本/映画

三上智恵・大矢英代『沖縄スパイ戦史』

2018年日本
ドキュメンタリー
監督:三上智恵・大矢英代

沖縄戦——陸軍中野学校がもたらした悲劇

「スパイ」が意味するもの

タイトルから想像していたのは「沖縄の人がスパイ扱いされて日本兵に殺される」という話だったんだが、想像をはるかに超える内容だった。その手の話も出てくるけれど、タイトルに掲げられた「スパイ」が意味するものは、そうした具体的な悲劇の裏にある、もっと本質的で薄気味悪い事実のことだった。

沖縄にはそれなりに関心を持ってきたつもりだし、6月には実際に足を運んで、摩文仁の平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式の様子もこの目で見てきた。「集団自決」とか「ひめゆり学徒隊」とか「鉄血勤皇隊」など、沖縄戦の悲劇を象徴する言葉はひととおり知っている。でも、この映画を観終わったあとでは、どれもステレオタイプな理解しかできていなかったんだなあとつくづく思う。「日本陸軍対沖縄県民」という図式とか、子どもまで巻き込む戦争の悲惨さとか、軍国少年・少女の純粋さとか。

この映画に登場する「護郷隊」「戦争マラリア」「スパイリスト」を僕は今回初めて知った。しかし、沖縄戦の悲劇の具体例がただ知識として増えただけではなかった。映画ではさらに、これら3つに(スパイリストは違ったかも)共通する背景が明らかにされる。いずれも仕掛け人がいて、それが陸軍中野学校出身の将校たちだったと言うのである。

陸軍中野学校とはWikipediaによると、「諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍の軍学校(実施学校)で情報機関」。つまり陸軍のスパイ養成所。ここで訓練を受けたプロのスパイ将校が沖縄に送り込まれ、これらの悲劇を引き起こした。タイトルの「スパイ」は主に彼らのことをさしているのだ。

ただし、「スパイ」というとどうしても諜報のイメージが強いが、彼らが学んだのはそれだけではなく、防諜、謀略、ゲリラ戦などを含む「秘密戦」全般だった。正規の軍隊が敵と武力で対峙するのと平行して、その裏側で展開されるあらゆる工作を担ったのが彼らだと言うべきだろう。

沖縄戦当時、42名の陸軍中野学校出身者が沖縄に送り込まれていた。

悲劇

映画のストーリーを辿れるほど細かく覚えてはいないから、Wikipediaなども参考にしながら、取り上げられた出来事について一つずつふり返ってみる。

護郷隊

1944年に沖縄で組織された少年兵部隊で、正規の召集年齢(17歳)に満たない14歳から16歳までの少年を集めて秘密裏に編成された遊撃隊。二人の陸軍中野学校出身の将校(村上治夫大尉および岩波壽大尉)が隊長となって2個隊を組織し、本島北部でゲリラ戦を展開した。米軍の弾薬庫や食料庫に夜襲をかけたり、進軍を防ぐため橋を破壊したり。住民の子どもだと油断した米兵に近づいて殺傷したりすることもあったらしい。

総数約1,000名。そのうち160名が戦死したと言われる。

戦争マラリア

波照間島には正規部隊は配置されていなかったが、1945年2月、陸軍中野学校出身の酒井喜代輔軍曹が投入され、小学校の代用教員として偽名(山下虎雄中尉)で暮らしはじめた。子どもたちに慕われる良き教師だったが、やがて司令部から島民全員を西表島へ疎開させるよう命令が下ると、渋る住民には軍刀をふるうなどして強制移住を断行した。

しかし、当時の西表島はマラリア感染地域であり、移住した人々の集団罹患が発生した。波照間住民のマラリア罹患率は99.7%(99.8%とする場合もある)、死亡率は30.09%との記録がある。つまりほぼ全員が罹患し、その三分の一弱が死亡したのである。

また、島民が飼育していた牛馬、羊や豚や鶏などは離島前にすべて殺処分された。それらは燻製にされ、軍の食料に供されたという。もともとそれを目的とした施策だったという説もある。

スパイリスト

摘発すべきスパイのリストを住民自らが作っていたという話。この件には陸軍中野学校は絡んでいないのかもしれないが、おそらく二人の監督がどうしても取り上げたいと考えていた問題だと思う。スパイ狩りは軍隊だけで行ったわけではなく、沖縄県民も協力したという事実。日本軍が加害者で県民は被害者という単純な図式だけで沖縄戦を語ることはできないのだ。

映画の中ではたしか「裏の軍隊」という表現もされていたが、地域の有力者を集めて「国士隊」という組織が結成される。目取真俊氏のブログ『海鳴りの島から 沖縄・ヤンバルより』から孫引きさせてもらって、『沖縄大百科事典 中巻』(沖縄タイムス社)に書かれている説明を引用する。

「沖縄戦における軍民一体の協力機関として、宣伝・防諜・諜報・謀略を任務とする秘密組織。1945年(昭和20年)3月、本部町で宇土部隊の指導のもとに、各地の有力者を集めて結成される。 …中略… 隊員は、担当地区の一般民心の動向に注意し、とくに①反軍、反官的分子の有無、②外国帰省者の二世三世のなかの反軍、反官的言動をなすものの有無、③反戦、厭戦気運醸成の有無、④敵侵攻にたいする住民の決意の程度、⑤一般住民の不平不満言動の有無などを秘密のうちに調査し報告することを任務としていた。軍の強制力でもって、住民の側から自発的、積極的な戦争協力を引き出すための体制であったが、結果はスパイを創出する空気を助長した」(『沖縄大百科事典 中巻』102ページ)。

住民のリーダーたちに地域全体を監視させるシステムだ。そして、疑わしい住民のリストを作成させる。移民帰りの人やその二世・三世などが外国語を話せるのは当然の話なのだけれど、それだけでリストに載せられるケースもあったらしい。「スパイを創出する空気」とあるのは、具体的な根拠などなしにリストがつくられていったことを意味するのではないだろうか。そのリストが軍に提出され、それに従って日本兵が「スパイ」を虐殺する。虐殺に住民が加わった例もあるという。

そうした監視システムの下では、誰かを告発しなければ自分がスパイにされるのではないかという恐怖が湧くだろう。目の前で行われる虐殺をただ傍観しているだけでは、自分もスパイの仲間だと誤解されはせぬかと不安が募る。疑心暗鬼の連鎖。自分の無実を確保するために誰かを犠牲にする…そういうことにも罪の意識を感じなくなってしまうのではなかろうか。

当然のことながら関わった人々はみな口を閉ざし、証言する人が現れるようになったのは当事者たちが亡くなってからだった。だが、たとえ目撃しただけであっても、地元で起こったことである以上、複雑な思いが伴う。映画の中でも急に感情を露わにして抗弁をはじめた方がいた。<やらなければ次は自分がスパイにされる><今だからそんなことが言えるんだ>といった内容だったと思う。

おそらくいくつもの同じような出来事が語られずに埋もれていることだろう。沖縄戦は、(極端な言い方をすれば)少なくともその一部は住民が住民を虐殺した戦争でもあったのだ。しかし、この映画はそうした加害事実を暴き立てて責めようとしているのではない。この映画が訴えているのは、それが戦争だということだ。

戦時下の国民は守るべき対象ではなくて邪魔者

軍隊は国民を守らない

陸軍中野学校出身者を沖縄に送り込んだのはもちろん大本営だ。軍中央が秘密戦のプロにそこで何をさせたかというと、ゲリラ部隊の編成、一島丸ごとの土地の接収と食料の略奪、(彼らが直接関わったかどうかはわからないが)住民による住民監視システム作りとそれに基づくスパイ刈りだった。

日本軍が沖縄県民のことを守るべき対象とは考えていなかったのは明らかだろう。道具として利用しただけだ。たとえ道具だったとしても、沖縄を守るための道具であればまだ救いがあっただろう。だが、そうではなかった。沖縄県民は沖縄以外のものを守るための道具として使われただけだった。

たまたま沖縄が日本の最南端に位置し、米軍がそこから上陸を始めたのだから仕方がないと言うこともできるだろう。沖縄で食い止めることができれば日本の大部分を守れるかもしれない。そこまでは望まなくても、時間稼ぎができればそれだけ本土決戦の準備ができる…。

でも、本当にそうだろうか?

もし沖縄のあと米軍が九州に上陸していたら、どうなっていただろう。九州に住む人々は、同じように九州以外の地域を守るための道具となり、捨て石とされただろう。中野学校出身者は沖縄だけでなく、全国各地に配置されていた。全国で同じような準備がはじめられていたのだ。

いったい何を守ろうとしていたのか。国民でなかったことは確かだ。

国民はスパイ予備軍?

日本の軍人は、戦陣訓の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という教えを徹底的に叩き込まれていた。言い出したのが東条英機らしいから、時代錯誤の武士道精神なのかなと思っていたのだが、捕虜の口から情報が漏れることを恐れていただけなのかもしれない。もしそうだとしたら、軍人をまったく信用していないうえに武士の情けも微塵もなかったということか。捕虜になった時点でもう用はない。残るのは情報漏洩するリスクだけ。だから死ねと。

日本軍が罪深いのは軍人だけでなく国民にもこれを求めたことだ。その結果、多くの沖縄県民が集団自決などによって自ら命を絶った。

このことからも、軍隊とは国民を守るものではないということがよくわかる。国民は守るべき対象ではなく、ただの道具。そして、道具として使えなくなったときの国民は、ただのスパイ予備軍でしかない。武装していないのだから、目の前に敵が現れた途端に情報漏洩者になる可能性もある。つまりリスクそのものだ。任務を遂行するうえでは邪魔者でしかないと考えていたのではなかろうか。

国士隊を作らせ、スパイリストを提出させるという発想はその証明だと思う。

これ、外国ではどのように考えられているのだろう。
基本的にはどこでもいっしょだと思うのだけれど。

そして、この点は自衛隊も米軍も同じだろう。軍隊は敵と戦うためにあるのであり、国民を守るためにあるのではない。相手から攻撃を受けたときは、目の前の国民ではなく軍を守ろうとする。軍を守るために国民が邪魔になれば、ためらうことなく殺すだろう。それが軍隊というものなのだ。

(2018年9月25日KBCシネマにて鑑賞)