本/映画

半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』

近所の寺で開かれた古本市で見つけた本。100円か150円だったと思う。新品同然の美本で、しかも面白かった。

 

憲法の話というよりGHQによる日本改造の話

GHQによる日本改造

面白かったし、読む価値のある本。でも、題名から想像したものとはちょっと違った。たしかに最終的には憲法の話に収斂していくし、終戦から200日間のことが時系列に沿って書き進められてはいるけれど、憲法のことだけが書かれているわけではない。

読めばその理由は分かる。憲法だけが変えられたわけではないからだ。GHQは進駐するやいなやもの凄いスピードで各種の指令を出し、旧来の日本の制度を破壊していった。軍国主義、超国家主義を生んだ土壌を根絶やしにし、二度と侵略戦争を起こさない国へと改造していったのだ。憲法改正は、そうした大日本帝国の解体のいわば最後の仕上げに過ぎなかった。改正の具体的な話が始まる頃には、日本の改造は最終段階に入っていたと言ってもいいくらいだ。だから、憲法だけに注目しても事の次第は分からない。

今となるとGHQによる日本改造の全体像は忘れ去られ、憲法だけが形あるものとして風雪に耐えている感がある。しかし、GHQは日本国憲法ができる前にすでに、日本をまったく別の国に作り替えていた。そのことをこの本は思い出させてくれる。

本の題名にある「二〇〇日」とは、昭和20年8月15日から21年3月6日までの、正確には203日間ことで、これは終戦から新憲法の原案ができるまでを意味している。だが、その間のほとんどの期間、日本人は憲法のことを深く考えたことなどなかったと思う。GHQの指令が出るたびに慌てふためいていただけだ。国の根幹に関わる問題の中で国民が意識していたものがあるとすれば、おそらく天皇制が存続するのかどうかだけだろう。

憲法問題調査委員会(松本委員会)が検討していた改正憲法の条文案を、昭和21年2月1日に毎日新聞がスクープし、そこから憲法改正問題は大きく動き始める。国民が憲法を現実的な問題として意識したのは、この日が最初だったのではなかろうか。しかし、それがあまりに旧態依然とした内容だったので、国民のリアクションは乏しかった。一方で、その内容に危機感を深めたGHQは自ら草案作成に動き始めた。そしてわずか10日足らずで完成させ、これがほぼそのままの形で政府原案として正式発表された。

この間に起こったことをGHQの動きを中心に書き出すと、以下のような感じになる。

  • 8月15日 玉音放送(終戦の詔書)
  • 8月30日 マッカーサー着任
  • 9月2日 降伏文書調印
  • 9月10日 言論および新聞の自由に関する覚書
  • 9月11日 戦争犯罪人に出頭命令(第1弾)
  • 9月19日 日本プレス・コードに関する覚書…検閲開始
  • 9月27日 天皇がマッカーサーを訪問(初会談)…有名なツーショット写真
  • 10月4日 人権に関する4項の覚書…政治犯の釈放、思想警察廃止、弾圧禁止など。
  • 10月9日 幣原喜重郎内閣成立
  • 10月11日 五大改革指令
    …秘密警察の廃止、労働組合の結成奨励、婦人解放、学校教育の自由化、経済の民主化
  • 10月16日 日本軍の武装解除と復員終了
  • 10月22日 教育制度の行政に関する覚書…軍国主義的・超国家主義的教育の禁止
  • 10月25日 憲法問題調査委員会(別称「松本委員会」、委員長:松本烝治国務相)
  • 11月6日 特殊会社の解体に関する覚書…財閥解体
  • 11月10日 労働統制法規の撤廃指令
  • 11月19日 A級戦犯の逮捕指令
  • 第89議会で憲法改正問題について活発な質疑
  • 12月8日 新聞各紙がGHQ民間情報教育局(CIE)作成の「太平洋戦争史」掲載
    …連合国側から見た戦争観
  • 12月9日 CIEラジオ課制作の「真相はこうだ」放送開始(毎日曜日10回放送)
  • 12月9日 農地制度改革に関する指令…農地改革
  • 12月11日 資産凍結命令
  • 12月15日 神道指令…国家神道の解体

そして、12月21日「GHQ当局談」として次のような主旨のコメントが発表された。

ポツダム宣言の主張する「日本国民の自由に表明した意思に基づく」最終的政府形態の樹立を促進するため、直接間接に悪影響を及ぼす一切の障害を除くべく、総司令部はこれまで日本政府にたいし幾多の指令を行なった。神道に関する指令は、政府がいかなる形態をとるべきかという新たな問題について、最後の推進を与えるものである。日本の民主化に関する基本的指令は一応出つくした。今後は日本の民主的再建は日本自体の問題となっている。(P.220〜221)

  • 1月1日 天皇の人間宣言詔書
  • 1月4日 公職追放令…軍国主義者・国家主義者の公職からの追放
    …結果的に政界・官界・経済界の主な人物をすべて締め出し
  • 2月1日 毎日新聞が松本委員会の憲法試案の一つをスクープ
  • 2月4日 GHQ民政局が憲法草案に着手
  • 2月13日 吉田外相、松本国務相らに民政局ホイットニー准将らが憲法草案を手交
  • 2月22日 GHQ案を受け入れることを閣議決定
  • 3月6日 「憲法改正草案要綱」を閣議決定…勅語とともに発表

天皇制の問題と軍事力に関することを除けば、主なものはすべて最初の4カ月で方がついている。今でも話題に上るのはこの二つの問題だけで、押しつけだなんだと声高に叫ばれるわけだが、憲法の「け」の字も出てこない、日本人のほとんどがその日食べる物にも困っていた間に、民主主義の基本がどっかりと押しつけられていたということだ。

国民はどのように感じていたか

憲法については条文や成立秘話だけを見ていても分からない。そのことをこの本は教えてくれる。そしてもう一つこの本には大きな特徴がある。とかくこの手の話は為政者側の動向に終始しがちなものだが、国民の側の情報もていねいに拾い集めていることだ。つまり、敗戦直後の国民がGHQや政府の動きに対してどのような反応を示したのかを、かなり細かく紹介しているのだ。

その多くはこの時代に生きた文学者の日記をソースとしているが、著者自身も証言者として登場する。そして、これが何ともいい味を出している。

著者の真藤一利は昭和5(1930)年に生まれ、15歳で終戦を迎えた。子どもでも大人でもない微妙な年齢だ。中学3年生。もちろん今の著者と比べれば知識も洞察力も判断力も未熟としか言いようがないが、新聞も読めるし、同級生と政治や社会についての議論もする。(大体はおちゃらけ半分だが。)

この真藤少年がところどころで登場し、当時の日本がその目にどのように映っていたかを語っている。大人の目でないところがミソだ。子ども以上大人未満の少年の視線と思考。GHQや時の政府だけでなく、日本人の大人全般に対しても実に冷ややかな目を向けているのが印象的だ。

もちろん、15歳の少年が語れることなどごくわずかに過ぎない。そこで著者は、成人としてあの時代を生きた人々の生の言葉も拾い集めていく。文学者などが残した日記だ。日々の新聞報道を几帳面にフォローし、感想や批判を書き綴った人がこんなにたくさんいたのかと驚いてしまう。個人的な思いの丈に過ぎないとしても、そのうしろに市井の人々の気配を感じることができる。

もっとも頻繁に引用されているのは、当時まだ医大生だった山田風太郎の日記(『戦中派不戦日記』)だ。ざっと数えてみただけで18箇所もあった。若者らしい愛国心にあふれ、GHQによって祖国が蹂躙されていく様子に苛立ちを隠さない。今なら右翼青年と言っていいだろうが、けっして感情だけで反応しているわけでないことが文面から伝わってくる。二十歳そこそことは思えないほど理知的で視野が広い。それに次いでよく登場するのが30代後半だった小説家・詩人の高見順(『高見順日記』)、同じく小説家・詩人で当時20代前半だった中井英夫(『黒鳥館戦後日記』)といった面々。この時期の日記としては定番なのかもしれないけれど、読んだことがなかったからとても新鮮だった。中井などは左翼色がかなり強い印象だが、筋が通っていて、知性を感じさせ、そして何よりあの時代の空気が伝わってくる。

そしてもう一人印象的な登場人物がいる。著者の父親だ。「焼け出されるまで、東京で区会議員や町会長など小区域のボス的な仕事をやっていた」(P.248)とあるが、最後まで「わが父」としか呼ばれず、もともとの生業が何なのかも分からない。「わが父がこんなことを言っていた」といつも唐突に登場して、皮肉まじりの辛口コメントが紹介される。でも、そのどれをとっても重みと深みがある。

まっとうな保守的人間というのは、こういう人のことを言うのかもしれないと思う。たまにしか登場しないが、いい具合に枯れた感じのその言動からは、日本人のすべてが軍国主義や超国家主義に洗脳され熱狂していたわけでないことが伝わってくる。戦時中は口を閉ざしていたのかもしれないし、それは褒められることではないだろうが、そのぶん終戦後も世の人々のように左に急旋回することもない。冷静に世の中を見極める力を持っている。地に足が付いている。

備忘録

真藤少年やその父、そして文学者たちの個性的な言葉を一人ずつていねいに引用したいところだけれど、たぶんとんでもなく長くなるので我慢しておく。ここから先は、この本を読んで「なるほどな」と思ったことを備忘録として書き記しておきたい。その中で彼らの言葉もいくつか紹介できると思う。

新聞が作った新しい天皇像

「負けたんじゃないのかもしれない」

この本の第一章は昭和20年8月15日の玉音放送(大東亜戦争終結ノ詔書)の話。サブタイトルは「涙滂沱」で、あの放送を聞いて大の大人が誰も彼も流れる涙をどうすることもできなかった——と日記に認めた——ことが紹介されている。受けとめ方はそれぞれ異なるが、とにかくみんな大泣きしている。泣いていないのは15歳の真藤少年ぐらいで、昭和天皇のあの独特のイントネーションから算盤の読み上げ算(「願いましてはー、△円なり、×円なり…」)を思い出してクスリと笑ったあと、すぐに人生初の喫煙に興じている。

ところでこの終戦の詔書について、面白い話が出てくる。

その日の夕方に届いた新聞で詔書の内容を確認した父が、
「ウム、ここには敗戦という言葉はない。降伏という言葉もどこにも発せられていない。日本は負けたんじゃないのかもしれない」(P.39)
と言ったそうだ。

冗談みたいな話だが、これがけっこう重要な発見だったと著者は考えているようだ。

放送では玉音のあとに内閣告諭や解説も流されたらしいから、日本が降伏した、つまり戦争に負けたということは十分に伝わったと見ていい。だからこそ大の大人があたり構わず慟哭したのだろう。だが、天皇のあの小難しいお言葉の中には、実際には「敗戦」の言葉も「降伏」の言葉もなかった。「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ 以テ万世ノ為二太平ヲ開カムト欲ス」という有名なくだりがあるが、これを文字通りに受け取れば《まだやれるけど、将来のことを考えてこの辺で止めておこう》ということになる。翌16日の新聞にも、「二重橋前に赤子の群/立上がる日本民族/苦難突破の民草の声」という勇ましい見出しのもと、「日本民族は敗れはしなかった」とする記事が掲載されていたりする。(P.39)

ここから新たな物語がはじまったらしい。

さすがに「負けたんじゃないのかもしれない」と考えた人はいなかっただろうが、多くの日本人は《余力が残っているにも拘わらず、天皇が英断を下して戦争を終結させてくれた》と理解したのだ。

はじめからそこまで計算して詔書を作ったのなら大したものだが、それならそれで、日本全国の90もの都市が空襲を受け、罹災者は800万人を超え、戦没者も300万人以上を数えるというのに、どの口でそんなことが言えるのだと言いたいところだ。だが、当時の日本人は被害の実態を知らされていなかった。なんの疑いもなく天皇の英断に感謝したようだ。

天皇の身を捨てての聖断で…

著者は、終戦詔書の掲載にはじまる8月15日からの一連の新聞報道が、新しい天皇像を日本人に植え付けたと考えているようだ。

こうして日本人は新聞をとおして、最後の一兵まで戦い抜くことの覚悟をしていた戦争が、天皇の身を捨てての聖断によって終結したということを知ったのである。(P.46)

作家の長与善郎もこんなことを書き残している。

これで天皇に対する国民の情愛は一層——始めてといっていい程熱度を加えられた。その点で国体護持以上却って堅固にさえなったと思える。(P.43〜44)

《国民の命の恩人》という理解のもとに、天皇に対する情愛がほとんどハイパーインフレ並みに高まったと考えられるわけだ。詔書そのものの表現力も一因だろうが、「戦争終結にさいしての、天皇の自己犠牲も厭わない決意を、丁寧に書いた新聞の影響力」も大きかったと著者は指摘している(P.102)。

そして、マッカーサーとの有名なツーショット写真が、天皇に対する情愛をさらに決定的なものにする。9月27日、二人がはじめて会談したときの写真だ。小柄な天皇は礼をつくしたモーニング姿で気をつけの姿勢、対する大柄なマッカーサーは略式の軍服姿でネクタイさえしていない。両手を腰の後ろ辺りにあて、足をわずかに開いたリラックスした姿勢だ。

勝者と敗者が歴然と分かる写真だった。で、国民はこの写真を見て、天皇が国民を代表してその屈辱を引き受けてくれたと考えたのだ。

中国新聞の大佐古一郎記者は、10月1日の日記に、同盟通信太田記者のこんな言葉を書き記している。「あれは天皇が神様ではないということを示す真実の写真だよ」(P.100)。また高野広島県知事や竹内人事課長がこんなことを言っていたことも。

陛下がおられたから日本はこのように平和裡に終戦を迎えられたのだ。ドイツのように最高指導者がいない国の国民の悲惨さを見てもそのありがたさがわかる。陛下は無条件降伏に当たって“自分はどうなってもよい”とまでいわれた。あのお写真はおいたわしいの一語に尽きる。(P.100〜101)

誰も天皇を悪く言わなかった不思議

もっとも、著者自身は、端から日本人の多くは天皇を神だなんて思っていなかったと考えている。東京・下町の悪ガキだった真藤少年は、仲間内では日常的に「天ちゃん」と呼んでいたというし、「まわりで戦争を懸命に戦い、勝ちたいと歯を食いしばっている人たちも、大日本帝国を世界に冠たる国家などと、身丈に合わない理念を信じている人たちなんかではなかった」と言っている(P.45)。

この辺りはもっと具体的な話が聞きたかった。後の時代から見ると、日本人全体が神国ニッポンを信じきっていたように見えるのだけれど、そうではないと言うのなら、実際の姿を詳しく知りたい。

しかし、いずれにしてもはっきり言えることは、「敗戦にともなうさまざまなウラミ、ツラミが昭和天皇あるいは皇室には向かっていない」ということだ(P.201〜202)。天皇制打倒を訴える共産党の勢いが高まったのも事実だが、それでも国民全体としては天皇に対して「ある種の親しみ」(P.45)を覚えていたという。これはGHQがどうこうという話ではない。彼らがやってくる前からそういう空気に覆われていた。「国民感情の不思議さ」(P.202)と言うほかはない。

東條英機の自殺失敗

天皇に対する情愛は高まったのかもしれないし、一方で進駐軍に対しても日本人は実に従順だったが、それ以外の部分では国民の心は著しく荒廃していった。多くの知識人が日記の中でそれを嘆いているし、著者もそれを実感している。そして、こんなことを言っている。

たしかに、戦争に敗北することによって、日本人の無知、卑劣、無責任、狡猾、醜悪、抜け目なさ、愚劣という悪徳がつぎつぎにぶちまけられる。だれもが自分以外のだれかを罵倒しつづけた。日本人が自分たちを矮小化し、みじめなくらい自己卑下し、そして相互に浅薄な悪口をぶっつけあったのは、おそらく歴史はじまっていらい、敗戦後の初秋ごろほどすさまじいときはなかったであろう。(P.114〜115)

で、ここからが興味深い。

そして人間不信、日本人であることの屈辱、嫌悪、情けなさ、それを決定づけたのは、九月十一日の元首相東條英機大将の自殺未遂ではなかったか。敗戦いらい失望することのみが多かったが、翌日の新聞で、ピストル自殺に失敗、の報道を読んだときほど、心底からがっかりしたことはない。父が「東條さんのしてきたことは、もともと煽動的でいかがわしかったからな」と忌まわしそうにいったのを寂しい思いで聞いた。(P.115)

9月11日といえば、戦艦ミズーリ号船上での降伏文書調印から10日もたっておらず、GHQはまだ日本軍の武装解除にドタバタしていた時期のはずだ。国民は日本軍による戦争犯罪についてはまだ知らないし、軍部にすべての罪を押しつけるという世論誘導も始まっていない。ようやく戦犯の摘発に乗り出してそれを始めようとした初日に、東條のピストル自殺失敗というこの事件が起こったのだ。そして、世論誘導などするまでもなく、国民はこの軍部の親玉の失態に幻滅し、彼を激しく軽蔑した。

天皇の戦争責任

昭和天皇の戦争責任については、国内でも国外でも大きな関心を集めた。まあ、当然だろう。しかし、この問題はいろいろな要素が絡み合い、かなり複雑な様相を呈した。なにしろ、日本と直接戦火を交え多大の被害を被ったアメリカが、天皇の戦争責任は問わないと言い出したのだから。連合国の中にはもちろん断罪を求める国もあったが、最終的には、昭和天皇は東京裁判の被告席はもちろん、証言台に立たされることさえなかった。無実でもなければ無罪でもない。不問に付されたのである。

占領コストを優先

注意しなければならないのは、昭和天皇を無実だと考えた者など、少なくとも連合国内には一人もいなかったはずだということだ。おそらく日本人の多くも、まったく責任がないとは考えていなかったのではなかろうか。つまり、ほとんどの人が——おそらく天皇自身も——責任があると考えていたのに、罪を問われなかった。この結果には多くの人が——これについてもおそらく天皇自身も——やりきれない思いを味わったに違いない。

道理とか道義とか法よりも、戦後処理におけるコストが優先された結果だった。アメリカは、終わった戦争のためにこれ以上コストをかけたくなかったのだ。

天皇の責任を問えば死刑は避けられない。彼は大日本帝国の絶対君主であり、全軍の大元帥の地位にあったのだから。仮に実質的な権限を持たなかったとしても、無罪はありえないし、軽微な罰則で済ますことも難しい。しかし、それまで神とされてきた者を死刑にすれば、人々が動揺し、国内は混迷を極めるだろう。おとなしく武装解除に応じた日本兵が再び銃を取ることも考えられる。そうなれば進駐軍のリスクは一気に高まり、占領コストが跳ね上がる。人員を大幅に増やさねばならないだけでなく、さらに多数の死傷者が出る。占領期間も大幅に延びる。そのデメリットのほうが大きいと計算したのだ。逆に天皇を傷つけず、その力を最大限に利用すれば、占領コストは劇的に低減できる。

だから、アメリカ国内でも天皇の断罪を求める声が多かったにも拘わらず、こうした広い意味での経済を優先させてアメリカは天皇免責を決断した。連合国もそれに従わざるを得なかったのだ。

天皇制の存続問題とは別

天皇の戦争責任について考え始めると、どうしても天皇制そのもののことまで考えてしまう。それが普通ではなかろうか。昭和天皇に責任がないと考える人はそんなにいなかったのではないかと思うが、それを言い出すと、じゃあ天皇制は存続させていいのかという話になりかねない。そう考えると安易に口にすることができなくなる。少なくとも国内的にはそういう面があったのではないかと思う。

だが、アメリカ(=GHQ)はこの二つをきっぱりと切り離して考えた。戦争責任は問わないが、だからと言って天皇制を従来どおり存続させることまで容認したわけではない。きわめてビジネスライクだ。

責任を不問にすれば、天皇制存続の可能性が高まるのは確かだろうが、そうなった場合でも天皇の権力を剥ぎ取ることは容易だと踏んだのだろう。あるいは、日本人が自分たちの意思で天皇制を廃止すると考えたのかもしれない。

ここで思い出すのは、ポツダム宣言受諾の際のやりとりだ。

受諾の条件として、日本は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解」を求めた。連合国内ではあれこれ議論があったようだが、「日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」という玉虫色の返答を返した。日本はこれを「了解」と解釈して降伏したが、連合国側としてはイエスと言ったわけではなく、民主主義の基本的な仕組みを述べたに過ぎない。少なくとも天皇や現行の権力者にそれを決める権利はないですよと釘を刺しているわけで、無条件降伏を一歩でも譲ったという認識はなかったのだろう。だが、《連合国が了解した》と日本が受け取ったことは連合国にも分かっていたはずだ。

話が行ったり来たりするけれど、日本が問いかけたのは《天皇制は継続できますよね》という点だけで、昭和天皇の命の保証までは求めていない。いま読むと、なぜ求めなかったんだろうと疑問に感じてしまうが、まあ、そこまで求めたら連合国側は拒絶すると分かっていたのだろう。昭和天皇の命は半分諦めていたということだろうか。昭和天皇の免責までは求めないから天皇制は続けさせてくださいよ、と。

そうだとしたら、日本政府も、天皇の戦争責任と天皇制存続の問題は別物と考えていたことになる。連合国とはまったく逆の意味で、ということになるけれど。

退位論

あらためて書くまでもなく、天皇退位論は敗戦直後から内外の新聞をにぎわしている。(P.155)

この退位論というのは、おそらく自主的な退位を勧奨するものだろう。天皇が法廷で責任を問われることはない。だが、無実ではないのだから、自らその地位を退くべきだという意見だと思う。戦勝国に断罪される不名誉は免れたのだから、自らの矜持をもって身を処するべきだと。

退位が意味するものは、日本人と外国人とでまったく違うような気がするが、外国人のことはよく分からないのでひとまず置いておく。で、これは僕の勝手な推測だが、日本人の多くはこの辺が落としどころだと考えていたのではなかろうか。

たとえば昭和20年の10月21日に、近衛文麿が外国人記者団との会見で口をすべらせてこんなことを言う。

御上は大元帥陛下として戦争に対する責任がある。ゆえにご退位なされないと、あるいは連合国の一部から戦犯指定の声が出てこないともかぎらない。それでは国体護持は不可能になる。退位されて京都にでもご隠居なさったほうがいいのではないか。(P.153)

近衛は天皇から指示を受けて憲法改正を検討していた。その経過を話しているうちに飛び出したのがこのセリフだった。外国人の心を逆なでするような言葉だからたちまち大騒ぎになり、24日に弁明の記者会見を開いて収拾を図るのだが、本音がポロッと出たと見ていいのではないだろうか。

また、こんな話も出てくる。

少し先の話になるが、翌年2月27日、天皇退位に「皇族方は挙げて賛成/反対派には首相や宮相」という記事が読売報知新聞のトップを飾った(P.350)。天皇本人も、そして皇室全体としても退位を望んでいたということだ。

冷静に考えれば分かることだが、そんなことが許されるわけがない。連合国側は、天皇を無実だとも無罪だとも考えていないのだ。気持ちのうえでは100%有罪であり死刑だろう。少なくとも各国の国民はそう考えている。

優雅に隠居することで責任を取ったつもりになれるのは、脳天気な日本の貴族と、何も知らない日本国民だけだろう。そして、これではここまで天皇を擁護してきたマッカーサーの立つ瀬がなくなってしまう。GHQの利益のためだったとはいえ、世界中が天皇の断罪を求める中をなんとか強行突破してきたというのに。

とにかく、近衛の発言は政府からも猛攻撃を受けて撤回させられ、退位の件は(たぶん)有耶無耶にされた。GHQは憲法草案の発表を急がせ(3月6日発表)、国民の視線をそちらに向けさせた。

天皇制存続の問題=憲法改正

連合国側のスタンス 〜あくまでも日本の自主性を重視〜

前にも書いたように、日本政府はポツダム宣言受諾に当たり、天皇制の存続を唯一の条件として打診した。連合国はそれには直接答えず、それを決めるのは国民ですよと返した。外交にはよくあることなのかもしれないが、分かるような分からないような要領を得ない返答だった。言質をとられるような明確な譲歩ではないが、断固とした態度を示さなかったのも事実で、早く降伏させたいという焦りの現れだったことは否定できないだろう。

この返答がその後の連合国にどれほどの拘束力を持ったのかは分からないし、もしかしたら欧米の常識を言葉にしただけ、ということなのかもしれない。そこのところは分からないが、連合国が最後の最後まで「決めるのは国民ですよ」というスタンスを崩さなかったのもまた事実のようだ。

2月1日の毎日のスクープで堪忍袋の緒が切れてしまうのだが、そこまでGHQは憲法改正についていっさい口を出さなかった。日本政府が出してきたものを、ポツダム宣言に照らして審査するのが連合国側の役割だと考え、そういう構えでいたのである(P.281)。天皇制をどうしていくかは、形のうえでは完全に日本に委ねられていたのだ。その少し前(1月11日)に米国の国務・陸軍・海軍の三省調整委員会が決定した228指令(「日本の統治体制の改革」)にも、次のような文言があった。

最高司令官が、さきに列挙した諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、諸改革が連合国によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれらを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである。(P.281)

文中にある「さきに列挙した諸改革」とは憲法改正に関する指針で、天皇権限の縮小、統帥権独立の廃止、国務大臣の文民制、議院内閣制、議会の予算統制権、地方自治の強化、基本的人権の拡大などが挙げられていた(P.280)。天皇制の継続は認めるものの、その権限は大幅に縮小されるべきであることが明確に示されている。詳細な模範解答を用意したうえで日本人の自主性を重んじたわけである。

日本政府のスタンス 〜国体護持は保証されている?〜

対する日本政府は完全に状況を見誤っていたとしか言いようがない。ポツダム宣言とGHQが発する各種指令、そしてマッカーサーの言動を冷静に考え合わせれば、日本が何を求められているかは分かりそうなものだが、そうはいかなかったようだ。

松本烝治国務大臣を専任相として憲法問題調査委員会(別称「松本委員会」)を作るが、松本本人が本当に改正の意思を持っていたかどうかさえ怪しく、議論は遅々として進まなかった。また、内閣にもGHQにもまったく経過報告がなかったらしい。

彼らは、ポツダム宣言の中に「民主主義的傾向の復活強化」という言葉があったことから、大正デモクラシーと呼ばれた時代の自由さを取り戻せば十分だと考えてしまったのかもしれない。それなら明治憲法のままでもOKということになるだろう。また、宣言受諾直前の連合国からの返答にあった「日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」を、国体護持の保証だと本気で信じていたのかもしれない。

いずれにしても、GHQがブルドーザーのような勢いで日本改造を進めていたというのに、それが憲法改正の土台作りであることにはどうも気づかなかったらしい。その結果、2月1日の毎日のスクープを受けてGHQに見切りをつけられ、「最後の手段」を行使されてしまうのである。まあ、惚けていたとしか思えない。

国民

日本国内では、政治犯の解放で共産党が息を吹き返し、今からは想像できないほどの人気を博する。山田風太郎が日記に「野坂参三今や日本最大の人気者たり。新聞第一面に活躍するは共産党ばかり」(昭和21年1月29日、P.300)と書くほどだった。共産党は天皇制打倒を謳い、それを正面から訴えていた。つまり、天皇制の廃止を望む国民もそれなりにいたことになる。

また、東大社会学教室が昭和20年12月に実施した調査の結果として、興味深いデータが残っている。東大生を対象に行ったものなので、国民全体の意識を代表しているとは言えないが、それによると天皇制を支持する者は75%(不支持6%)と圧倒的多数を占めるものの、そのうちの40%が一部改革を、35%が根本改革を望むと答えているのだ。つまり、天皇制の存続を多くの者が望んでいたとはいえ、従来の制度をそのまま継続すべきだと考える者はごくわずかだったということになる。(P.206)

著者も言っているように、日本人は戦争〜敗戦にともなうウラミ、ツラミを天皇には向けていない(P.201〜202)。だから天皇を処刑するとか、天皇制を葬り去ることには消極的だった。だがその一方で、戦時中のあれはやり過ぎだろうと感じてもいたのだろう。そして、GHQが怒濤のごとく旧来の制度を解体し、新たに植え付けようとしていた自由や民主主義に、(その強引さはともかくとして)反感を覚えることもなかった。違うかな。

最後に、この本の中で一番不思議で一番笑えるエピソードを。

侍従次長だった木下通雄の『側近日誌』によると、この時期に外務大臣を務め、その後総理大臣となる吉田茂は、「現人神」という言葉も「現御神(あきつみかみ)」という言葉もよく知らなかったらしい。「国体については低脳である」と憎々しげに罵倒している。(P.227)

これには著者も驚いているが、驚きつつも、著者自身、戦時中に「現人神」などという言葉を使った記憶がないと言っている。(「天ちゃん」は使っていたけど。)案外こんなものだったのかもしれない。そして、こう言うのだ。

環境と年齢その他で事情は異なるであろうが、日本人の多くは「神」として天皇を崇めたのではなかったのではないか。時に強制されてそのふりをしたこともあったが、どちらかといえば、少し高いところにいるもうひとりのおやじ的に、半ばおっかなく、半ば尊敬をもって仰ぎ見たというほうが、感覚的に近くはなかったか。(P.228)

だとすれば、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)などと言われるより、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(日本国憲法第1条)のほうがよっぽど実感に近いということにならないだろうか。

長与善郎が日記に書いた「天皇に対する国民の情愛」も、現人神やら大元帥だと今ひとつピンとこない。神であり総大将であるなら、聖断を下すのは当然のことだろう。義務と言ってもいいくらいだ。それに、終戦の決断をしたのが天皇なら、開戦の決断をしたのも天皇ということになる。神のくせにその決断によって祖国は滅亡の危機に瀕したのだ。大失態と言うほかない。

ヘンな言い方になるが、神だったら許せない。
もっと身近な存在だから、情愛も感じたし、「京都にでもご隠居なさったほうが」(近衛文麿)などと暢気なことが言えたのではなかろうか。

そんな気がする。

半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫2008年)
2008年単行本(プレジデント社)