本/映画

コリン・クラウチ『ポスト・デモクラシー 格差拡大の政策を生む政治構造』

この本が出版されたのは2007年で、(アマゾンの注文履歴を調べてみたら)僕は出版直後に購入していたらしい。12年も“積ん読”になっていたことになる。売ったり捨てたりしなかったところを見ると、「いつかは読もう」と思わせる何かがあったのだろうけれど、12年も、と思うと自分でもちょっと呆れる。

著者はイギリス人の経済社会学者で、現実政治にも深く関わる社会民主主義者(と紹介されている)。つまり労働党のブレーンということだろうか。有名な人ではあるらしい。原書が出版されたのはどうやら2004年。(監修:山口二郎、訳:近藤隆文、青灯社)。

2004年といえばアメリカによるイラク侵攻の翌年だが、この戦争をともに戦ったイギリスにとって忘れられない年だったのではないかと思う。イラクが大量破壊兵器を所有していることが開戦理由だったはずなのに、そんな事実はなかったことがこの年最終確認されたのだ。国連決議もないままに独断で一つの国家を破壊した挙げ句に根拠がなかったというのだから、こんなに愚かで犯罪的な戦争は人類史上でも珍しいかもしれない。イギリスは労働党のブレア首相のもとで率先してこの戦争(というか一方的な攻撃)に加わっていた。何故そこまでと言いたいくらい、イギリスはアメリカに追従しているように見えたものだ。今の日本の誰かさんのように「100%一致」とでも言っていたのだろうか。ちなみに、日本も小泉政権のもとで自衛隊をイラクのサマーワに派遣していた。結局この戦争は占領統治期を含めると8年以上に及んだ。しかもイラクに平和が訪れたわけではなく、ISというとんでもない魔物を産み落とす結果となった。(以上、この本にはまったく関係なし。)

ついでに言うと、日本語版が出版された2007年は初代iPhoneがアメリカで発売された年である(日本での販売は2008年の二世代目から)。インターネットはかなり普及していたが、PCで閲覧するものだった。スマホの時代はまだ先の話。もちろんSNSの時代もまだ来ていない。

著者の問題意識

本書は、さまざまな問題について憂慮するうち、徐々に形になったものである。まず1990年代後半には、先進工業国の大半でつぎのようなことが明らかになりつつあった。 どんな政党が政権に就こうと、国の政策には富める者の利益になるよう一定の圧力が継続的にかけられる。規制なき資本主義経済からの保護を必要とする人々ではなく、むしろ恩恵を受ける人々の利益が優先されるのである。EU(欧州連合)のほぼ全加盟国で中道左派政党が優勢であるという状況は、またとない機会と思われたが、目立った成果はまるであがっていない。それを単に政治家たちの軽微な過失とする説があるが、社会学者である私にすれば、とうてい満足できるものではない。(P.1)

何か構造的な力が働いているはずだと著者は言う。

20世紀の大半にわたり、組織化された肉体労働者階級が社会的に優遇される富裕層の利益に異議を唱えていたが、それに代わるものが国家の内部に現れていない。その階級が数の上で衰弱した結果、政治はかつての姿と似た様相を呈しつつある。つまり、もろもろの特権階級に利するものとなっているのだ。(P.2)

どの時代も一部の支配階級・特権階級によって政治は牛耳られてきたが、資本主義の発達とともに労働者階級が一つの大きな塊として出現し、団結して支配階級に対して異議申し立てを行うようになった。彼らの声を無視して政治を行うことは不可能となり、デモクラシーが大きく前進する。世の中は平等に一歩近づき、経済的にも底上げが実現した。デモクラシーの時代が到来したのである。だが、当初その塊の大部分を構成していた肉体労働者がやがて減少を始めると、あっけなく労働者は小さな群れに分散し、そのまま政治から閉め出されるようになった。政治は再び特権階級の希望に沿って進められている。デモクラシーの時代はすでに幕を閉じ、あの時代に人々が獲得した平等や豊かさが剥ぎ取られつつある……。

このように労働運動の盛衰とデモクラシーの盛衰を重ね合わせて考えたことはなかったので、ちょっと新鮮だった。民主主義というとルソーとかフランス革命まで遡って考えてしまいがちだけれど、世界の多くの国——と言ってもそれほど多くはない——の人々が民主主義を享受できるようになったのは、第二次世界大戦が終わってからだと言っていい。日本もそうだし。日本の場合はまず憲法に明記されたわけだが、たしかにもし組織された労働者の存在というものがなければ、どこまでそれが社会に浸透し、内実を伴うものになったか分からない。

そして今日の日本が、かつて僕たちが学校で習った民主主義の世の中とは違うものになりつつあると思えるのも事実だ。さらに前進を続けていると感じることよりも、民主主義の後退を感じることのほうが明らかに多い。また、実際に肉体労働者はかつてに比べると大幅に減り、一時50%を超えたこともある労組の組織率も今世紀初頭には2割を切った。

<労働政策研究・研修機構>

とはいえ、人口動態的な変化はきっかけの一つに過ぎない。労働者の声が小さくなったから、これまで彼らが獲得してきた権利が奪われているというほど単純な話ではないのだ。デモクラシーは多くの人が真理だと信じる理念であり、その実践だった。イデオロギーと言ってもいい。真理であるという共通認識があれば、そう簡単には後退しなかったはずだ。にもかかわらず後退を始めたのは、変化を正当化する新しいイデオロギーが登場したことの影響も大きいだろう。言うまでもなくそれは「新自由主義」のイデオロギーだ。「自由(競争)」「規制緩和」といった言葉が、「平等」や「人権」「市民権」といったデモクラシーの根幹を成す価値を凌駕するようになった。

新自由主義はグローバリゼーションを正当化するイデオロギーでもあった。世界を股に掛ける巨大企業が各国に誕生していった。当然、政府に対する発言権も強まっていく。

これらの間に因果関係があるのかどうかは分からないが、少なくともこれらが複合的な要因となって、デモクラシー期とは違う新しい時代を生んでしまったことは間違いなさそうだ。著者クラウチ氏の分析が実証的と言えるのかどうかは分からないが、僕にとってはとても興味深い内容で、もやもやしていたこの時代の輪郭が少しだが見えてきたような気がした。

民主主義の歩み

著者は「民主主義は放物線状に動いてきている」として右のようなグラフを提示している。労働者が労働組合を作って声を上げ始めたのは19世紀だが、20世紀に入ると数と強さを増し、政治的に大きな影響力を持つようになる。一般大衆である彼らが能動的に政治にコミットし、その要求を実現していったのである。

20世紀半ばにそれはピークを迎え、「デモクラシー期」とも言うべき時代が到来する。資本主義経済のもとで大量生産・大量消費社会が幕開けしたことも後押しし、労働者は消費の担い手として欠かせない存在となっていった。経済的に豊かになるとともに、誰もが安心して働き、生きていくための政策が実現していく。

しかし、この階層の中心を成していた肉体労働者は1960年代の半ば頃から縮小に転じる。資本主義が新たなステージに入ったのだろう。肉体労働者が徐々に減少していく一方で、専門職、営業職など多種多様な職務に就く非肉体労働者が増えていった。要求も多様化し、労働者を1つのカテゴリーで括るのが難しくなっていく。労組は衰退し、左派政党を支えていた支持基盤が脆弱化していった。

それにともなって政治のあり方、民主主義の態様も変わってきたと著者は述べ、この新しい時代を「ポスト・デモクラシー」の時代と名付けた。

「デモクラシー期」とその前後の時代は大雑把に言って次のように整理できるだろう。

前デモクラシー期経済的にも社会的にも一部のエリートが支配。政治もそのエリートが担った。
デモクラシー期政治(公職)に非エリートが進出。平等主義的な施策が実現し、格差縮小。
ポスト・デモクラシー期格差が拡大し、再び一部の支配階層が力を持ち、政治の主導権も握る。

デモクラシー期がどれくらい続いたかについては明言していない——国によっても違うだろうし——が、肉体労働者の減少という自然現象によって緩やかに終焉に向かったわけではない。世界経済を変えるような大きな変化が70年代、80年代に起こったのだ。最終的に引導を渡したのはサッチャー英国首相とレーガン米国大統領だと言えそうだ。

新自由主義の台頭

1971年のドルショックによって資本主義は大きな方向転換を遂げる。先日読んだ金子勝『平成経済 衰退の本質』(岩波新書)では、このときから「景気循環」が「バブル循環」に変質してしまったと述べられている。実体経済とはかけ離れたところで経済が動き始めたのだ。経済が労働者の「労働」から乖離し始めたと言うこともできるかもしれない。

そして1980年代後半、「金融市場が世界規模で自由化され、経済のダイナミズムの重点は大量消費から株式取引に移行した」(P.20)。株主の利益が最優先され、それ以外のステークホルダーは存在感を失っていった。それまで上昇を続けていた労働分配率が下降に転じる(P.20)。

この金融自由化を断行したのがイギリスのサッチャー首相であり、アメリカのレーガン大統領である(実際に推進したのは各中央銀行なのかもしれないが)。この二人のもとで世界は新自由主義へと大きく舵を切ることになる。

福祉が切り捨てられ、さまざまな分野で規制緩和が進められた。国営企業が次々と民営化されていく。この過程で富める者と貧しき者との間の格差が再び広がっていった。

ロビー政治と民営化・外部委託の影響

著者が「構造的な力」を読み解くために注目するのは、グローバリゼーションにより巨大化した企業が政府に対する発言力を強めていることと、公共サービスの民営化・外部委託化の影響である。

ロビー政治

“アメリカではロビー活動が盛んだ”ということは学校でも習った記憶があるけれど、イギリスがどうだったのは記憶にない。ただ、規制緩和が強力に推し進められる今、企業によるロビー活動がどの国でも活発に行われているであろうことは想像できる。そして新自由主義経済のもとでは、政府と企業の力関係は逆転してしまうのだ。

「大企業グループは、政府に耳を貸してもらえなければビジネスセクターは繁栄せず、したがって政府の主な関心事である経済発展も危うくなると脅かすことができる。」(P.31)

グローバル企業の利害が労働者の利害と対立する場合は「政府に対して、たとえば、労働者の広範な権利をあくまで維持するつもりなら、国に投資しないと明言するだけである。その国の主要政党はいずれも開き直る勇気がなく、時代遅れの労働規制を改革しなければならないと有権者に告げる」(P.54)。

著者は「市場と自由競争を旗印におこなわれる、企業の政治的特権への回帰」(P.79)だと言っているが、まさにそのとおりだろう。人権や平等といった根源的な価値よりも目先の経済が優先される。たしかに“食えなければ人権も何もない”と言うこともできるし、景気が冷え込めば政治家は票を失う。結局のところ、(グローバル)企業と結びつきの強い政治家ほど政治の世界で力を持ち、政治家と太いパイプを持つ企業ほど利益を享受して成長するというウィン・ウィンの関係が成立したということだ。

もちろん、これは保守政治家と企業家がずっとやってきた政治スタイルだと言うこともできる。自民党政権だってずっとそうだった。まずは国の経済を安定させ、成長させることが最優先。それがあってこその国民の暮らしだろうと。軍事も同じ。国を守れてこその国民の暮らしだろうと。だから企業の成長を助け、軍事力を増強することに尽力する。「いや、それよりも大事なことがあるだろう」という弱者の声が政治的な威力を失ってしまえば、またそちら一辺倒になってしまうのも無理はない。しかし、ここまであからさまに企業の論理が優先されるようになったのは、新自由主義というイデオロギーが信奉されるようになってからのことだろう。

さらに問題なのは、これまで労働者を代表してきた左派政党の政治家まで同じことを始めたことだろう。イギリスでは長い間保守党と労働党が政権交代を繰り返してきたが、1979年にサッチャーが登場してから次のメージャー政権が終わるまで、実に18年もの間労働党は政権から遠ざかっていた。そしてこの長い年月の間に上述したような社会と政治の変容が起こり、ポスト・デモクラシーの時代が始まっていたのである。支持基盤であった労働者階級が縮小・分散し、それだけでは政権交代を実現するほどの支持を集めることができなかったということでもあろうし、変容を前提としなければ前に進めなかったという面もあるのだろう。いずれにしても「ニュー・レイバー」と呼ばれた新生労働党政権(首相はブレア)は、保守党政権と同じようにコンサルタントやロビイストに囲まれ、その助言を積極的に取り入れる一方で、支持母体であるはずの労働者や市民活動家からは距離を置くようになったらしい(P.2)。

つまり、左派に政権交代してもロビー政治が変わらず続けられ、重要な政策はロビイストたちの意向に沿って決められていった。当然「ますます大企業とそこで要職を占める人々の権力を高める方向に進んでいく」(P.72)。そして彼らが主張するのは「市場における強者の自由化と規制解除にほかならない」(P.39)。

民営化・外部委託の影響

日本でも国鉄民営化(1987年)をはじめとして次々に国営事業が民営化されてきた。国家レベルの巨大事業だけではなくて、空港が民営化されたり、公立図書館の運営がTSUTAYAに委託されたりと、地方でも公共のサービスが次々に民間企業に委譲されてきた。もちろんこれは日本に限ったことではなくて、おそらく先陣を切ったのはイギリスのサッチャーだろう。

この過程で何が起こったかに著者は注目し、行政に大きな傷を残したと指摘している。

社会権的市民権の「商品化」

公共サービスを民間委譲する際に決まって口にされるのが、“自由競争”とか“効率化”という言葉だ。たしかに行政が自らサービスを行っている場合、競争がないわけだから市場を独占しているのと同じだろう。その市場を開放すれば民間企業が受注を争い、かんたんにコストカットが実現しそうだ。また、民間企業は日頃から競争に晒されているわけだから、業務の効率化はお手の物だろうし、何をやらせてもサービスレベルは公務員より上かもしれない。要するに、公務員にやらせておくより民間にやらせるほうがコスト・パフォーマンスが上がると言われれば、なるほどそうかもしれないと感じてしまう。だから住民も批判がしづらいという面があるのだろう。で、どんどん民間委譲が進んできたというわけだ。

しかし、このとき公共サービスが市場の論理に取り込まれ、「商品化(commercialization)」(P.121)されていることを見過ごしてはならない。なぜなら「公共サービスの理念と実際、そして二十世紀に発達した社会保障制度は、政治の民主化の基本的な要素」であり、「ときに民主的闘争によって直接達成され」(P.119)た社会権的市民権だからだ。つまり資本主義に由来する不平等から市民を守るものとして生まれたはずのものであり、「市場の競争や利益から切り離さなければならない」という共通の認識があったはずなのである。それがいつの間にか忘れ去られ、まさに「市場の競争や利益」の論理で切り売りされているのだ。

それでいいのかと著者は問いかけている。すべてとは言わないまでも、民間セクターに託してはいけないものがあるのではないか。そしてもう一点。市場を開放したとして、そこに本当に自由競争が生まれていると言えるのか

自治能力の低下と自信喪失

完全に民営化する場合よりも、一部またはすべてのサービスを外部委託する場合のほうが影響が大きいと著者は考える。民営化してしまえばサービスに関する責任は業者へ移る——そうとも言えない場合も多いのだろうが——が、委託の場合は事業の責任者はあくまでも政府(あるいは地方自治体)のままである。だが、実際のサービスを行うのは業者だから、結局次のような事態を招来する。

「政府が外部に委託する活動の範囲をひろげると、政府の職員は、請負業者が担当する分野での競争力を失う。その分野で無類の専門知識をもっていた公務員が、公共の依頼主と民間の代理業者のあいだの単なる仲介人となり、専門・技術的な知識は代理業者に引き継がれるのだ。まもなく、関連の専門知識を唯一備える民間の請負業者を支持する声が本格的に高まるだろう。」(P.150〜151)

つまり、政府(や地方自治体)は主体性を残すために民営化ではなく委託を選ぶのかもしれないが、結局ノウハウも知識も失い、すべてが業者頼みとなっていく。公務員はただ無能な仲介係としてそこにいるだけの存在になる。そうなれば自らの存在意義を見失い、自信を喪失するだろう。民間企業への依存度がますます高まることになる。

特権エリートの権力

このようにロビー政治が常態化し、公共サービスが民間に侵食されてきたのがポスト・デモクラシーの時代の大きな特徴である。二つは表裏一体と言えるだろうが、これらを通じて「企業の政治的特権への回帰」(P.79)が進んできた。「政治も政府も、まるで民主主義以前の時代のように特権エリートの管理下へと退歩しつつある」(P.14)。

特権エリートとは有力政治家、企業のエリート、政治顧問、党のシンクタンクのスタッフ、官僚といったごく少数の人々(P.141)。ロビイングする側とされる側で作られる小さなサークルなのだという。そのサークルの中で、昨日までロビイングする側だった人間が入閣し、される側に回るというポジション・チェンジが行われていく。資金援助や天下りの斡旋が行われることもある。

日本はそこまではないだろうと思うが、どうなんだろう。今の日本では神道原理主義的な極右勢力のほうが目立つが、おそらくその人たちと重なる部分もある一部の特権階級が世の中を動かしているのかもしれない。

「自由民主主義」

アメリカの政治学者たちが始めたことだろうとして、著者が興味深いことを言っている。「民主主義」の定義が(いつの間にか)「自由民主主義」のそれへとすり替えられてしまったというのだ(P.10)。もちろん民主主義と自由民主主義は別物だ。しかもこれは“自由で、なおかつ民主的”を意味するものではない。その意味は語順の通りと言うべきだろう。つまり“自由が優先で、民主はその次”。しかも「自由」が表すものは、市民的自由というよりも企業活動の自由の意味合いが強い。

自由民主主義が重視するのは、大衆参加の主要形式としての選挙への参加、主として企業のロビー活動を指すロビー活動の大幅な自由、資本主義経済に干渉しない国家である。このモデルは、広範囲にわたる市民の関与や経済セクター以外の組織の役割にはほとんど関心がない。(P.10)

つまり、自由民主主義というのは新自由主義経済を正当化するための概念なのだ。そもそも民主主義と自由主義はまったく異なる概念だから、単純に足し合わすことなどできるはずがない。

民主主義は、政治上の結果への影響力が全市民にあいだでおおよそ平等でなければならない。自由主義は、そうした結果に影響をおよぼす自由で多様な機会が豊富になければならない。これらは相互依存の関係にある。最大限の民主主義はたしかに強固な自由主義なしでは繁栄しえない。だが、この二つは異なるものであり、相容れない部分さえある。(P.29)

そのうえ、自由民主主義において市民に与えられた唯一の特権である選挙は、以前とはずいぶん趣きが変わってしまっている。

ポスト・デモクラシーというモデルでも、たしかに選挙は存在し、政権を交代させることができるが、政治の公開討論は、各陣営の説得術の専門家集団によって厳重に管理された見世物となり、そうした集団が選んだ狭い範囲の争点をめぐって展開される。一般大衆は受動的で静かな、さらにはしらけた態度をとり、与えられたシグナルにしか反応しない。そしてこの見世物的な選挙ゲームの裏で、選出された政府と、徹底して企業の利益を代表するエリートたちの相互交渉によってひそかに政治は形成されるのである。(P.11)

民主主義がいつの間にかなし崩しになっているというのは、今の日本でも強く感じることだ。日本の場合は景気低迷があまりにも長く続いているため、すべてはそれが元凶のように思えてしまうが、小泉内閣(2001〜2006年)で竹中平蔵のもとで行われたのは、新自由主義経済への急激な方向転換に他ならなかった。規制緩和の名の下に何もかもが市場の論理で語られ、結果として国民は多くのものを剥ぎ取られてしまった。イギリスと同じことが起こっていたのだ。

選挙が見世物に成り下がってしまったという点も頷ける。小泉時代の「郵政選挙」がまさにそうだった。第二次安倍内閣になってからの選挙にもそれに近いものを感じる。消費税の使い道がどうの、北朝鮮のミサイルがどうのと、子ども騙しのような「大義」を掲げて、結局は勝てそうなタイミングで衆院を解散する。そして、大勝すれば“選挙が民主主義のすべて”と言わんばかりの政権運営をする。おそらく世界のどの国よりも猛烈な勢いで民主主義が矮小化されつつあるのは日本だと思う。

日本も世界と同じ道を歩んでいる。

全体を通じて改めて感じたのは、日本も世界と同じ道を歩んでいるということだった。イギリスやその他の先進国と同じように、日本もデモクラシー期を経てポスト・デモクラシー期のただ中にあると考えると、ぼんやりしていた時代の輪郭が少し見えてくるような気がする。

これまではどうしても「バブルの崩壊と不良債権問題」や「失われた20年」という強烈な負のイメージに目が奪われて、労働者が苦境に喘いでいるのもある意味で “仕方のないこと”のような気がしていた。もちろん小泉—竹中ラインが進めた悪政の数々は時を経るごとに腹立たしく思えてきたが、あくまでも日本のあの経済危機への対処に失敗したという認識だった。

しかし、いま日本経済が急激に好転したとしても、失われたものがすぐに返ってくるわけではないだろう。80年代までとは違うイデオロギーのもとで世界が動いているのだから。多少の景気回復があってもほとんどが企業の内部留保に回ってしまうのも、その表れと言えるかもしれない。(もちろん他の理由もあるだろうけど。)

大袈裟な言い方になるけれど、もう一度民主主義を取り戻す変化を作らなければ、不況がさらに続けばもっと庶民の暮らしは蹂躙されるし、景気が回復しても多少所得がアップするだけで、それ以上のものはないだろう。そして特権エリートだけが栄え続ける。

市場原理主義的な新自由主義のイデオロギーにしっかりと対峙しなければならないのだと思う。市場が効果的に機能する分野ももちろんある。おそらく多くのものがそうなのだろう。(だから始末が悪い。)しかし、そうとは言えないものがある。それが見えづらくなっているのだ。多くの人が「なんか違うだろう」と感じているのに、上手く反論できない状態にあるのだと思う。その点をはっきり言葉にして主張していかなければならない。デモクラシー期にはそれができていたのだ。

弱者が一塊になれない今、この状況を打開するのは簡単なことではない。

でも、まずは市場原理主義にすべてが絡め取られている現実を正しく認識し、それとは違う論理があることを知るところからなのではないかと思う。

そして、この本を読んで改めて疑問に思ったのだが、自由経済だけで成功した国などなかったのではないだろうか。僕のような経済音痴が経済を語るとかえって市場原理主義に絡め取られてしまうのかもしれないが、デモクラシー期は市民の権利だけが拡大したのではなく、経済そのものがポスト・デモクラシー期に入ってからよりも活況を帯びていた。素人考えかもしれないが、デモクラシー期とポスト・デモクラシー期とで大きく変わってしまったことの一つは格差の拡大だ。それを思うと、格差の縮小なしに経済を発展させることなどできないのではないだろうか。

そういう点にも注目しながら、もう少し深く考えていきたい。そのためには、この本が教えてくれたような他国の動きも知る必要がある。世界と連動した動きもあれば、日本固有の動きもあるわけだから。これを一緒くたに考えていると、見えるものも見えなくなってしまうだろう。

おまけ

こんな感じで非常に示唆に富む本だったんだけど、一方で悪文も多い一冊だった。オーウェルの伝記はもっと非道かったが、イギリスの学者はみんなこんな感じなんだろうか。それほど難しい理屈が書いてあるわけではないから分かると言えば分かるんだけど、一読しただけでは「?」となってもう一度読み返すということが何度もあった。お陰で必要以上に読むのに時間がかかって、ちょっとイライラ。

マウス型スキャナという強い武器があるから、ちょっと典型的な部分を採集しておく。

たとえばこんな感じ。

独占禁止政策を担当する当局が採用を進めている近年の経済学理論や仮説は、寡占セクターでは完全競争の条件が非現実的になりがちなことに妥協的な姿勢をとってきた。(P.139)

これなんてたとえば、「近年の経済学理論や仮説では、寡占セクターでは完全競争は実現しづらいと論じられることも多く、独占禁止政策を担当する当局もそういう見解を採用するようになってきた」とでもしたら一発で分かるのに、と思う。これは訳の問題ではなく、著者のクセのようなもんだと思うけど。

こんなのも。

最後に、これがもっとも重要だが、右派にとって都合の悪い問題よりも移民の流入を人々が心配するということは、けっして動かせない事実ではないと判明した。(P.182)

回りくどいうえに最後の二重否定で頭が爆発する。これでは何も「判明」しないと言いたい。

次は、今読んでもよく分からない極めつけの一文です。ゆっくりお楽しみ下さい。

市場を介して財やサービスを提供する際は、無償の人手や利用が不可能になるよう入念に障壁を構築するという手順が欠かせない。そのために、商品そのものの特徴を変更せざるをえない場合もある。私たちがそうした歪みを受けいれなければ、財やサービスの大半は一切提供されない。わかりやすい例を挙げると、レジや両替の手続きが受けいれられないとしたら、業者は店を出す気にならないだろう。だが、必要とされる歪みの程度によっては、商品の質が大きく損なわれ、あるいはあまりに人為的な障壁が築かれて、生じる損失に見合った効率改善が得られるのか疑問をいだいて当然のケースもある。たとえば、企業家が海岸線の一部を買って浜辺や岸辺の通行料を取ることが認められた場合。また、テレビ番組が製作費を得るために必要な広告で分断されることも、その一例である。(P.130)

ここだけは未だに何が書いてあるのか分からない。有料民営化するときは、タダ働きする人や抜け駆けして無料で利用する人が発生しないような仕組みが必要だと言いたいみたいだけど、「レジや両替」の話が「わかりやすい例」にはなっていない。余計に分からなくなる。最後のほうに出てくる海岸線のたとえはさらにヒドくて、レジの話まではなんとか頭の中で理解のための努力をしていたんだけど、その努力が一瞬で灰になる。徒労感。これ、海岸は広すぎるから料金所が作れないとか、そういう話なんですかね。しかもテレビ番組にCMを入れることが海岸線の話と同じ種類の例だと言われたら、象と国語辞典は瓜二つと言われるくらいのカオスに陥るのだが。CM入れるのは普通のことだよね。

僕の理解力が低すぎるのかもしれないけれど、どう考えてももっとマシな書き方があるだろうと思ってしまう。そもそも「障壁」とか「歪み」という言葉からして適切ではないというか……まあ、改めて読んでみると、この段落のどの一文をとっても分かりやすい文章はないな。言葉のチョイス、主語の設定(何が主語かは分かるけど、それを主語にするから分かりにくい)、無意味な受動態……数え上げれば切りがない。

現場からは以上です。