。武士の間に自然に広まったものが結果的にこうした状況をもたらした。究極の結果オーライと言えるかもしれない。

幕末の成功事例のヨコ展開?

で、維新後…。やっと8月18日の内容にたどり着いた。

明治時代になると政府は、国民一般に対しては天皇の絶対性を徹底的に教えこんだ。初等教育ではそれしか教えなかったし、さまざまな皇室行事によってそれを派手に視覚化し、リアリティを持たせた。そして、勃興し始めたメディアが報道することによってそれは増幅され、全国に行き渡った。洗脳と言っていい内容だが、おそらく伊藤博文らが求めた以上の成功を収めたと言えるだろう。

ヨーロッパ諸国を視察した伊藤たちは、西洋社会におけるキリスト教に代わるものとして天皇制を活用しようとしたと言われている。ドイツ(だったかな)の専門家からは仏教をそれに当てるようアドバイスされたらしいが、彼らは尊皇思想(=天皇の絶対性)を選んだ。

もしかしたら神道を選んだとするのが正しいのかもしれないが、僕は神道でも天皇制でもなく、尊皇思想を選んだと考えるほうがわかりやすいと思う。神道というと、古来からの八百万の神もあれば神社神道もあるし、また当時は神仏習合が常態だったから何を指すのかぼやけてしまう。僕は、伊藤たちがイメージしたのは幕末の武士階級に共有されていた「尊皇」思想だったはずだと思う。
※ナントカ神道という体系的な宗派のようなものがすでにいくつかあったから、あるいはある特定の宗派を選んだのかもしれない。今のところ詳しくは知らない。

(僕の妄想かもしれないが、)尊皇思想を武士が共有していたから明治維新が成った。
だとすれば、キリスト教に当たるものはすでに存在したのだ。次はそれを庶民も加えた国民全体に行き渡らせればいい。言うならば幕末の成功事例のヨコ展開だ。

武士の場合は(西洋におけるキリスト教と同じように)生活史の中で自然と共有されたものだったが、武士以外の人々にとっては未知の教えだった。だから布教活動が必要になる。それが「顕教(=天皇の絶対性)」の教育・宣伝だったというわけだ。

もちろん、彼らは皇祖皇宗とか天壌無窮と言われる天皇家の伝統を本気で有り難がっていたのかもしれない。(この点はもっとしっかりと調べてみる必要がある。)だが、思いの強さはどうであれ、西洋におけるキリスト教に当たるような国民の精神的支柱となるものをあの時点で戦略的に選ぶとしたら、やはり仏教ではなく尊皇思想だろうなと思う。仏教は、そして仏教と半ば一体化した神道も、国民の暮らしの中に十分に定着していたが、だからと言って彼らが取り組もうとしていた「国の建設」の動機付けには役立ちそうにないからだ。

明治維新の目的はとてもシンプルで、日本を外国の侵略から守ることだった。そのためには幕藩体制は構造的に限界に来ていて、中央集権的な軍事国家に作り替えなければならない。他にもいろいろな要素を持つ重層的で総合的な大革命だったかもしれないが、それらはすべて、日本の独立を守るという中心課題を実現するために付け加えられていったものにすぎないと考えるべきだろう。

そう考えれば、明治日本の精神的支柱となるのは、武士たちによる維新を支えた尊皇思想以外にはありえなかったことがわかる。

最優先課題は日本の独立の保持

江戸幕府から明治政府への政権交代は日本の社会構造を大きく変えるものであり、かんたんに安定がもたらされたわけではなかった。武力による反乱は西南戦争を最後に途絶えたが、政府に反旗を翻す者がいなくなったわけではない。薩長以外の出身者を中心に自由民権運動が起こり、言論による反政府運動が盛り上がりを見せた。メディアもこれと軌を一にして発達したから、言論が伝播する力がかつてないほど大きくなった。政府としてはけっして無視できるものではなかっただろう。

幕末モノのテレビドラマや時代小説をぼんやり眺めていると、つい今日的な感覚で、彼らは身分差別のない近代的な世の中を目ざしたんだと勘違いしてしまう。でも、それが彼らの目的だったとしたら、言論活動が活発になるのは喜ばしい現象だということになる。(批判は自分たちに向けられているんだから、うれしくはないだろうが。)封建社会では誰も「お上」に文句など言えなかったのだから、素晴らしい前進だ。

だが、彼らにとっての最優先課題は、日本を西洋列強の侵略から守り、独立を保つことだった。倒幕がそのための第一歩だったが、自分たちが天下を取ればなんとかなると自惚れるのではなく、日本が一つの国家として一致団結しないと対処できないと考えたところに彼らの偉さがある。分権的な幕藩体制に代わる中央集権的な新しい体制を確立しなければならないと考えたのだ。

版籍奉還、廃藩置県、廃刀令、身分制度の廃止をはじめとする一連の改革は、そのような侵略に負けない国を作るために必要な措置として考え出されたものだ。まずは日本の独立を守ることが先決であり、そのためには主従関係に縛られた幕藩体制を破壊し、広く日本全国から人材を登用する必要があると考えた。けっして人々に自由を与えるために社会の改造を図ったのではない。

自由とか平等とか民主主義といった概念は二義的なものにすぎなくて、あくまでも「国家」としての日本にしか関心がなかった。

で、思う。
これって今の安倍自民党とか日本会議と同じだな、と。
まず国在りきなのだ。人権とか公正さとかいうものは二義的なものとしか考えていなくて、国を守るのに役立つ範囲でのみ認められるという考え。

江戸から明治へ転換するときは、それでも画期的な変化をもたらしたが、21世紀の今だと個人にカセをはめることにしかならない。

独裁も内戦も避けたい

五箇条の御誓文(1868年)の最初の項目「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を見るとつい今日的な民主政体を想像してしまうが、これは徳川幕府のように限られた一族による権力の独占を許しちゃいかんという意味だ。征夷大将軍とその家来という固陋な主従関係ではとても外国に太刀打ちできない。だからそこに逆戻りしてはいけないと。

また、幕藩体制には、外国との対抗上どうしても解消しなければならない致命的なネックがあった。幕府と各藩がそれぞれに兵力を持っていたことだ。この結果、薩摩や長州が藩単独で外国と戦うというバカげたことも起こった。徳川家の圧倒的な力を背景として国内の平和は長期間維持できたが、可能性としてはいつでも武力を伴う反逆が起こりうるということでもあった。これでは外国に勝ち目がないのはもちろん、もし内乱が起これば、漁夫の利を得るのは間違いなく外国だろう。国軍に統一し、戦力を集中しなければならない。

これらの変革は、武力で徳川を討てば達成できるというものではない。中央集権的な統一国家を作るということは、幕府だけでなく藩も消滅するということだ。武装解除もしなければならない。それを権威も正当性も虚ろな元下級武士が先導して成し遂げるのは至難の業だ。ついこの間まで藩主だったり彼らの上司だったりした人たちは不安に苛まれていただろうし、その他大勢の武士たちも深刻なアイデンティティの危機に瀕していたはずだから。

いつどんでん返しが起こるとも限らない。でも、自分たちは大局を見て正しい道を進んでいる。ここで改革の手を止めるわけにはいかない。

救いは天皇の存在にしかなかったと言えるだろう。…これも独断です。

まず、自分たちが持ち合わせない権威と正当性を補えるのは天皇しかいない。人口のほとんどを占める農民、町民に知られていないと言ってもそれは仕方がない。それらしい物語を持っているのは天皇しかいないのだから。今さらたとえば西郷隆盛が釈迦の生まれ変わりなどというストーリーをでっち上げるわけにはいかないだろう。

また、何よりも重要でなおかつもっとも困難な課題は、300を超えるすべての藩を武装解除し国軍に統一することだが、これを成し遂げられるのも天皇以外にいない。「官軍」の新しい定義を宣言し周知すること以外に方法がないのだ。

武家社会は武力によって権力者が決まる社会だった。武力ですべてが決まったから、必然的に一人の強者(徳川家)が権力を独占することを可能にした。だが、圧倒的な武力を持つ徳川家を意気阻喪させたのは、それに勝る武力だったわけではない。「賊軍」の汚名だった。現実の武力そのものも重要な役割を果たしただろうが、それよりも強い威力を発揮したのは「官軍」の名だったということだ。

そして、仮に権力抗争が起こった場合、不毛な消耗戦に待ったをかけられるのも天皇をおいていない。これは倒幕をめぐる抗争で証明済みだった。天皇を押し戴く精神が最悪の事態を防いでくれる。

だから、まずは「天皇」を庶民も含めた日本人共通の価値基盤にしなければならない…。

え〜っと、切りがないのでここまでとします。
意味のあることが言えているのかどうか、まったく確信が持てないままですが。
国会開設などこの時代の民主的な制度についても、中央集権的軍事国家を作るためのおまけみたいなものだったのかな、という話をつづけようかと漠然と考えておりましたが。