われおもうに

「テッペンを取る」と「世界を変える」

うろ覚えの記憶に基づく与太話に過ぎないんだけど…。

もう何年も前になるけれど、DeNA(ディー・エヌ・エー)創業者の南場智子氏を特集したテレビ番組を見た。夫の看病のためにCEOを降りる前だったような気がするから、もしかしたら10年近く前なのかもしれない。

モバイルゲームで成功したDeNAは、当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長していて、彼女の名前はそれまでにも目にしていたと思う。しかし彼女の経歴だとか、どういう経緯で会社を興したのかについては、その番組で初めて知った。とても優秀な方で、しかも人を引き寄せる求心力、ぐいぐいと引っ張るリーダーシップも群を抜くものがあり、彼女を慕って優秀な若手が集まってくるのも当然だと思った。

ただ、その番組の中で彼女が発した一番大きな言葉は「テッペンを取る」で、その先の話は出てこなかった。

テッペンを取る?

「一番になりたいだけなの?」と思うと、急速に興味がしぼんでしまった。

もしかしたら、モバイルゲームは入口に過ぎなくて、ゲーム以外の分野にも事業をどんどん拡大し、いずれはインターネット業界とかIT業界全体の「天下を取る」といった壮大な野望を意味していたのかもしれない。僕なんかはどうしても、ゲームというと“子ども相手に金儲けをする”という負のイメージがあったので、それはそれで好感が持てる。でも、具体的な展望が語られたわけではなかったし、たとえそうだったとしても、彼女が目ざしているのが「テッペンを取る」ことだという点に変わりはない。

そのとき僕が思ったのは、「テッペン」を目ざすだけでは「テッペン」は取れないだろうなということだ。

頭に浮かんだのはアップルのスティーブ・ジョブズやグーグルのラリー・ペイジ、サーゲイ・ブリンといった人たちのことだった。彼らは一番とか二番とか、そんな相対的なものを求めたわけではない。彼らが口にしたのは「世界を変える」という言葉だった。彼らに限らずアメリカのアントレプレナーたちには、そう考え、口にする人が数多くいる。もちろん「天下を取る」という欲もあっただろうが、そんなことよりも彼らは、自分たちのアイデアと事業で世界をあっと言わせ、(少し大袈裟かもしれないが)人類を新しいステージに導くことを夢見たのである。

しかも、ペイジとブリンはそれを達成するための道筋を最初から理解していたし、ジョブズはもっと場当たり的に見えるとはいえ、まだ誰にも感知されていない価値を具現化する能力を持っていた。

そして、実際に世界はあっと驚き、僕たちの生活は大きく変わった。

スティーブ・ジョブズ
※左の写真:スティーブ・ジョブズと最初のMacⅡ(?)
※右の写真:ラリー・ペイジ(左)、セルゲイ・ブリン(右)

「テッペンを取る」という相対的で漠然としたスローガンでは、「世界を変える」と息巻くこのような天才たちには勝てないだろう。この二つは次元がまったく違う。はじめから勝負にならないと僕には思えたのだ。

たまたま南場氏の特集を見てそう感じたというだけで、べつに彼女の能力や実績にケチをつけたいわけではない。それにジョブズやペイジたちが——ジョブズはちょっと怪しいが——技術者であるのに対し、彼女は経営者なのだろうから、比較すること自体に無理があることも分かっている。でも、なんとなくそこに、日本人とアメリカ人のメンタリティの違いが表れているような気がした。

「世界を変える」ことを夢見ている日本人なんて、どれくらいいるだろう。

「世界を変える」ことを夢見る人は、当然「世界は変えられる」と信じていなければならない。いま、無邪気にそう信じている日本人がどれほどいるだろう。「既存の世界は変えられない」というのが、無意識のうちに前提となっていないだろうか。変えられないと思っているから、世界そのものを批判的に見るという視点が抜け落ちてしまい、その中での自分の位置にしか目が行かない。つまり、他者との競争にしか関心が向かない。

英語やプログラミングを小学校から教えることになったそうだけれど、それだけではいつまでたってもGAFAの創業者たちのような人物は現れないのではなかろうか。もっと根本的なところに見直すべき点がある。

世界は変えられる。
自分がその担い手になることだってできる。

そんなふうに考えられなくなっていることこそ、いまの日本の最大の問題なのではないか。
そういうお前はどうなんだと言われると、一瞬ピクピクッとしてしまうけど、世界がこのまま変わらないとは考えていなかったと思う。自分が「世界を変える」と考えたこともなかったけれど。

それに敗戦までの日本は、アジア諸国を欧米列国の植民地支配から解放する!なんて言って戦争をおっぱじめたくらいだから、地球上でもっとも「世界は変えられる」と信じていた民族だったと言えそうだし。あれはあれで困った話だけど、消極的現状肯定が不変の民族性と言えないことの証しにはなる。

なぜこうなってしまったのだろう。かんたんに答えが出る問題ではないし、また理由が分かったとしても、どうすればいいかを見つけるのはさらに難題だけれど、この点こそなんとかするべきだろうと思う。