本/映画

ブライアン・シンガー『ボヘミアン・ラプソディ』

制作:2018年アメリカ・イギリス
監督:ブライアン・シンガー
出演:レミ・マレック(アカデミー主演男優賞他)/ルーシー・ボイントン/グウィリム・リー/ベン・ハーディ他
音楽総指揮:ブライアン・メイ/ロジャー・テイラー

※監督は撮影期間残り2週間の時点でデクスター・フレッチャーに交代。しかし全米監督協会(DGA)の規定に従ってシンガーだけがクレジットされているらしい。

 

言葉が目にしみる

圧巻のライブ・シーン

昨年11月の封切りから3カ月以上たつのに今も劇場で観ることができる。福岡県内だけでもまだ20館で上映中。主演のレミ・マレックがアカデミー賞主演男優賞を取ってまた話題になったから、このロングランはしばらく続きそうだ。

なんと言ってもラストのライブ・シーンが素晴らしい。

1985年に英国ウェンブリー・スタジアムで実際に開催された「ライブ・エイド」の再現で、これがまったく作り物とは思えなかった。音は実際のライブ録音−−−を加工したもの−−−を使い、映像はその音に合わせて役者たちが再現したものらしいが、歌も演奏も誰一人として口パクとかお芝居には見えない。巨大な会場とそれを埋める数万人の聴衆も臨場感満点だった。

テレビドラマなんかでもたまに「本当に弾いている」ように見える見事な演技を見ることはあるけれど、あのクイーンの伝説のライブを21分に渡って完璧に再現しているわけだから、そもそもハードルの高さが違う。一瞬もシラけさせることなくあのシーンを見せてくれただけで感動ものだった。

『ボヘミアン・ラプソディ』は、クイーンが結成されてからこのライブ・エイドまでの足跡を、フレディ・マーキュリーに焦点を当てて描いた伝記的な物語である。バンドがスターダムにのし上がっていく過程、その後フレディと他の3人の心が離れていく様子、フレディの人種的・性的マイノリティとしての苦悩、恋人メアリー・オースティンとの複雑な関係、そしてエイズ感染の告知。そういった物語をへて、いわば落ちるところまで落ちた後の復活の場面として「ライブ・エイド」のシーンがある。

そして、そのライブで彼らは圧巻のパフォーマンスを披露する。彼らの足跡のすべてがあのライブ・シーンによって昇華されるのである。舞台の袖ではメアリーや新しい恋人(男性)がフレディを見守り、また実家では両親がテレビ中継−−−世界84か国に衛星同時生中継された!−−−を食い入るように見つめている。それまでのフレディの悩み多き人生が報われる瞬間と言っていい。胸が熱くなる。

字幕の歌詞が心に響く

もう一つ、あのライブ・シーンのインパクトを増幅してくれたものがある。
それは歌詞だった。字幕で読む歌詞。一語一語に(ちょっと大袈裟かもしれないけれど)釘付けになった。そして心にしみてくる。

なにしろオープニング曲の「Bohemian Rhapsody」は、「人を殺してしまったよ」で始まる曲なのだ。そして「時々、生まれてこなければ良かったと思うんだ」と苦しみを吐露し、「ママはこれからも何事もなかったように生きていって」と自分を見放すようなことを口走る。受けとめがたい絶望に身悶えし、混濁する心を取り繕うことなく歌っているのである。

こんなにも痛々しい苦悩の歌だったのかと驚いた。フレディが若い頃から自分の心の闇を率直に歌にしてきたことを知り、衝撃を受ける。そして、やはり彼の人生を思わずにいられなかった。

僕はクイーンの活躍をリアルタイムで見てきた年代に当たるが、熱心なファンではなかった。だから彼らの曲の歌詞をじっくり読んだのは、ほとんどこれが初めてだった。

驚きが大きかったのはそのせいでもある。どの曲もラジオや有線放送で何度も聴いていたから、よく知っているつもりでいた。でも、耳から入ってくるクイーンの曲はどれも華麗でゴージャスだったから、その多くが暗くて重い苦悩を歌ったものだとは思いもしなかったのだ。

しかし、たとえば若者らしい高揚感に溢れる「We Are The Champions」も、ただ自己陶酔しているだけの歌ではなさそうだった。もちろん自分たち(クイーン)の成功を誇る歌ではあるのだろう。でもその成功を友と分かち合う歌であり、また、意気揚々と凱旋門をくぐる勝者の歌と言うよりも、まだそこは死屍累々の戦場で、自らも深い傷を負いながら上げた勝ち鬨だったのだと思えてきた。

たぶん映画だからこそ

十代の頃にこうした歌詞を読んでいたら、クイーンは僕にとって違った存在になっていたのかもしれない。惜しいことをしたと思う一方で、当時の自分が歌詞カードを読んだくらいでこの感覚を味わえただろうか、と疑問に思わないでもない。

実際、この映画を観たあと、家に1枚だけあったクイーンのCD−−−中年になってから買い求め、1〜2回聴いてそれきりになっていたベスト盤−−−を久しぶりに聴いてみたのだが、サウンドの完成度の高さにばかり意識が行ってしまい、(もちろん歌詞を読みながら聴いたのに)歌詞の世界に入り込むことはできなかった。

つまり、あれは映画だからこそ味わえた感覚なのだろう。

歌詞を読んでそれを理解したのではなくて、言葉の一つひとつが、それまでに描かれてきたフレディの人生とつながったのだ。目と耳と記憶に訴えることの出来る映画だからこそ、ほんの短い時間であのような化学反応を引き起こすことができたのだろう。僕はそう感じた。

そして、あの完璧なライブ・シーンがそれを可能にしたのだと思う。

映画ラストの「ライブ・エイド」シーン

この映画は人間ドラマとしては凡庸だという声も多くて、僕も実際にそう思う。父親との確執もゲイに目覚めていく過程も描き方としては平凡だし、何よりもフレディとメアリーとの関係はとても複雑で繊細なものなのに、十分に掘り下げられているとは言えない。

それでもアカデミー賞の作品賞にノミネートされたのは、映画ならではのこの化学反応を見事に実現しているからではないだろうか。

フレディは歌詞の中で深い絶望を吐露してきたが、クイーンの流麗なサウンドがそれを昇華してしまい、ストレートには伝わってこない。ところが、彼の半生を辿った後に見るあのステージでは違っていた。躍動的なパフォーマンスに圧倒されながらも、歌詞の一語一語が心の奥深くまで届き、意味を成し、彼の人生と結びつく。CDでもライブ映像でもできないことを、この映画はやってのけたのだ。それによって、(たとえ描き方は平凡でも)彼の半生が生々しくも愛おしいものとして一層強く心に刻みこまれる。そういうことではないのかなと思う。

おまけ つまり蛇足

そっくりさんによる完コピ

それにしてもフレディ役のラミ・マレック以外は三人とも見事なそっくりさんだった。(と言っても、ベースのジョン・ビーコンの顔はよく覚えていないんだけど。)後で知ったのだが、実はフレディ役も最初はサシャ・バロン・コーエンという人がキャスティングされていたらしくて、もしこれが実現していたら4人揃って瓜二つになっていたのかもしれない。

はじめは“そこまで似せる必要があるの?”と思ったんだけれど、あそこまでライブのリアリティにこだわって完コピするのなら、まあ似ているに越したことはない。で、結局ラミがあんまり似ていないことの不満のほうが残ってしまった。

フレディ・マーキュリーとラミ・マレック

ラミ・マレックはこの映画のフレディ役でアカデミー賞主演男優賞を受賞している。だが、正直言って僕は最後まで彼には馴染めなかった。フレディの苦悩を真面目に演じていたとは思うけれど、はっきり言って物足りなかった。

この映画を観て初めて気づいたのだが、僕は自分で思っていた以上にフレディ・マーキュリーという人間に、ルックスも含めて魅力を感じていたようで、それでラミ・マレックだけ点が辛くなったのかもしれない。とにかくずっと「実物はもっと魅力的だったよな」と思いながら見ていた。

フレディのあのエキゾチックな顔も、美しいとは言わないまでも人を惹きつける特別な輝きがあると感じていた。対するラミは小顔で造形も違うし、暗さばかりが目について覇気が感じられない。またフレディの歯並びに違和感を感じたことなどなかったから、ラミが演技用につけていた歯のほうがよっぽど不自然に見えてしまった。とても喋りにくそうなのも気になったし。上半身がガッチリしていたフレディと比較すると、ラミは全体的に線が細くひ弱な感じがして、この差も大きかった。要するにフレディは全身からエネルギーがあふれ、オーラを放っていたのに、ラミにはそれが感じられなかった。そういうことだ。

フレディの苦悩は分かりやすく伝わってきたけれど、フレディ本人は、内で悩みながらも外に対してはあれだけギンギンに輝きを放っていたんだよな、と思う。人格とか意思とは関係なく、グイグイと前に進んでいく内燃機関を備えているみたいに。違うのかな。

FRONTROW2018-11-27より

上の写真は「FRONTROW」というサイトで見つけたんだけど、(もちろん右が実物のフレディで左がラミ)発散する熱量の違いが分かってもらえるだろうか。
…たんに右の画像のほうが赤みが強いだけかもしれんが。
(ちなみにFRONTROWでは「そっくり」という文脈の中でこの写真を使っている。)

これまで「ライブ・シーンが完璧」とさんざん言ってきたくせに、こんなこと言うのもなんだけど、やっぱりこの身体とあの声は不可分のものだよなと思う。

セクシュアリティのこと

フレディーがゲイだという噂はわりと早い時期から広がっていたし、いつしか既定事実のようになっていたと思う。フレディ本人が認めたことはないと最近知って、逆に驚いたくらいだ。白いランニングと下半身にぴったり張りつくようなパンツ姿は自らそれを誇示しているようにも見えたし。

で、十代二十代の頃の自分がそれをどのように受けとめていたのか思い出そうとするんだけれど、まったく思い出せない。とくになんとも思わなかったということか。
まあ、エルトン・ジョンで免疫ができていたのかもしれないけれど。

一番好きな曲

クイーンの曲の中で個人的に一番好きなのは「愛という名の欲望」だ。1979年、僕が大学に入った年に大ヒットした曲。クイーンの曲としては珍しくロカビリー調の、言ってみれば型にはまった楽曲なのに、とんでもなく完成度が高い(と僕には思える)。ダンスホールかどこかで歌っているような、少し籠もったフレディの歌声がなんとも幻惑的で。今でもイントロのリフを聞いただけでワクワクする。素敵な曲だと思う。映画の中でもちょっとだけ流れた。

(2018/11/16、2019/2/9にイオンシネマ筑紫野で鑑賞)