緒方貞子『満州事変 政策の形成過程』
名著
この本の著者は元国連難民高等弁務官の緒方貞子さん。在任中はよくニュースにも登場したから、その姿は今も鮮明に記憶しているが、本職が国際政治学者だったということは知らなかった。『満州事変 政策の形成過程』は英語で書かれた博士論文(その後アメリカで出版)を翻訳したものなので、たぶんこれが学者としてのデビュー作なのだろう。だが、文句なしの名著だと言っていいと思う。関東軍が暴走していった背景がバランス良く丁寧に描かれていて、事件そのものだけでなく、それを生んだあの時代の日本の社会や政治までが一望できる。得るものがこんなに多い本は滅多にないと思う。
文章がとても平易で読みやすいのも魅力だ。学術論文の堅苦しさはあまりなくて、ページをめくるのが楽しみになる。カナ交じりで句読点のない日記や電報の引用が多いから、その部分だけは難儀するけど、400ページを超える大部だというのに素人の僕でもストレスなく読み通すことができた。
満州事変については知っているつもりでいたけれど、この本を読むと、教科書に出てくるような上っ面の知識しかなかったんだなあと痛感する。頭のイカれた軍人たちによるとんでもない悪事だと決めつけ、そこで思考が停止していた。でも、そこで止まってしまうと、満州事変から始まるあの悲劇はいつまでたっても他人事のままだ。そして再び頭のイカれた一団が現れたとき、手をこまねいて見ていることしかできないだろう。
時代背景
満州事変が起こったのは1931(昭和6)年、昭和の冒頭だった。著者は大正時代に遡って当時の日本の状況を分かりやすく説明している。
たとえば藩閥政治が終焉し政党内閣が誕生していたこと。しかしそれは民主化運動の成果としてではなく、逆に国民の左翼化を抑えるための見せかけに過ぎなかった。だから強権的で、しかも政治家は汚職にまみれ、あっという間に政治不信が広がっていた。
第一次大戦が終わり、世界が軍縮へと向かっていた時期でもある。国民もそれを歓迎し、軍人は肩身の狭い思いをしていた。存在意義を否定されるような思いを彼らは味わっていたのだ。
そしてこれが何よりも重要だが、国民は窮乏を極めていた。「大正デモクラシー」と言われるように、この時代は日本人が自由や民主主義に向かって一歩前進した時代なのかもしれないが、多くの国民は貧困にあえいでいたのだ。というか、貧しいからこそ人々は声を上げ始めたのだろう。
その結果マルキシズムと労働運動が一般民衆の間で勢いを増していた。政府は厳しい弾圧を続ける一方、1925(大正14)年には普通選挙を実施するなどアメとムチを使って対処するが、大きな流れは変えられずにいた。
要するに当時の日本社会は不安定な状態が続いていたのだ。それに追い打ちをかけるように1923(大正13)年に関東大震災が起こって首都が壊滅的な被害を受け、1927(昭和2)年には昭和金融恐慌、そして30(昭和5)年には世界恐慌に連動した昭和恐慌と相次いで経済危機に見舞われる。国民の窮乏はさらに深刻化していった。
このような社会の混乱と国民の困窮を背景として、1931(昭和6)年満州事変が引き起こされたのである。
こうした時代背景を目にすると、関東軍の将校たちが抱いていたであろう心情の部分はいろいろと推測できるようになってくる。時代錯誤の国粋主義者が子どものように暴れ回ったわけではないのだ。もちろん彼らがしたことは間違っていたし、日本を破滅へと導いたが、彼らは彼らなりに時代の要請を感知し、歴史的な使命感を持って行動したのだ(とんでもない暴挙だったけれど)。
満州事変 二つの決定的要因
ただ、政治不信や深刻な社会問題はいつの時代にもあるし、それだけであれば、あそこまでの事態に発展することはなかったのかもしれない。
関東軍の背中を押してしまったのは何か。
この本は事変を客観的に分析したものなので、こんなドラマチックな問いかけはしていない。だから、あくまでも僕がこの本を読んで勝手に妄想したものに過ぎないのだが、不幸にも次の二つの要素が加わってしまったことで物事が動き始めてしまったのではないかと思う。
一つは、北一輝という思想的リーダーが登場し、国家社会主義という、この時代に見事にフィットした理論が生まれたこと。もう一つは、軍部内に下克上とも言うべき秩序の乱れがあったこと。このうちのどちらか一つが欠けただけでも満州事変は起こらなかったと僕は思う。
理論の誕生
北一輝の国家社会主義
この本を読んで、北一輝がこの時代の日本に与えた影響の大きさを改めて痛感した。彼が若くして構想した国家論が、やがてこの国の国家主義者たちの共通思想として定着し、その運動のバックボーンとなっていくのである。それは単純な尊皇思想とか国粋主義とは次元が異なり、国家主義と社会主義を融合させた、一般庶民を中心に置く思想だった。(もちろん別格の存在として天皇を戴くわけだが。)
そして彼は大川周明とともに、国家の革新は少数の精鋭によって成し遂げられると考え、それを軍部に求めた。アイデンティティが揺らいでいた将校たちにとっては僥倖のようなものだったのではなかろうか。自分たちの力で日本を立て直すという夢を抱くことができたのだから。将校の間に彼らのシンパが増えていき、北の著書『日本改造法案大綱』がバイブルのように愛読された。この本が唱えたのはクーデターによる国家改造だった。
関東軍の主要なメンバーもこの思想を見事に内面化していたのである。彼らの行動は、北の理論をそのまま実践に移したと言っても過言ではないくらいだ。
だから、もし北一輝がこの世に生まれていなかったら…と考えてしまう。
彼がいなければ、国家社会主義の理論も、たとえ別の提唱者が現れたとしても、あれほど多くの支持者を生むことはなかったように思う。
満州事変のような大きな事件を起こすには、それ相応の信念がなければならなかったはずだ。すぐに矛盾に突き当たるような短絡的な盲信ではなく、議論に耐えうる正義の体系のようなもの。たとえば明治維新のときは皇国思想が武士の間で広く共有されていた。その土台があったからこそ、黒船の脅威にさらされたとき「尊皇攘夷」というキャッチフレーズが人々を動かしたのだ。北一輝の思想が、戦前の日本でそれと同じ役割を果たしたと言えないだろうか。
大陸進出を正当化した論理
日清・日露の勝利につづき第一次世界大戦でも日本は戦勝国の列に加わったが、庶民にその恩恵が回ってくることはなく、国民生活は窮乏を極めていた。その原因は資本主義と政党政治にあると北やその一派は考えた。国民の貧窮は、持てる者だけに利益が集中する資本主義の宿命であり、政党は資本家の手先となりそれを助長しているだけ。だから国民を救うには資本主義を打倒する以外に方法はなく、腐敗にまみれた政党政治も終わらせなければならない。
国民を困窮から救おうとした点も、その方法を資本主義の打倒に見出した点も、左翼とまったく同じだったと言っていい。国家が経済全体を管理・統制し、その利益を広く国民全体に再分配しようと考えたのだ。
しかし日本は資源が乏しく、当時は産業も十分に育っていなかった。だから資本家を排除して再分配するだけでは国民は豊かになれない。
そこで、満州。
日露戦争の戦果として手に入れたのはこの地方の一部の権益に過ぎなかったはずだが、この広大な土地をフルに活用すれば、豊富な資源を活用できるし、日本製品の消費地ともなるし、内地で職を得られない人々の働く場ともなり得ると彼らは考えたのだ。
そのためには満州を完全に日本の支配下に置く必要があるわけで、どう考えても国家的なエゴイズムなのだが、“日本が大陸に進出することによってアジアを欧米から解放できる”という妄想で彼らはそれを覆い隠した。「大アジア主義」である。
関東軍はこれを信じ、国内の大革命の前に、日本の唯一の活路である満州を支配し、整備しようとしたのである。
もちろんこれは日本側の論理であり、中国人から見れば収奪であり侵略に他ならない。帝国主義そのものである。反日感情が高まり、排日運動が激化した。当然のことだろう。関東軍は「民族協和」を唱えるが、もともとが内地の困窮を打開するのが目的であることは明白なのだから、そんな甘言が通用するはずもない。
結局のところ中国ナショナリズムの抵抗は最後まで収まらず、それを武力と政略で抑えつけながら満州支配を進めたというのが実際の姿だった。
軍内秩序の崩壊
縦のラインが機能しない軍隊
関東軍の動機はおそらく美しいものだったのだろう。貧困にあえぐ国民を救おうとしたのだ。彼らがやろうとしたのは侵略行為以外の何物でもなかったが、北一輝の理論が彼らの行為を正当化してくれた。自分たちは日本とともに中国を、アジアを救おうとしている——彼らはそう信じることができたのだろう。
ただ、それだけではまだ満州事変は起こらなかったと思う。
なぜなら軍中央部も政府も彼らの行動に反対したからだ。
天皇の統帥権により軍は天皇直轄とされていたから、政府のことははじめから相手にしていなかったのかもしれない。しかし、軍中央部の指示に従うという、ごく初歩的な上下関係の秩序が保たれてさえいれば、満州事変など起こりようがなかった。またたとえ突発的に起こってしまったとしてもすぐに収束しただろう。しかし関東軍はその後も錦州爆撃を行ったりハルピンへの進軍を謀ったりと、傍若無人の限りを尽くす。
なぜこうなってしまったのか、というか、なぜこんな事が起こりえたのか不思議でならない。
関東軍を実質的に動かしていたのは板垣征四郎と石原莞爾の二人だった。彼らは関東軍の参謀だったが、彼らの上には参謀長がいたし、軍の最高責任者は司令官である。しかし、この本を読んでいても参謀長はほとんど名前さえ出てこない。また司令官の本庄繁は意見が異なる場面が少なくとも何度かはあったようだが、最後はいつも板垣たちに屈服させられている。
軍中央部に対してはさらに反抗的だった。柳条湖事件以降、軍中央部は事あるごとに関東軍を制止しようとしたが、関東軍は報告を故意に遅らせるなど背任行為と言うべき手段まで使って徹底的にこれに逆らい、独自路線を邁進する。隣国ソ連や欧米列強がどういう反応を示すかという国家として重大な懸念があったのに、そんなことにもお構いなしだった。暴走としか言いようがない。
軍隊といえば“ザ・縦社会”というイメージがあるが、彼らの振る舞いはそこからはかけ離れたものだった。縦のラインを破壊こそしなかったが、まったく敬意を払っていなかったことは明らかだ。縦のラインが機能しない軍隊…こんな軍隊が他にあっただろうか。
これについては、この本の中に納得できる説明を見つけることはできなかった。
なので、ここから先はまた僕の妄想である。
明治維新のときも…
上からの指示を無視する関東軍の振る舞いは、「軍隊」がとる態度として異常であるだけでなく、縦社会と言われる日本人の社会慣習からも逸脱しているように思える。しかし、時代をもう少し遡って封建時代の「武士」の世界に目をやると、似たようなケースがけっこうあることに気がつく。
たとえば明治維新。維新の主役も下級武士だった。
薩摩の西郷と大久保は、幕末最終盤にはほぼ二人の判断で藩を動かしていたように見える。ある時期までは藩主(の父)の久光が表舞台に立ち、幕藩体制の改革を模索していたようだが、途中で二人に主導権が移り、最後は完全にこの二人が藩の顔であり、頭脳だった。二人は当時としては異例とも言える出世をしていたから、それなりの権限を与えられていたのかもしれないが、それにしても彼らよりも上位の役職者が何人もいたはずだ。
まったく同じと言うつもりはないが、薩摩藩における西郷と大久保と、関東軍の板垣と石原とは重なる部分があるように思う。
下克上
そういえば「下克上」というものがあったなと思って調べてみたら、Wikipediaに面白いことが書いてあった。僕はこれまで、下克上とは“下の者が上の者を倒し、その地位を取って代わる”ことだと思っていた。非儒教的な、個人レベルの弱肉強食のイメージで、家臣にいつ裏切られるか分からない世界。視点を変えれば、誰でも天下を取れる世界。だが、どうやら違うようだ。
中世においては「公家は武家に、将軍は管領に、守護は守護代にと下位の者に実権を奪われ、こうした状況を下克上と理解する」のが一般的だったとある。個人レベルの弱肉強食というより、もっと大きな権力構造の転換が起こっていたのだろう。社会の変化にともなって役職(身分)ごとの力関係が変わっていった様子が想像できる。(よく分からんけど。)少なくとも、誰でも天下を取れる混沌状態というのとは違う。
で、もっと面白いのは武家の主従関係についてのこんな記述だ。
「中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。」
ここには家臣の誰かが主君に取って代わる「こともあった」とある。この言い回しから分かるようにそれが一般的だったわけではなく、主君の一族から新たな主君を立てるというケースのほうが多かった。つまり主君の首だけをすげ替え、それ以外はそれまで通りの秩序を保つというやり方だ。実際、室町将軍は何人も家臣の手で殺されたり廃立されたりしているが、足利将軍家はその後も続いた。戦国大名家でも似たようなことが起こっていた。
だから「下克上を文字通りの意味ではないとして、鎌倉期から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある」のだそうだ。
関東軍の秩序の問題からはずいぶんかけ離れた話だが、もう少しだけ続ける。もちろん僕の妄想の続きということだが。
下克上というと、我も我もと権力欲をたぎらせた男たちの血で血を洗う競争社会(大袈裟だが)をイメージしていたが、実際はどうもそんなものではなくて、“自分は別に大将にならなくていいけど、この国が滅びてもらっては困る”と考える家臣たちが、そのためには主君であろうと誰であろうと追い出す(殺す)という、けっこうクールな現実主義だったということだ。
デキる家臣の集団がダメな主君の首をすげ替える。しかし、新たに主君の座にすわるのは家臣ではなく主君の家系の者で、外形的なヒエラルキーはそれまでと変わらない。…これが武家社会の権力闘争の一つの定石だったと言えるのではないか。
上の者が下の者の生殺与奪の権を握っていたことは当然としても、下の者にもトップの生殺与奪の権があった。合法的とまでは言えなくても、裏の制度として確立していたのである。
将校たちは軍隊の規範ではなく武士の規範に従っていたのではないか。
関東軍は陸軍内の縦のラインをなぜあれほど軽々と無視できたのか。これを「軍隊」のイメージの中で考えるとどうしても理解できなかった。なんと言っても軍隊は「ザ・縦社会」的な存在に見えるから。まあ、そのイメージがステレオタイプすぎる可能性もあるが、規律の乱れた軍隊なんてヤクザよりもタチが悪い集団になってしまう。規律にこそ軍隊の生命線があるように思えるのだ。
で、こんな思考実験をしてみた。
彼らは自分たちが「軍人」であるという自覚に欠けていたのではないか。軍人というより武士の延長線上に自分たちを位置づけていたと考えることはできないか。
もしそうだったとすると、西郷や大久保が久光に対してやったことは自分たちにも認められると考えても不思議でない。二人は、形の上では久光の家臣として振る舞ったが、結局のところ久光を利用して自分たちのやりたいことをやり、最後は久光を裏切った。だが、明治維新が正義であり、また西郷と大久保がそれを実現したヒーローであるということになれば、ここまではOKということになる。
そして武士であれば、本来の意味での下克上(主君押込め)もごく一般的な選択肢の一つとなる。これまで何度も繰り返されてきたことなのだから。
こんなふうに考えると、彼らが軍隊内の序列を無視できたことの謎が解けるような気がする。
あくまでも妄想だけど。
武士の軍隊では困る。
ここまでを簡単に整理すると、満州事変は当時の日本の社会状況を色濃く反映した事件だったが、北一輝による理論化と関東軍における秩序の乱れがなければおそらく起こらなかった。北一輝という天才の誕生は歴史のいたずらとしか言いようがないが、関東軍の上下関係を無視した振る舞いを生んだのは、彼らが自らを(軍人というより)武士になぞらえていたからではないか、ということだ。
北一輝と秩序の問題をことさら重要視するのは個人的見解にすぎないし、武士がどうのなんて話は緒方さんは一言もしていない。僕が勝手にそんな気がしているだけだ。というか、そうとでも考えないと理解できない。
で、何が言いたいかというと、兵器を持つ人間に武士なんかを気取られたら困るということだ。武士というのは、政治と軍事が一体化していた時代の産物だ。だからこそ「武士道」などという厳しい規範があったのだろうと思う。近代以降の軍隊は政治と切り離されている。それ故に歯がゆく感じる部分はあるだろうが、だからと言って一体化していた時代の武士を真似されたら、無法地帯を生んでしまうことになる。関東軍がやらかしてしまったことって、こういうことではないだろうか。
たとえ武士道が美徳に満ちたものであったとしても、あくまでもそれは政治と軍事の両方を司っていた者が作り上げた美徳であって、良いところだけをつまみ食いしようとしても、いずれどこかでタガが緩み、矛盾をきたすはずだ。だから軍人は武士道なんかに憧れてはいけない。
軍隊を保持しながら平和を維持する——つまり軍国主義に陥らない——ためには、シビリアン・コントロールをつねに第一義とすることが絶対条件なのだと思う。