本/映画

大塚英志『感情化する社会』

「感情化する社会」というタイトルを見た瞬間に惹きつけられた。前からなんとなく感じていたことを、この言葉が言い当てているように感じたからだ。

日本人は“論理的であること”を嫌う(?)

“論理的である”ということを日本人は嫌悪する傾向があるのではないか−−−最近こんなふうによく感じる。

「理屈っぽい人」の話ではない。理屈っぽい人が敬遠されたり嫌われたりするのは僕にだって分かる。しかし、論理的であることと理屈っぽいこととは違う次元の話だ。論理的に考えるのは、誤りを避けるための一番の近道のはずなのに、それが屁理屈をこねることと混同されてしまっているように感じられてならない。

政治家たちを見ているとまさにそう感じる。論理的なのは明らかに野党議員のほうで、政府与党や政府委員(役人)は「ご飯論法」と呼ばれるすり替えや誤魔化し、おとぼけや答弁拒否を繰り返し、挙げ句の果てに当事者能力の無さをさらけ出す大臣が何人もいるのに、内閣支持率や政党支持率に大きな変化はなく、選挙があれば与党が勝つ。

何なんだろうと思う。
もちろん論理的であるかどうかではなく、別の(重大な)要素が働いているのかもしれない。それならそれで、その別の要素を知りたいものだ。

ツイッターなんかでも同じことを感じる。正論が支持されるとは限らない。それどころか正論に対して猛烈に噛みついてくる輩がいる。一見エビデンスを示して反論しているように見えるものもあるが、とにかく敵意に満ちていて、建設的な議論をしようという姿勢ではない。相手を攻撃し、貶めることが目的なのは明らかだ。研究者などの専門家に対してもお構いなしで、対等の立場(というか上から?)で攻撃を加えるからすごい。いや、もちろん研究者の言うことがすべて正しいと言いたいわけではないが、その全能感はどこから来るのかと違和感を感じざるをえない。

で、僕には正論と感じられるのに猛烈な攻撃にさらされる投稿というのは、多くの場合、「左翼」「自虐史観」などというレッテルが貼られる。と言うよりは、あらかじめ書き手に対してそうしたレッテルが貼られている場合がほとんどだろう。問題の本質はそこにあるのかもしれない。しかし、それにしても、言葉の応酬において真摯に論理的に発言しているのがどちらかは一目瞭然なのだ。つまりまったくフェアな戦いではないのに、正論が勝利して気持ちよく勝敗が決することはほとんどない。

これはいったい何なんだろう。
少数の頭のヘンな人たちだと言うのは簡単だが、時に彼らが信奉する論者の発言に何百何千もの崇拝者の従順な言葉がぶら下がっているのを見ると、驚くとともに脱力せざるをえなくなる。

繰り返しになるが、論理的かどうかの問題ではないのかもしれない。
でももしかしたら、正しいことを言おうとするとき、論理的であることはかえってマイナスに働くのではないかという疑念は消えない。

例として適切ではないかもしれないが、刀を振り回しながら「話しあおう」と言っているような。刀を収めなければ相手が耳を傾けてくれるわけなどないのに。

まあ、こんなことを考えてモヤモヤしていたのだ。

ネトウヨのように牙はむかないまでも、論理的に話す人を目にすると胸の内で不快に思い、拒絶し、疎んじる人がこの国では多数派なのではないか。何が起きても自民党や安倍内閣の支持率が減らない謎も、そう考えると少し理解できるような気がする。安倍批判者がいくら正しいことを言っても、論理的な言い方をするとそれだけで耳を塞がれてしまう。だとすれば、論理性に欠ける(そして知能も品格もない)安倍氏をいくら論理的に批判しても多くの国民には届かないということになる。なんとも皮肉な話だけど。

「日本人」「この国」という言い方をしたが、日本だけの問題ではなくて世界的な潮流なのかもしれない。アメリカでも外交を「ディール」扱いし自国第一主義を唱えるトランプ大統領が誕生し、ポスト・トゥルースとかフェイクニュースが象徴するように明らかに社会の有り様が変わってきた。

人類の叡智として築き上げられてきた数々の理念がいとも簡単に否定され、切り捨てられてきているように感じる。その後に残るのは、個々人の利害と、宗教のような主観的思考だけではないのか。

とにかく……
正しいことを、これが正しいのだと理路整然と説いても通じないのではないか。
昔からそうだったのに気づかなかっただけなのかもしれないし、どこかでそれなりの転換点があって今があるのかもしれない。
よくわからない。モヤモヤする。

そんな時にこの本のタイトルを目にして「おお!」と思ったわけである。

当然の話だけど、著者の問題意識と僕のモヤモヤが完全に一致するはずはない。だから、残念ながらこれ一冊ですべて解決!というわけにはいかなかった。でも、とても示唆に富んだ本であったことは確かで、読んで良かったと思う。

第一部 感情化する社会 メモ

この本は第一部「感情化する社会」、第二部「感情化する文学」の二部構成になっていて、もともと著者は第二部の文学のほうを論じたかったらしい。AI時代の到来により文学が大きく変わるという話なんだが、刺激的ではあったけれど、僕は著者のこれまでの主張もよく知らないし(名前は知っていたけれど著作を読むのは初めて)、AIやネット周りの知識も乏しくて、正直あまり入り込むことができなかった。やはり「社会」についての論考のほうが興味深かった。

第一部は二章から成っていて、第一章は「感情天皇制論」、第二章は「物語労働論 webの『新しい労働問題』をめぐって」。僕の疑問を直接的に掘り下げてくれたものとは言えないけれど、さまざまな考えるヒントを与えてくれた。

感情天皇制

「感情化」とは

この本の冒頭で著者は2016年8月の天皇の「お気持ち」を取り上げている。憲法上の制約を踏み越えたと言えるこの意思表明を、国民は「感情」として受けとめただけだった。しかしその結果、皮肉なことに極右的な安倍政権の頭越しに天皇と国民とが一体化したと指摘する。そして「感情化」という言葉を次のように定義している。

このような「感情」が私たちの価値判断の最上位に来て、「感情」による「共感」が社会システムとして機能する事態を本書では「感情化」と呼ぶ。
(P13)

かつてアダム・スミスは(というか、多くの人々が)、感情を野放しにするのではなく、自他の感情から一歩離れたところに「道徳」を生むのが人間だと信じていた。

その意味で「感情化」とは、「感情」が「道徳」(広義の規範や公共性)を形成する回路を失った事態を指すと言ってもよい。
(P14)

今上天皇は「象徴天皇制」というものに対する自分の解釈を表明し、それは憲法上の天皇の権限を越える行為だったのに、多くの国民はそれを感知することさえなかった。天皇の問題提起に気づくことなく、ただ天皇の感情の部分のみを汲み取り、それに「共感」して済ませてしまったのだ。そこには明白な「ディスコミュニケーション」がある。だが、今上天皇が表明し、また実際の行動で体現してきた象徴天皇制の定義もまた、国民の「感情」に「共感」し続けることだった。「国民に寄り添う」という言葉もよく使われてきたが、要するにそういうことだ。政治的であることなしに「国民統合の象徴」であるためには、まあそれ以外に道はないのだろう。その意味で象徴天皇制とは「感情天皇制」なのだと著者は言う。

しかしその結果、国民にとって天皇とは、自分たちの「感情」に「共感」してくれる存在でしかなくなってしまった。そうなると、天皇に求められるものは「感情労働」に他ならないということになる。

「感情労働」

このような象徴天皇制に見てとれる「機能」、つまりひたすら相手の「感情」を汲み続ける行為を「感情労働」と呼んだのは北米の社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールドである。つまり、象徴天皇制の本質とは「感情労働」にほかならないのである。
(P26〜27)

「感情労働」という言葉はツイッターなどで目にしたことはあったのだが、語義を調べることなく読み流していた。でも、今日の社会を考えるうえでとても重要な概念だと思う。

ホックシールドはポストフォーディズム的社会、脱工業的社会では「労働」は単純な「身体労働」や「頭脳労働」に対して、「感情労働」という領域が見えない形で成立している、とする。
(P27)

彼は飛行機の客室乗務員の「労働」と雇用主による「感情管理」の分析から「感情労働」において雇用者に労働者の感情が管理されることを新しい疎外の形式と考えた。つまり労働者は、「肉体」だけでなく、「心」も労働として管理されるのである。

(略)

「感情労働」が問題になるのは、(略)身体どころか精神までが資本主義システムに組み込まれてしまうこと、そしてそれがしばしば無償労働である、ということの二点だ。

(略)

肉体労働としての作業や身体の拘束、時間の切り売りの対価は払われても、「感情労働」の部分は奉仕的精神的な美徳としてしまうことで曖昧化される。
(P28〜29)

象徴天皇制というのはいろいろな意味での妥協の産物だったのだろうが、結果として天皇が「感情労働」だけを求められる存在になってしまったのだとすると、これもあの戦争が生んだ一つの悲劇だと言うべきなのだろう。

でも考えてみたら、終戦まではすべての日本人が「感情労働」を求められていたと言えないだろうか。求めたのは雇用者ではなく(天皇も含む)国だったが。

国民は、旧来の天皇制の解体によって一旦は「感情労働」から解放された。しかし今、産業構造の変容によって再び「感情労働」を強いられる立場に置かれているわけだ。そして我々はすでにその状態に慣らされてしまっている。

私たちはいまや私たちの表出するものが全て感情としての形式を求められ、そして感情として私たちの前に差し出されたもののみを受けとめる。そのように自らが望み、そうなった。webでも現実でも提供されるサービスの全てが私たちに快適であったか否か、つまり「感情労働」としての相手を評価することが日々求められる。
(P46)

その結果、私たちは「感情」に対して理性的でありえることばを政治からもジャーナリズム、文学にいたるまでことごとく葬っている。私たちは私たちに心地良い感情を提供することばしか、政治にもジャーナリズムにも文学にも求めず、そのユーザーの要求に彼らはいとも簡単に屈した。
(P47)

私たちは無意識のうちに他人に「感情労働」を求め、それがおこなわれない場合や、おこないえない人々を「悪」と見なす。

他国に対する態度も同様であり、私たちが他国という他者をどう理解するかではなく、「外国人」が私たちをいかに心地良くしてくれる言動をとるかで判断される。
(P48)

分かり易すぎる嫌いもあるが、とてもしっくりとくる。隣人も他人も天皇も外国人も、すべて他者は自分を心地よくするために存在するという傲慢な考え方。その一方で自分もすべての他者に心地良さを与えなければならないという息苦しさもあるはずで…。

問題はさらに奥深い。

物語労働論 webの『新しい労働問題』をめぐって

新しい、見えない「搾取」

著者大塚英志はかつて「物語消費論」という考え方を唱えていたらしい。(知らなくてすみません。でも、このネーミングも魅力的。)消費社会論全盛の頃で、また記号論が台頭した時期でもあったみたいだ。だが当時は「労働」という視点が欠如していたとふり返っている。

一言で総括するなら、ぼくが「かつて」の批評的エッセイのなかで見出せなかったのは、「消費」という行為そのもの、あるいは人としての感情の発露そのものが「見えない労働」として企業ないしは社会システムに搾取され、言うなれば人は充足しながら疎外されていくという「新しい労働問題」の所在である。
(P56〜57 太字イタリックは原文では傍点)

「物語消費論」は「物語る」ことが代表する「創作的な行為」が「管理された消費」に変質していく可能性を指摘したものだ。当時のぼくはそのことで「作者」という既得権が揺らいでしまっていい、と考えていた点ではポストモダニストであったが、同時に何度でも繰り返すが、これは電通や当時の角川書店のために書かれたマーケティング、もっとわかりやすく言えば「動員」の理論だった。
(P57)

著者は「物語る」という行為が「作者」から解放されるであろうことを肯定的に捉えたのだが、同時にそれが資本主義システムに取り込まれていく(「動員」の理論)ことでもある点への警戒が足りなかったと言うのだ。この変化は、「社会全体が余剰価値生産に無自覚に、かつ自発的に総動員される体制への移行」(P58)だった、と。

ポストフォーディズム下の「労働」は、それまでのわかりやすい「旧労働」とは趣きを変える。労働問題をブラック企業問題など「旧労働問題」として規定してしまうことはポストフォーディズム下での人間活動そのもの、生きること自体が生産に動員されていく労働と化していることが見えにくくなる。つまり「物語消費論」は、「誰もが物語る行為」を「消費」としてではなく「労働」と捉えるべきだったのであり、「物語労働論」として書かれるべきだった、ということである。それが現時点でのぼくの反省だ。
(P58〜59)

その2ちゃんねるの 創始者がそのスキームを「動画」に移行させた(というスト—リーになっている)「ニコ動」は、プラットフォームという開放された投稿の場を装いながら、ユーザーに無償でコンテンツを提供させ、それを目当てにする閲覧者への「会費」(実態はコンテンツの対価)による収益をビジネスモデルとした。一方、無償の投稿サイトの多くは「広告」による収益を軸とする。これらは旧メディアの収益モデルと「無償の創作者によるコンテンツ」を接続させたもので、しかしコンテンツ制作の対価が最小化されるという点で画期的であった。

(略)「投稿」という無償の労働によってつくられたコンテンツが生む収益をプラットフォーム側が得る仕組みは、webにおいて共通のエコシステムである。
(P65〜66)

ここにきわめて教科書的な資本による労働者からの搾取があるが、それが現状では「見えない」。
(P66)

そんな大袈裟な、と思わないでもない。でも理屈としては確かにそうだろう。そしてこうした新しいビジネスモデルがもの凄い勢いで事業規模を拡大していることも事実だ。

しかし、人々が自己表現の一つとして進んで行っている「投稿」などの行為を「無償の労働」とする見方には正直驚いたし、まだちょっと違和感がある。でも、さらに読み進めていくと、この「進んで行っている」という点も現代を読み解くうえで重要なポイントであることが分かっている。

「無形労働」

なぜ人はこんな無償労働を自ら買って出るのか?
著者はマウリツィオ・ラッツァラート「無形労働」という概念を用いて説明する。「無形労働」とは「商品中の情報や文化についての内実を生み出す労働」をさす。

それは「文化」や「芸術」の名で呼ばれた創作活動(つまり「コンテンツ」の創出)や80年代的な記号操作による価値の創出(差異化のゲーム)も含まれる。webの出現で、これらコンテンツの多くが本やCD、ビデオといったパッケージ、つまり「モノ」(マテリアル)としての外形から解放されたため、「価値」だけが単純化された。そして「モノ」という外形をともなわない分だけ、それが、「労働」の成果物だという点が見えにくくもなる。
(P71〜72)

そして、これには「公衆の意見」たとえば消費者の評価なども含むという。

一方では「集合知」と呼ばれ、他方では「ユーザーの意見」と呼ばれ、最終的には「ビッグデータ」という「商品」にさえなる「価値」の創出もまた、「無形労働」なのである。
(P72)

つまり、一定の労力をかけて「投稿」というコンテンツを制作することが「無形労働」であるのはもちろんのこと、それを鑑賞して評価したり「いいね」を押したりするだけでも立派な「無形労働」だということだ。これも感覚的には今ひとつピンと来ないが、「労働」と言うには軽すぎるというだけで、構造として理解することはできる。で、ここから悲しくも壮大な理論が展開される。

フリーレイバーを生むのは近代的自我

このとき、この「無形の価値」を生み出す「無形労働」に、人を「フリーレイバー」(無償労働者)として参画させるための動機づけが、「主体になる」あるいは「自己表出する」というものだともラッツァラートは言う。つまり、近代的個人の欲求そのものがフリーレイバーとしてエコシステムに参加する動機となっている
(P72)

自己表現したくて仕方がないというところまで近代的自我が膨張していたということだろうか。そこに突然無料の発信ツールが現れ、人々はそれに飛びついた。彼らは自我の発露の場としてそのツールを無料で使い倒しているだけだが、利用者が増えれば発露される自我(投稿)の量も増え、それがまた利用者を増やす。するとプラットフォームの広告効果が高まり、投入される広告の単価は上がり量も増える。利用者は自我の発露ができるだけで満足だから何も求めない。広告収入はすべてプラットフォーム事業者の懐に入る。結果的に利用者たちの自我の発露は、広告会社やプラットフォーム事業者の利益を生むための無償の労働となり、100%搾取される。そういう図式だ。

そしてその先にもっと心が痛む現実が…。

逆説としての近代

こういった「自己表出させられる」環境のなかで、しかし、考えてみればたいていの場合、人は自己表出すべきものを持たない。ぼくもほとんど持たない。持たないにもかかわらず、「自己表出せよ」と誘導される逆説としての近代がweb上にある。
(P73)

「逆説としての近代」と言うとカッコイイけれど、かなり空しく悲しい現実である。まあ、僕がここに綴る文章もまさに近代的自我が求める「自己表出」に他ならないわけで。でも僕の場合、人に読んでもらいたいという健全な自己顕示欲に欠けるから、かなり歪な自己表出ではあるけれど。

webを中心に社会のあちこちに立ち現れてきている不穏な自己表出。これは「逆説としての近代」の成せる技だというのが著者の見方だ。

web上で「拡散」や「炎上」、あるいは「リベンジポルノ」や個人情報の暴露などが習慣化するのは、「自己表出すべきもの」がないままにそのためのツールと「抑圧」だけがあるからである。語るべきことがないのに語らなくてはいけないという抑圧化された欲望だけがある。

それゆえ、web上の「自己表出」はきわめて直接的な感情の吐露となる。「感動」や「嫌悪」、つまり「泣ける」や「嫌××」(「××」のなかには「中国」でも、近ごろは「沖縄」さえ代入される)といったあまりに脊髄反射的な感情の吐露がパブロフの犬のごとくweb上では言語化される。「感情」の表出には論拠も描写も不要だからだ。
(P74)

疑問への答え

「感情労働」「無形労働」「見えない搾取」

冒頭で言ったように、“論理的である”ということを日本人は嫌悪する傾向があるのではないかと最近よく感じる。まあ、それは表面的な現象にすぎず、単に僕にはそういう部分しか見えていないというだけで本質はもっと別のところにあるのかな、とも思っていたけれど。

大塚英志氏の「感情化」という捉え方と、それを「感情労働」「無形労働」という概念やwebと資本主義との組合せによって生まれた新しい「見えない搾取」の構造を用いて説明する立論は、とても興味深く、説得力があって、僕の疑問に大きなヒントを与えてくれた。というか、これが解答だと言ってしまってもいいのかもしれない。

私たちはいまや私たちの表出するものが全て感情としての形式を求められ、そして感情として私たちの前に差し出されたもののみを受けとめる。(P46 )

webでも現実でも提供されるサービスの全てが私たちに快適であったか否か、つまり「感情労働」としての相手を評価することが日々求められる。(P46 )

私たちは私たちに心地良い感情を提供することばしか、政治にもジャーナリズムにも文学にも求めず、そのユーザーの要求に彼らはいとも簡単に屈した。(P47 )

快不快でしかものごとを判断できない身体になってしまったということだ。正しいかどうかは問題ではない。と言うより、いくら正しくても心地良い内容でないのならば、そんなことを口にする人間は「悪」である。「論理的であること」なんて屁の役にも立たない。

そして当然のことながら、心地良さはあらかじめ方向付けられている。たとえば朝鮮人慰安婦問題であれば、その言葉を聞くだけで不快に感じる人がいる。日本(や日本人)にわずかでも瑕疵があったと考えるだけでも不快であり、悪なのだろう。一方には、瑕疵があっても母国として日本を愛せる人がいる。誤りはできる範囲で正せばいいし、そうやって正しさを求める姿勢にこそ心地良さを感じる人がいるのだと思う。でも、どちらの感性を持つかはかなり若いうちに決まってしまうように思えるが…。

僕が感じていたモヤモヤ(“論理的である”ことが嫌悪される)の正体はこれで十分に説明がつく。でも、「よし、分かった!」と気分が晴れるわけではない。感情的な発言をしている人の肩をトントンと叩いて「感情化してますよ」と説明を垂れても、ますますこじらせるだけだろうし。そもそも自分だって、同じ時代に生きている以上、感情化が血となり肉となっているに違いないわけで、立っている場所が少し違うだけという話なんだろうし。

要するに途方に暮れてしまうわけだ。
どうすればいい?

それから、webでの「自己表出」が「無償の労働」になっているという見方には、まだピンときていないところがある。やはり実害を感じないからなんだろう。誰に強制されているわけでもないという点については、近代的自我というもの凄い直球で説明がなされるが、なんせ負担感がないことが理解(共感?)を妨げている。

確かに構図としては正しい気がするけれど、「疎外」としてどこまで非難されるべきものなのか。

「やりがい搾取」と同類だという見方で、こう考えると「やりがい搾取」も近代的自我が絡むんだなあと妙に納得するけれど、まだやっぱりしっくりとはこない。図式としてはそうなるけれど、結果的にそうなっているだけで、誰かが意図してこうなったわけではないだろうという気が…。(「やりがい搾取」も同じだと言われたら反論できませんが。)

でも、僕のこういうあやふやな態度は次の言葉で完全に論破されるわけだ。

「消費」という行為そのもの、あるいは人としての感情の発露そのものが「見えない労働」として企業ないしは社会システムに搾取され、言うなれば人は充足しながら疎外されていくという「新しい労働問題」(P56〜57)

「充足しながら疎外されていく」んだから。

確かに。
資本主義が構造的に「搾取」を生むということにも、最初は誰も気づかなかったわけだし。

新しい搾取も、批評や社会理論なしには実感できない

マルクス主義以前には「労働者」が「搾取」されているということに「労働者」自身が気づかなかったように、労働における疎外は本来、見えにくい。ポストフォーディズム下の「感情労働」や記号を操作する「情報労働」、ましてやweb上でのふるまいそれ自体が「労働」化していることは批評や社会理論なしには実感されにくい。
(P76)

そして、見落としてはならないのは、これらの「労働」は「見えない」だけでなく「心地良い」ということ。「反知性的であることの快楽」を理解しなければならない。

「反知性」は「知性」以上の快楽なのである。(P77)

 


第二部も刺激的な内容ではあった。AIについて、そして日本の文学についてもいろいろと知ることができたし、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を「歴史修正主義への好意的な『寓話』」だと断じていることには驚かされた。

ただ、詳細なメモはここまで(第一部だけ)にしておく。