投稿するつもりで書き始めたらとんでもない長文になってしまったので、サワリだけを投稿して、あとはここ(固定ページ)でコツコツ書いていくことにする。書き上げられるかどうか分からないけれど。
「日本会議」を世に知らしめた3冊
日本会議をテーマにした3冊の新書本についての備忘録。
発行はいずれも2016年で、まだマスコミもほとんど取り上げていなかった時期だ。日本会議という特異な右翼団体の危険性をいち早く訴えた、意義深い仕事だと思う。
同じ組織のことを書いてあるのだから同じ情報を何度も読まされることにはなるけれど、それぞれ切り口が違っているので続けて読んでも飽きることはなかった。3冊一気読みすると、その違いを味わうというヘンな楽しみ方もできる。それぞれ面白いし。
- 山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』(2016年 集英社新書)
- 菅野完『日本会議の研究』(2016年 扶桑社新書)
- 青木理『日本会議の正体』(2016年 平凡社新書)
もし3冊とも読むんだったら、上の順番がいいかなと思う。僕が読んだ順番は違ったけれど。
「日本会議は何を考えているのか」が一番すっきり分かるのが①で、②と③はどちらかと言うと「日本会議の黒幕はどういう人たちか」に重心がある。この点もまた重要で、これを知らないと日本会議を本当に知ったことにはならないかもしれない。安田浩一『「右翼」の戦後史』の読後メモで書いた「新しい右翼」の人々だ。黒幕を暴くルポとして読者を引き込む力は②のほうが上だろう。ポイントは彼らの出自と運動スタイルで、③でもそれは明らかにされるが、②に比べると筆致はクールだ。でも、③は後半の50ページ以上を使って日本会議が「勝ち取ってきたもの」を時系列でまとめてあって、戦後の日本社会からいかに多くのものを彼らが奪ってきたかを実感させられる。彼らは過去何十年もかけて自分たちの思う社会の実現へと歩みを進めてきたのだ。
第24回参議院議員通常選挙
この3冊が2016年に発行されたということにはすでに触れたが、第1刷発行日、つまり最初に世に出た日を奥付で確認すると②が5月1日、③が7月8日、①が7月20日。
実はこの年の7月10日が第24回参議院議員通常選挙の投票日だった。そして日本会議の面々はこの選挙を、悲願である憲法改正への天王山として強く意識していた。衆院はすでに3分の2以上の議席を与党が占めていたから、この選挙で参院も(非改選議席を含めて)3分の2を確保できれば改憲の発議ができる。安倍首相もそれらしいことを言っていたし、実際にそうなりそうな勢いだったし、実際にそうなってしまった。まさにこの選挙の結果、与党がまとまればいつでも改憲できる世の中が到来してしまったのである。
三人の著者がこの参院選の重要性を認識していなかったはずはない。だから本当は①と③も選挙が始まる前に世に問いたかったのではないかなと思う。まあ、そんなことは一言も書かれてはいないけれど。
ここから先はそれぞれの本についてのメモ。と言っても、自分の頭の中を整理することが目的なので、話があちこちに飛んで、とりとめのないものになると思う。3冊をもとに「日本会議」について知っておくべきことを書き出すという感じかなあ。
①山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』
神社が安倍政権を支えている
今の保守(という言葉はあまり使いたくないのだが)政治家たちを支える民間団体に日本会議と神道政治連盟(神社本庁)がある。国会議員が作っている協賛組織(日本会議国会議員懇談会、神道政治連盟国会議員懇談会)にはいずれも300人を超える議員が所属しているというから、この数字からも影響力の大きさがうかがえる。しかも神社本庁は日本会議の中心メンバーなので、この二つを切り離して考えてもあまり意味がない。掲げる目標も共通しているし、協賛議員の顔ぶれもほとんどと言っていいくらい重複している。
要するに神社(=神道)を主要メンバーとする日本会議が今の保守政権を支えている、ということになる。
しかし、日本会議には神道だけではなく伝統宗教から新興宗教まで多くの宗教団体が結集していて、そのことがこの組織の外見をぼんやりとしたものにし、また同時に巨大で強力な政治集団にしてもいる。で、それを可能にしているのが縁の下で支える「新しい右翼」の方々。だが、この方々についてこの本(①)はあまり触れていないので、詳しくは他の本のところで。
まずは神社界の話から。この本では戦後のことしか触れられていないが、少し遡っておさらいしておく。
身近だが宗教色の消えた戦後の神社
神社といえば初詣。他にも祭り、宮参り、七五三と、今も日本人の生活の中に深く溶け込んでいる。ただし、僕の場合は初詣にもほとんど行ったことがないし、子どもがいないから宮参り・七五三とも縁がなかった。祭りも記憶にない。こんな人間もいるわけだ。ここまで縁遠いのは珍しいのかもしれないが。
あ、あった。神社とのご縁。
ラジオ体操…小学生の頃の夏休みの。毎年30回以上通ったのだった。お祈りなど一度もすることなく、ただ境内でだらだらと体操をして、首から吊したカードにハンコを捺してもらって帰るだけだったけれど。
でも、みんなそうだった。そして、これこそ戦後の神社の姿の象徴なのかもしれない。僕に限らず、神社に対して宗教的な敬意とか畏れを示すような子どもは一人もいなかった。戦争が終わってから四半世紀以上が経っていた。大きな由緒ある神社はともかく、田舎のありふれた神社からは宗教の匂いがすっかり消えていたのである。
神社は「神道」の宗教施設のはずなんだけれど、神道というソフトウェアがどこかに消えてしまって、ハードである神社だけが残った感じとでも言おうか。
波瀾万丈の神社界
1945年までの数十年間、神道はほとんど国教のようなものだったと言っていい。天皇を神と仰ぎ、政治も社会も何もかもが天皇を頂点とする秩序体系に組み込まれていた。「国家神道」というやつだ。
天皇を神とする考え方は古くからあったが、日本人がずっとそれを信じてきたわけではない。大和朝廷とか古墳時代とか、そういう時代はともかく、6世紀に仏教が伝わると天皇自身が仏教に改宗してしまったのだから。その後も宮中行事は継承され、「万世一系」を尊ぶ気持ちは維持されたのかもしれないが、貴族も武士もおそらく仏教徒だったはずだし、庶民が信じたのも仏教だった。神道は消えこそしなかったものの、仏教に取り込まれることでかろうじて生き残ったと言ってもいい。神社のそばには神宮寺が建てられ、主役はそっち。神仏習合というやつだ。長くなるのでこの辺にしておくけど、わかりやすい例が天皇の葬式だろう。江戸時代最後の孝明天皇まで、たぶん千年以上の間ずっと仏式だったのだ。自らが神であれば、死後の成仏など考えるだろうか。
明治維新によって風向きが変わった。天皇による祭政一致が唱えられ、それにともない神道はいわゆる「国家神道」へと生まれ変わる。これは明治政府による創作物であり、それまでの神道とはまったくの別物だったのだが、これも長くなるので深追いはしない。いずれにしても神社界は我が世の春を謳歌したにちがいない。それまでは仏教の小間使いのような日陰の存在だったのに、完全に立場が逆転したのだから。寺の住職はただの民間の宗教団体職員。それに対して神主は国家公務員になったようなものである。
しかし戦後すぐに再び谷底に蹴落とされる。GHQの「神道指令」(1945年12月)によって国教待遇はすべて剥奪されたのである。管轄官庁であった神祇院(内務省の外局)は廃止され、すべての神社は寺院やキリスト教会と同じ民間の宗教施設に格下げされた。それどころか戦犯扱いだったと言ってもいい。
GHQの「神道指令」は、戦前・戦中の国家神道について「神道の教理や信仰を歪曲して日本国民を欺き、侵略戦争へ誘導するために軍国主義と超国家主義の宣伝に利用した」と断定した上で、そのような神道系施設や団体に対する国からの資金的・人材的サポートを停止することを、日本政府に命じるものでした。
(①P73)
ダメ押しのように1946年の元旦、天皇が「人間宣言」をする。それまで天皇を神と崇め奉る祭祀を半ば独占的に司ってきたのに、その神が消失してしまったのだ。
そしてとどめを刺したのが日本国憲法だった。1946年に公布された新憲法はすべての人に信教の自由を保証し、政府の宗教活動を禁じた。天皇を「日本国の象徴」と定め、主権が国民にあることを宣言した。天皇はそれまで与えられてきた超越的な地位と権限を失ったのである。GHQの指令だけなら独立後に白紙撤回することもできたかもしれないが、国の最高法規である憲法はそうはいかない。神道指令が恒久化されたのである。これで戦前・戦中のような国家神道が復活する可能性は潰えた。
神社界はGHQによる敗戦処理によって「我が世の春」のすべてを失った。計り知れない屈辱感を味わったことだろう。だが島薗進氏によると、GHQによる神道解体は十分なものではなかったらしい。(『国家神道と日本人』)
神社界の復讐
神社本庁
「国家神道」が否定され、戦後の神道/神社は一介の民間宗教となった。このとき全国の神社を統括する組織として宗教法人「神社本庁」が設立される。ほとんどの神社(約78,000社)が傘下に入り、巨大な宗教教団が生まれた。1946年2月3日のことだ。(①P74)
ところがこの神社本庁は国家神道の復活をぜんぜん諦めていなかったのだ。
神社本庁は皇室祭祀に高い意義を与える国家神道的な信念を宗教的な柱とし、神道的な意義をもった天皇崇敬や天皇と神社の連携強化を目指すようになる。民間の神社神道の充実に意を用いつつも、それにもまして国民生活の中での国家神道、とりわけ皇室祭祀や天皇崇敬の地位を高めることに多大な力を注ぐ宗教教団としての活動を重視していくことになる。
(島薗進『国家神道と日本人』P196 )
神道政治連盟の結成
1969年神社本庁は「神道政治連盟」(神政連)を設立する。「神道精神を国政の基礎に」をスローガンとする政治運動団体である。臆することなく政治への関与に乗り出したのだ。神道指令についても激しく批判する。神社本庁の機関紙「神社新報」が1971年に刊行した『神道指令と戦後の神道』(神社新報社)の中の文章を、この本(①)から孫引きさせてもらう。
この指令は、日本の神社制度の変革を命じただけでなく、制度とともに日本人の神道的国民意識そのものを決定的に変質させ、革命することを目的とするものであった。(中略)
神道指令は、世界史上比類なき大戦と、その戦勝の威力によって強制されたものであって、その重圧の力は大きかった。この指令のために、洗脳された日本人の存在は、無視しがたい。とくにそれは、占領中に変革された大学、マスコミ等の文化機関や、国家権力の中枢をにぎる政治家、文化人、官僚等の間にいちじるしい。
(①P77〜78)
見当違いもいいところと言うか、すさまじいまでの逆恨みである。この本(①)の著者である山崎雅弘も言っているように、天皇(制)を史上最大の危機に陥れたのはあの戦争であり、それを起こしたのも、国土が焦土になるまでずるずると長引かせてしまったのも、もとはと言えば「神道的国民意識」が要因であったろうに。そういう点はまったく認めず、ただ自己の名誉回復、特権回復のことしか考えていないと言わざるをえない。
こうした問題意識に基づき、神社本庁はGHQに変質させられた「神道的国民意識」を取り戻すべく、さまざまな運動を展開しました。特に彼らが重視したのは、占領軍によって一方的に「押しつけられた」と彼らが理解する日本国憲法の廃棄と、国家神道的価値観への回帰を盛り込んだ自主憲法の制定でした。
(①P78)
神政連のウェブサイトを開くと、ヘッダーには「神政連のテーマ それは日本らしさです」というスローガンが掲げられている。また「神政連の主な取り組み」として挙げられているのは次の5項目である。彼らが何を目ざしているかがよくわかる。
- 世界に誇る皇室と日本の文化伝統を大切にする社会づくりを目指します。
- 日本の歴史と国柄を踏まえた、誇りの持てる新憲法の制定を目指します。
- 日本のために尊い命を捧げられた、靖国の英霊に対する国家儀礼の確立を目指します。
- 日本の未来に希望の持てる、心豊かな子どもたちを育む教育の実現を目指します。
- 世界から尊敬される道義国家、世界に貢献できる国家の確立を目指します。
神社本庁/神政連の具体的取り組み
時期は前後するが、神社本庁の具体的取り組みを見てみる。
- 紀元節復活運動 1951〜66年
- 神武天皇が即位したとされる2月11日を国民の祝日として復活させる運動。
- 66年に法制化実現。この運動の経験から政治団体としての神政連を結成。
- 靖国神社国家護持法 1956〜74年
- 日本遺族会が56年の全国戦没者遺族大会で靖国神社の国家護持を決議。
- 63年靖国神社が「靖国神社国家護持要綱」を発表。
- 神社本庁などの神道界も運動を後援。
- 69年から74年まで自民党が法案を提出するが成立せず。
- 元号法制化運動 1968〜79年
- 新しい皇室典範から削除され法的根拠を失っていた元号に再び法的根拠を与える運動。
- 成長の家から生まれた青年組織「日本青年協議会」も加わり、重要な役割を果たす。
- 1978年神社本庁、神政連、生長の家、仏所護念会、日本遺族会、日本青年協議会などが合同で「元号法制化実現国民会議」を結成。
- 1979年国会で可決、施行。
(①P83〜92)
動き始めたのが1951年であることに注目したい。この年の9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印され、日本の主権回復が確定した。条約の発効とGHQによる占領の終了は翌年だが、それを待つことなく神道復権に向けた行動を始めたことになる。そこからは一直線。そして元号法制化運動でタッグを組んだ面々とその後日本会議を結成することになるのである。
日本会議の誕生
日本会議が設立されるのは1997年5月30日。それまでの流れをかんたんに整理しておく。
「日本を守る会」
1974年4月2日に「日本を守る会」が創設される。言い出したのは臨済宗円覚寺派管長の朝比奈宗源、つまり仏教のお偉方。なぜか伊勢神宮を訪れたときに「御神託」を受けたのだそうだ。そして以前から付き合いのあった明治神宮の伊達巽宮司や富岡八幡宮の富岡盛彦宮司、そして「生長の家」総裁の谷口雅春などに呼びかけた。創設時の代表理事には朝比奈、伊達、谷口のほか、神社本庁事務総長の篠田康雄、念法真教灯主の小倉霊現、仏所護念会教団会長の関口トミノ、曹洞宗管長の岩本勝俊、日蓮宗管長の金子日威、浅草寺貫主の清水谷恭順など主な伝統宗教と新宗教のトップがずらりと並んだ。
この団体の事務局を取り仕切ったのは生長の家の村上正邦だった。のちに自民党の大物議員となり「参院の法王」と称された人物だが、当時は教団の組織候補として立候補するも落選中だった。またその後、日本青年協議会(書記長・椛島有三)が請われて事務局入りする。生長の家を母体とする組織で、以来彼らが事務局の中心となる。椛島有三は現在の日本会議・事務総長、日本青年協議会・会長である。
日本を守る会の創設の目的は「混迷する社会状況に対処し、日本の伝統精神の原点に立ち返って、愛国心を高揚し、倫理国家の大成を図る」。
当時すでに学園闘争の季節は終わっていたが、共産党が党勢を伸ばし、また創価学会を母体とする公明党も政界での地歩を着実に固めていた。共産党ははじめから無神論を唱えていたし、公明党は創価学会の国教化を目ざしているとも言われていた。この二つの勢力に対する怖れが新旧宗教団体を結集させたのだと著者の山崎氏は指摘する。
(①P63〜66/②P45〜48)
基本運動方針は以下の5点。
- わが国の伝統的精神成に則り、愛国心を高揚し、倫理国家の大成を期する。
- 正しい民主主義を守り明るい福祉社会を建設する。
- 偏向教育を排し、ひろく教育の正常化を推進する。
- 言論報道の公正を求め、唯物思想や独裁的革命主義を排除する。
- 国際協調の中にあらゆる世界平和の道を求め祖国日本を守りぬく。
(中島三千男「今日における政治と宗教」1980-02-01神奈川大学 P41)
当然のことながら神道政治連盟の目標と比べると漠然とした印象を受ける。「皇室」「新憲法」「靖国」といった神社界にとっての具体的なテーマは姿を消し、代わりに当時の危機意識を反映して左翼を意識した文言が加わっている。
「日本を守る国民会議」
神社本庁が取り組んだ神道復権運動の中でエポックを画するものとなったのが元号法制化運動(1968〜79年)だった。神政連を創設して政治に直接訴えかけたこともその一歩であったろうが、本当に画期的だったのは“大衆運動”的な運動スタイルを確立したことだった。中央だけでなく、全国各地で“草の根運動”的、“大衆運動”的な行動を組織し、その実績を背景にさらに中央を動かすという高等戦術である。
その過程で1978年に発足したのが「元号法制化実現国民会議」だった。日本を守る会は右派宗教団体の集まりだったが、こちらは具体的なイシューを掲げ、幅広い団体や著名人を集結させた。呼びかけ人は徳川宗敬(神社本庁総理)、石田和外(元最高裁長官)、宇野精一(東大名誉教授)、天地清次(同盟会長)、黛敏郎(作曲家) 、山岡荘八(作家)、細川隆元(政治評論家)、永野重雄(日本商工会議所会頭)、春日野清隆(日本相撲協会理事長)、大浜英子(元中央選挙管理委員会委員長)ら10名。労組のトップまで名を連ね、一見するところまさに各界の代表だ。しかしその中心は日本を守る会や靖国神社国家護持運動の担い手たちだった。そして事務局を務めたのはここでも日本青年協議会だった。村上正邦も国会対策を取り仕切っている。日本を守る会と同一のメンバーが土台を支えたのである。
(中島三千男「今日における政治と宗教」1980-02-01神奈川大学/③P167)
こうして1979年元号法案が国会で成立した。そして、これだけの盛り上がりを生んだ運動体を解散するのはもったいないと、「元号法制化実現国民会議」を発展的に再組織したのが「日本を守る国民会議」である。(1981年10月27日設立)
「日本を守る会」「元号法制化実現国民会議」「日本を守る国民会議」の事務局を実質的に取り仕切っていたのは生長の家由来の日本青年協議会だったが、事務総長はいずれも明治神宮権宮司の副島広之が兼任していたようだ。「元号法制化実現国民会議」を「日本を守る国民会議」に改組することを提案したのも副島だと言われている。
(Wikipedia「日本を守る国民会議」)
「日本会議」の設立
1997年5月30日、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が統合される形で日本会議が発足する。ごく自然な流れだと言えるのではなかろうか。守る会が自らの取り組みを大衆化するために組織したのが「元号法制化実現国民会議」であり、それが目的を達したあと、より広範な(右翼的)課題に取り組むために再編されたのが「日本を守る国民会議」だったのだから。守る会のメンバー(宗教団体)はみんな国民会議に参加しているし、事務局も共通。別々の組織である理由はもはやない。
ウェブサイトに掲げられた目標は以下の6点。
- 美しい伝統の国柄を明日の日本へ
- 新しい時代にふさわしい新憲法を
- 国の名誉と国民の命を守る政治を
- 日本の感性をはぐくむ教育の創造を
- 国の安全を高め世界への平和貢献を
- 共生共栄の心でむすぶ世界との友好を
(③P32)
「日本を守る会」の基本運動方針と比べるとシンプルで一般的な表現にはなっているが、露骨な反左翼的な主張が消え、一方で改憲(②)と国防の強化(⑤)にはっきりと言及しているのが特徴だ。
そして、日本会議の初代会長に就任した塚本幸一(当時ワコール会長)は、設立大会でこう言っている。
まず何といっても、憲法を変えなければなりません。芯が腐っていたのではこの国は立ち直れません。
(①P62)
こうやって流れを追ってくると、GHQによる神道指令と日本国憲法によって既得権を奪われた神社界の怨念がまっすぐ日本会議へとつながっていることが分かる。
彼らは、国家神道はもちろんのこと戦前の日本のあり方には何一つ瑕疵はないという前提に立っている。当然、先の戦争に関しても日本を加害者とする視点はいっさい認めようとしない。彼らの中ではそんなことはあり得ないのだ。そりゃそうだろう。神の国なんだし、世界のどの国よりも優れているんだから、間違いなど犯すわけがない。侵略戦争ではなく植民地解放戦争だと言い張るのも、南京大虐殺や従軍慰安婦を全否定するのも、土台にはこの信仰がある。日本はアジアの平和のために正義の戦争を戦い、惜しくも敗れた。しかし、敗れはしたが罰せられるようなことは何一つしていない。これが彼らの認識なのである。
それなのに連合国側は不当な懲罰を科した。勝者であることをいいことに、日本を永遠に弱体化させようと、その根幹にあるものの破壊を図った。それが天皇を中心とする「国体」である。…まあ、こんな理屈のようだ。連合国側としてはその国体こそが日本を狂わせ、あの犯罪的な侵略戦争に向かわせたと考え、再びその過ちをくり返さないように排除したわけだが。
戦後の日本はアメリカによって損なわれた日本であり、本当の日本ではないと彼らは考える。彼らは戦後の日本を、めざましい経済発展を遂げたとはいえ、良いところはその点だけで、あとは何もかもダメダメな国だと考えているようだ。彼等によるとそれは日本の伝統・強みを封印されてしまったから。だから損なわれる前の日本を取り戻さなければならない。それを目ざして“大衆運動”によって小さな成功を一つずつ積み上げてきたが、本質的な成功にはまだほど遠い。それは日本国憲法による拘束が残っているからだ。戦後70年以上もたつのにアメリカによってかけられた呪縛から逃れられずにいる、というわけだ。
だから改憲なのである。もっと言えば、日本国憲法をすべて葬り去りたいのだ。九条ばかりが話題になってきたが、たとえ九条が改正されたとしても彼らの闘いは終わらないだろう。彼らが見据えているのは日本国憲法によって否定されたすべてのものであり、要するに天皇中心の国家体制の復活なのだから。
二つの疑問
分からないことが二つある。
一つは、いまや日本人の大半が戦後に生まれ、日本国憲法のもとで戦後教育を受けて育ったというのに、なぜこんな大時代な考え方に共鳴する人がこれほどいるのかという疑問。おそらく今上天皇でさえ否定しているような古い価値観を、なぜ戦後70年以上を経てなお維持できるのか。自民党の国会議員にいたっては大半が日本会議に所属しているわけだが、一般国民の中にもそれだけの日本会議シンパがいるかと言うと、それはないだろうと思う。なぜこのような偏りが生まれてしまったのか、何が最大公約数になっているのか。
もう一つは、これほどアメリカの占領政策を憎悪する人々がなぜ今日の内外政においてアメリカと協調できるのかという疑問。アメリカが日本をダメにしたという信念を抱きながらも、アメリカの庇護を受けることになんのためらいも感じず、それどころかアメリカの戦争に加担することも辞さない。この根本的な矛盾をどうやって解消しているのかまったく理解できない。
この2点については三冊とも明確な答えは与えてくれない。
天皇を中心とする国体
最初に書いたように、この本(①山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』)を読めば日本会議が何を考えているかがすんなりと理解できる。それは神社界のストーリーとして流れを追えるからだろうと思う。実は黒幕と言うべき存在が別にいるのだが、あえてそこには深入りしていない(基本的なことは書いてあるけれど)から、大日本帝国憲法下の国家神道→神道指令→戦後日本という単純な線を辿っていくことができる。
もちろん、この本は神社界の歴史を説いているわけではない。そこがよく分かるというだけの話で、著者の意図はまったく別のところにある。この本は安倍政権と日本会議の近さ、思想的類似性をていねいに追っているのだ。安倍首相の発言、姿勢、政策は日本会議の思想と驚くほど一致する。歴史認識や改憲への意欲だけではない。家族、教育、軍事などどれをとっても、日本会議の目標を一つひとつ忠実に実践しているようにさえ見える。まるで操られているかのようだ。
すべての芯にあるのは天皇を中心とする国体という考え方、というより信仰のようだ。それこそが日本であると彼らは考え、そこへ戻すための布石を着実に打ち続けているのである。だから、彼らのこの最終目標を忘れてはならない。彼らは手の届きそうな具体的課題にコツコツと取り組んでいるが、それらはすべて「天皇を中心とする国体ならばこうあるべき」というものばかりなのだ。建国記念日(紀元節)や元号、国旗・国歌などは典型だろう。どうでも良さそうにも思えるが、外濠が一つずつ埋まっていると考えるべきだ。
そして現在の改憲論議は、これまでのような外周にある細い壕ではない。本丸へ斬り込むための最後の壕にもなりかねない。自衛隊の位置づけを表看板に掲げているが、それはさし当たりの突破口にすぎないのだ。間違いなくそれを手始めに波状攻撃をかけてくる。だから、個別の案件に安易に納得して穴を開けさせてはならない。彼らの最終目標をしっかりと視野に入れておかなければならないのである。
②菅野完『日本会議の研究』
生長の家原理主義者に着目…日本会議を動かす人々
3冊の中でもっとも早く出版されたこの本は、扶桑社のWebメディア「ハーバー・ビジネス・オンライン」に2015年2月から連載された「草の根保守の蠢動」を改題したもの。だから、かなり早い時期から日本会議に注目していたことになる。ネトウヨに関心を抱くうちに彼らの情報ソースが「保守論壇誌」であることに気づき、そこから日本会議の存在に行き着いたという。「日本会議周辺の保守論壇人は異質だ」「日本会議周辺は、これまでの保守や右翼とは、明らかに違う」という感触を得て、本格的に取材を始めたらしい。(②P5〜12)
見えてきたのが、この特異な右翼団体を裏で支える人々の存在だった。日本会議の事務局を取り仕切る日本青年協議会だ。生長の家原理主義者とでも言うべき活動家たちである。日本会議が驚くほど広範な右派宗教団体を結集できたのは、おそらく彼らの力によるところが大きい。運動のスタイルも彼らが持ち込み、着実にノウハウを蓄えてきた。日本会議を実際に動かしているのは彼らであり、さらに言えば、日本会議を日本会議たらしめているのは彼らなのである。
この本は、ふだんはほとんど表舞台に姿を現すことのないこの右派活動家たちを主人公に据え、彼らが何者であるかを暴き出すことに紙面のほとんどを費やしている。彼らの思想的出自、活動の来歴、彼らが持ち込んだ運動スタイル…。
ここに取り上げた三冊の中でもっとも「人」に注目し、詳細に分析しているのがこの本だと言える。
なお、この本は名誉毀損で訴えられて一度は販売差し止め仮処分を受けたが、その後処分を取り消されている。この点でも話題になった。
生長の家
はじめに生長の家について基礎的なことをまとめておこうと思うが、この本(②)にはそれほど詳しく書かれていない。なので③青木理『日本会議の正体』を参考にして要点をピックアップする。③は大宅壮一が1955年に『文藝春秋』に発表した「谷口雅春論」のほか、寺田喜朗「新宗教とエスノセントリズム——生長の家の日本中心主義の変遷をめぐって」(2008年3月東洋学研究45号)も参照しながら、谷口雅春の考え方を分かりやすく整理している。
創設者 谷口雅春の思想
谷口雅春はもとは大本教の専従活動家で、機関誌の編集などをしていたらしい。その谷口が個人誌『生長の家』を創刊するのが1930年(③は29年としている)。「病気の治癒」や「人生苦の解決」といった記事が話題になり読者を拡大していく。この雑誌のほか『生命の実相』という大ベストセラーを出版するなど、はじめは執筆・出版に重きを置いていたようで、正式な宗教団体となったのは1940年だった。
その生長の家の教義をごく簡単にいえば、「万教帰一(ばんきょいうきいつ)」。すべての正しい宗教は元来、唯一の神から発したものであり、時代や地域によってさまざまな宗教として真理が唱えられてきたが、根本においては一つである——そんな理屈の下に仏教、神道、儒教、キリスト教から心霊学、果ては米国のニューソートやクリスチャン・サイエンス、フロイトの精神分析までをごちゃ混ぜに取り込んでいるといわれていて、大宅壮一は前出の「谷口雅春論」で生長の家を「カクテル宗教」「宗教百貨店」と揶揄した。(③P79)
そして「戦中は戦争遂行を全面賛美して教勢を拡大し、機関誌の発行部数は80万部を突破した」(③P78)という。寺田喜朗によると、谷口はもともとエスノセントリズム(自民族中心主義)の傾向を持っていたが、これが戦時中の教団発展期に一気に加速し、ほとんど狂信的な天皇崇拝を唱えるようになっていく。(戦時中はそれがふつうだったのかもしれないが。)
寺田喜朗は谷口の政治思想を次のように総括している(③から孫引き)。
<谷口雅春は、反共愛国主義を貫き、天皇に集約される日本文化の優位性、そして大東亜戦争の意義を称揚する発言を繰り返してきた。また、『家』観念をはじめとした日本の伝統秩序、『大和の精神』として定型化される『日本的なもの』を称揚し、日本人としての誇りを鼓舞する主張を行っていた> (③P83)
日本会議の主張とぴったり重なることがわかる。ついでだから1969年に出版された『占領憲法下の日本』から谷口自身の言葉を引用しておこう(③から孫引き)。戦後のこの時期になっても、戦時中と変わらぬ皇国思想を唱えてはばからない。現憲法に対する見方も神社界とまったく同じだ。
<「天皇国日本」は日本民族が創作した世界最大の文化的創作であって、これより大なる大芸術は他のどこにもないことを知って、この国体を尊重してもらいたい>
<神武天皇建国以来、二千六百有余年、連綿として天皇を統治の主権者として継承奉戴し来った、建国の理想と伝統とを、一挙に破壊放棄して、占領軍の“力”関係で、「主権は国民にありと宣言し」と主張してまかり通って、その罷り通った憲法が今も通用しているのである>
<今にして保守政権が目覚めることなければ、明治維新において保守政権の徳川政権が倒れたように保守政権の自民党政権が倒れて、「尊マルキシズム派」の政権が樹立されて、日本国は大変な混乱に陥る(略)。しかし、ここにただ一つ、自民党政権が起死回生する道がある。それは(略)、天皇に大政を奉還することである。すなわち「主権は国民にありと宣言し」の現行占領憲法の無効を暴露する時期来れりと宣言し、「国家統治ノ大権ハ朕ガ之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」(帝国憲法発布勅語)と仰せられた本来の日本民族の国民性の伝統するところの国家形態に復古することなのである>(いずれも『占領憲法下の日本』より、原文ママ)
(③P84〜85)
戦後の日本においては暴論以外の何物でもないと思うのだが、生長の家は順調に信者を増やしていったようだ。このような考え方が人々の心をつかんだのか、それともこのような暴言にもかかわらず人々を惹きつける何かがあったのかは分からないが、政治家にも谷口の信奉者は多く、その中には鳩山一郎、三木武夫、中曽根康弘などの首相経験者も含まれている。
生長の家の政治活動
1964年には政治結社「生長の家政治連合」(正政連)を結成。翌年の参議院選で早くも組織候補である玉置和郎を自民党公認で当選させ、その後も村上正邦などを組織候補として国会へ送り込んでいる。ちなみに公明党の結成が同じ1964年だった。すでに61年には公明政治連盟として活動を強めていて、東京都議会で第三党になるなど躍進著しかった。「日本を守る会」(1974年結成)も公明党/創価学会を意識していたわけだが、それよりも10年も早く反応していたのかもしれない。
生長の家の学園闘争
著者の菅野完氏によると、日本会議の原点は生長の家の学生運動にある。長文になるが、その原点の部分をおさらいするには、②の文章を引用するのが手っ取り早い。(主な組織名を太文字にして協調しておく)
「生長の家」信者の子弟からなる「生長の家学生会全国総連合」(生学連)が結成されたのは1966年。ちょうど、左翼側では「ブント」が再興されたり、三派全学連が羽田闘争を開始したりと、後年「70年安保」や「全共闘運動」などと呼ばれる左翼学生運動の下地が整い出した頃だ。
左翼学生運動は拡大を続け、全共闘運動は全国各地に波及し、各地の大学でバリケードによるキャンパス封鎖や各種左翼セクトによる自治会占拠などが相次ぐようになる。右翼学生は各地の大学にいたものの、質・量ともに太刀打ちできない。
そんななか、日本社会主義青年同盟(社青同)を中心とする左翼学生が占拠し、授業中断が続いていた長崎大学を「正常化」することに生長の家信徒たちが成功する。
「長崎大学で、右翼学生が、左翼学生からキャンパスを開放した」というニュースは全国の大学で圧倒的劣勢に立つ右翼学生運動の希望の星となった。長崎大学学園正常化を勝ち取った学生たちは、その後、長崎大学学生協議会(長大学協・椛島有三議長)を結成し、民族派学生のなかで一躍ヒーローとなり、九州の他大学にも広がり「九州学生自治連絡協議会」(九州学協)になる。彼らの運動手法は「九州学協方式」として全国の右翼学生たちに取り入れられていく。そして長崎大学での成功と実績をもとに「生長の家学生会」「原理研」「日学同」など民族派学生セクトが大同団結し、「民族派の全学連」を目指し、「全国学生自治連絡協議会」(全国学協)が1969年に結成される。
(②P43〜45)
70年安保の少し前、学費値上げ反対運動などで左翼の学生運動が盛り上がっていた時期に、“民族派”つまり右翼の側からそれに組織的に対抗し、勝利を収めたのが生長の家の子弟たちだった。その火付け役となった長崎大学の運動の中心にいたのが、現日本会議事務総長の椛島有三氏だったということだ。
しかし、この長崎大学のキャンパス開放の話など、僕は日本会議に興味を持つまで、ということはおそらくこの本(②)を読むまで知らなかった。日大闘争や安田講堂の攻防のことはそれなりに記憶にあるが、長崎大学でこんなことがあったなんて初耳だった。乱暴な言い方になるが、左翼が席巻していた当時の学生運動においては、それほど目立つ存在でなかったことは確かだろう。
そして左翼学生運動はやがて下火となり消失する。闘う相手を失った民族派の学生運動も、ご多分に漏れず内ゲバが始まりエネルギーを失ったようだ。
しかし彼らがすごいのは、後々までつづく組織を残したことだ。左翼の世界でも中核やら革マルが今も残っているのかもしれないが、それとは種類が違う。「全国学協」のOB組織「日本青年協議会」を1970年に結成しているのだ。(②P46)社会人となった民族派学生運動家たちの受け皿と言っていいのだろうが、書記長の座に椛島有三がつき、機関誌『祖国と青年』を発行して、地に足のついた運動を継続していく。そしてその能力を買われて「日本を守る会」「日本を守る国民会議」の事務局に入り、そのまま日本会議の事務局を取り仕切るに至るわけだ。
日本青年協議会
ややこしいのでここまで触れなかったけれど、生長の家が生んだこの運動家集団は、実はその後とんでもなくダイナミックな変遷を遂げている。いや変遷とはちょっと違うか…。
全国学協との決裂
まず、全国学生自治連絡協議会(全国学協)のOB組織というか社会人版として生まれたのに、この全国学協と袂を分かってしまう。まあ、除名されるんだけど。②によると「『生長の家』教団の方針や日本青年協議会の指導に飽き足らなくなった全国学協は、ついに、自身の社会人組織である日本青年協議会を除名するに至った。」(②P249〜250)学生たちのほうが過激になってしまったということだろうか。1973年のことのようだが詳しい経緯は分からない。
生長の家の路線変更 〜政治との断絶〜
もう一つはもっとすごい。生みの親である生長の家が政治から完全に手を引いてしまい、結果的に彼ら日青協の活動家たちは生長の家とも縁が切れてしまったらしいのだ。これについては③を参考にしながら整理しておく。
1983年生長の家が突然「政治との断絶宣言」をする。生政連を解散し、政治活動も候補者の支援もしないというもの。すでに創設者の谷口雅春は1975年に長崎へ居を移し、教団内の代替わりが進行していた時期だったから、その影響もあったのかもしれない。
ちなみに現在の生長の家は、雅春の孫の政宣が第3代総裁に就き、エコロジーに力を入れる「環境左派」的なスタンスを取っているらしい。政治との断絶はずっとつづいていて、日本会議にも参加していない。というか逆に前回参院選(2016年)の直前には、「与党とその候補者を支持しない」ことを本部の方針として決定し、全国の会員・信者に周知したという。しかもそれだけではなくて、創設者の右翼的な歴史認識を否定し、いまだにそれを信奉している日青協の人々、そして日本会議の主張を「時代錯誤」「原理主義」と言い放ったというのだ。
そんなわけだから、日青協や日本会議に関わる人たちは、とうの昔に教団から排除されたり自ら離脱したりしている。ただ、変わったのは明らかに教団のほうであって、彼らではないのも事実。創設者の雅春は戦後も「大東亜戦争は聖戦であり、明治憲法を復元すべきだ」と言っていたのに、3代目はあの戦争は侵略戦争だとし、改憲にも与しない姿勢を取っている。個人的には素晴らしいと思うけど。
(③91〜99)
雅春を信奉する日青協・日本会議界隈の人たちは、生長の家を離れ、「谷口雅春先生を学ぶ会」を作るなどして、まさに「原理主義」的に雅春の思想を信奉しているらしい。
谷口雅春の跡を継ぐカリスマがいるのか
日本会議の中枢を握っているのは、生長の家の学生運動の中から生まれ、創設者雅春の教えをいまだ頑なに信奉する「一群の人々」である——この本(②)の主眼はその「一群の人々」を洗い出すことにある。そこへ向けて、日本会議のイベントへ潜入したり、「参院のドン」村上正邦や新旧の活動家たちにインタビューをしたりと、手がかりをたぐり寄せながら進んでいく。しかし、もっとも意義深いのは、「第五章 一群の人々」でその主要プレーヤーを詳しく紹介していることだろう。取り上げている人々の名前だけ挙げておく。
- 伊藤哲夫(日本政策研究センター代表)
- 百地章(日本大教授)
- 高橋史郎(明星大学教授)
- 中島省治(「谷口雅春先生を学ぶ会」機関誌編集人)
この他に椛島有三というキーマンもいるわけだが、この人については(本書のあちこちに登場はするものの)残念ながらまとまった記述はない。そして著者は、これらの人々のさらに上に、彼らとは別格のカリスマがいるのではないかと言う。谷口雅春の影響力が途方もなく大きいことは事実だが、彼がこの世を去ってから30年以上がたっている。当の生長の家でさえ代替わりとともにその主張を変えているのに、こうも長く思想と運動を継続できるは、雅春に匹敵するようなカリスマがいるからではないかと。
そしてたどり着いたのが安東巖である。椛島有三とともに長崎大学の民族派学生運動を主導した人物だ。というより、いつも椛島の一歩先を走っていたのが安東だった。長大学生協議会の初代議長を務めたのも安東だし、その後、全国学協が出来たときに書記長の座についたのも安東だった(委員長は鈴木邦男)。
ただ真偽は定かではない。安東はいまだに生長の家に在籍しているというし。能力もあり、政治力もあり、神話さえ持つ人物らしいけれど、今の生長の家に籍を置きながら日本会議とつながるのは難しそうだし、それを示す痕跡もないみたいだ。正直なところあまりピンとこなかった。
③青木理『日本会議の正体』
すでにさんざん参照し引用してきたけれど、最後の1冊が『日本会議の正体』。そうやって参照してきたことからも分かるように、知りたい情報がちゃんと抑えてある点が魅力だし、ありがたい。もし1冊だけ読むとしたら、この本かなと思う。
全体を通じて基本的な情報を的確にまとめてくれていることに加え、「第4章 “草の根運動”の軌跡」では、彼らが取り組んできた活動を時系列に並べて紹介してくれている。ただの年表でもなくて、それぞれについて意味合いとか経過が書いてあるから本当に参考になる。その第4章の項目だけ列記しておこう。
- 政府主催「憲法記念式典」糾弾——1976年
〜自民党を「正しき軌道に導く戦い」 - 元号法制化運動——1979年
〜47都道府県に“キャラバン隊” - 自民党新綱領反対運動——1985年
〜「自民党の変質を憂う」 - 昭和天皇在位60年奉祝運動——1985〜86年
- 『新編日本史』編纂運動——1985〜86年
- 建国記念日式典の独自開催——1988年
- 昭和天皇死去——1989年
〜伝統に基づく関連儀式を - 今上天皇即位——1990年
- 「新憲法」制定への大綱づくり——1991年〜
〜「新憲法研究会」を組織 - 天皇訪中反対運動——1992年
- 戦後50年国会決議などへの反対運動——1994〜95年
〜「謝罪病をいかに治療するか」 - 選択的夫婦別姓制度への反対運動——1996年〜
〜「伝統的家族観」に拘泥 - 日本会議の設立——1997年
- 国旗国歌法の制定運動——1999年
〜国旗国歌法の可決で万歳三唱 - 外国人の地方参政権反対運動——1999年〜
- 「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会(=民間憲法臨調)の設立——2001年
- 首相の靖国参拝支持と「国立追悼施設」計画への反対運動——2001〜02年
- 教育基本法の改正運動——2000〜06年
〜「教育基本法改正は憲法改正の前哨戦」 - 女系天皇容認の皇室典範改正反対運動——2005〜06年
- 第1次安倍政権の誕生と改正教育基本法などの成立——2006年〜
ざっと見て改めて思うのは、安倍政権が生まれるまでは、自民党でさえこの人たちにとっては「正すべき」相手だったということだ。イチャモンつけまくりである。根気よくイチャモンをつけつづけ、自民党を少しずつ自分たちのほうへ引き寄せてきた、そんな気がする。下は日本会議事務総長の椛島有三の言葉(2007年6月3日)。
安倍政権発足後の変化として私が一番感じておりますのは、日本会議が「阻止の運動」「反対の運動」をする段階から、価値・方向性を提案する段階へと変化してきたということです。(略)夫婦別姓の問題、外国人参政権の問題、国立追悼施設の問題、皇室典範に関する有識者会議の提案、いずれも日本会議は「反対」「阻止」の運動を進め、エネルギーの大半を費やして参りました。
しかしどうでしょう。この一年間、教育基本法改正の運動、憲法改正の国民投票法成立の運動と日本の根幹をなす大事な問題に建設的エネルギーを注ぐことができました。(略)安倍政権になり国家の基本問題に関するマイナス事項が抑止されている時代になったということを、政権がもたらした大きな作用として認識しなければならないと思います。
(③P210 )
憂うべきことだが、安倍政権成立後、新しいステージが始まってしまったことは確かだ。それまでほとんどの日本人は、日本会議の存在にさえ気づかなかったというのに。
長い長いベタ写しになるが、著者の日本会議の正体をどう捉えたか引用しておく。
私なりの結論を一言でいえば、戦後日本の民主主義体制を死滅に追い込みかねない悪性ウィルスのようなものではないかと思っている。悪性であっても少数のウィルスが身体の端っこで蠢いているだけなら、多少痛くても多様性の原則の下で許容することもできるが、その数が増えて身体全体に広がりはじめると重大な病を発症して死に至る。
しかも、現在は日本社会全体に亜種のウィルスや類似のウィルス、あるいは低質なウィルスが拡散し、蔓延し、ついには脳髄=政権までが悪性ウィルスに蝕まれてしまった。このままいけば、近代民主主義の原則すら死滅してしまいかねない。警戒にあたるべきメディアもひどく鈍感で、たとえば2016年5月のG7サミットが伊勢志摩で開かれ、安倍が各国首脳を伊勢神宮へと誘ったことを批判的に捉える報道すら皆無だった。神社本庁が本宗(ほんそう)と仰ぐ伊勢神宮にスポットライトが当てられたことは、日本会議と神社本庁にとっては悲願ともいうべき出来事であったにもかかわらず——。
(③P245〜246)
日本会議についてはまだまだ分からないことが多い。こういう人たちがいるということはようやく知られるようになったが、なぜ彼らがこれだけ力を持てるのか、なぜ日本が彼らの望むような国になりつつあるのかはいまだに謎だ。僕にとっては安倍政権を支持する人がこんなにも多いことでさえ謎なのだが、その支持者の人たちにしても、すべての人が日本会議の考え方に共感しているわけではないだろう。別のところに支持理由があって、日本会議的な部分には目をつぶっているのだろうか。とりあえず景気がいいからとか、野党が頼りないからとか、中国韓国が嫌いだとか…。でも、そんなことでこのウィルスが広がっていったら大変なことになる。というか、日本はもう崖っぷちまで追い詰められているように思えるのだけれど。
それとも、僕が間違っているのか?日本会議が目ざしていることは正しい?
いやいや、やはりそれはない。ぜったいない。