戦場体験者のお話を聞くイベント
5月4日・5日に開催された「戦場体験者と出会える茶話会」に行ってきた。会場はJR大井町駅(東京都品川区)の駅前ビル。旅費はオフシーズンの倍だったから痛い出費だったけれど、実際に体験した方のお話を聞くことはやがてできなくなるし、地方でこういう催しはあまり聞かないから、思い切って奮発した。
主催は戦場体験放映保存の会というところで、2004年の発足以来、「元兵士・軍属、民間人として、あの戦場を知るお一人おひとりの体験談を、ビデオなどに記録する活動に取り組んで」いるボランティアの団体。
タイトルのとおり、先の戦争を実際に体験した方々の体験談を直接聞けるイベントだ。
会場には8つくらいのブースが設けてあって、それぞれに体験者の方が一人陣取り、テーブルを囲むようにして置かれた椅子に参加者が腰掛けて話を聞く。申込みも何もなくて、会場に入るのも自由なら、誰の話を聞くかも自由に決められる。「レイテ戦」とか「シベリア抑留」などと簡単に書かれた掲示を頼りに、興味を感じた方の話を聞くことができる。
10:30〜、13:00〜、14:30〜という3つの時間帯に区切られていて、1時間半で1セット。2日間で6人の体験者の話を聞くことができる。何回も登壇してくれる体験者もいれば1回だけの方もいるので、いつ誰の話を聞くか決めるのはけっこう悩ましかった。
また、二日とも16:00からは、体験者の生の声を聞くのではなく、過去に撮影された映像を見るという企画が用意されていた。1日目は他の予定があったのでパスしたが、2日目はこれも見てきた。(飛行機搭乗がギリギリになってしまったが。)
「戦場体験放映保存の会 全国キャラバン隊が行く」ブログ
僕が聞いてきたのは…
- 予科練から海軍航空隊偵察員、のち特攻に志願するも出撃がとりやめとなった方。[1923(大正12)年生まれ]
- 志願して陸軍に入り、歩兵としてレイテ島、セブ島で戦闘を体験された方[1925(大正14)年生まれ]
- 東京大空襲を体験された方。[1934(昭和9)年生まれ]
- ミンダナオ島のジャングルで飢餓を体験された方。
[1925(大正14)年生まれ] - 北京で働いたあと応召して満州の砲兵隊に入り、シベリア抑留となった方。[1923(大正12)年生まれ]
- 中学生で空襲を体験し、その後米国側の資料を収集している方。
[1932(昭和7)年生まれ]
映像を見たのは…
- 瑞泉学徒隊として野戦病院での看護活動を経験された方。
[1926(大正15)年生まれ]
空襲の体験を話してくださったお二人でも80代の半ば、戦地で戦った方々はみなさん90歳を超えているのだが、記憶も言葉もはっきりされていた。名前を書いてもいいのだろうが、個々の体験を細かく書き記すつもりはないので省略しておく。
備忘録 〜あの時代特有の感覚や事情〜
備忘録を残しておきたいのは、どちらかと言うと本筋から外れたところで聞けた話だったりする。話の前段とか参加者からの質問に対する答えとか…。そんな中にとても興味を惹かれるものがあった。
大雑把に言うと、あの時代特有の感覚や社会状況に関する話だ。
ステレオタイプなイメージ
あの時代について僕が知っているのは事件や出来事が中心で、当時の日常生活とか社会の雰囲気のようなものについてはあまりよく知らなかった。映画やテレビで見たものを寄せ集めて、あるいは事件や出来事に関する知識から類推して、勝手にイメージしていただけだ。だからけっこうステレオタイプで、そしてけっこう見当違いだったりする。
そのことに気付かされる瞬間が何度かあったのだ。「あ、そういうことだったのか」と認識を新たにする瞬間だった。そして、そういう認識の変化があると、それがどんなに小さなものであったとしても、あの時代がこれまでとは少し違って見えてくる。
たとえば少年志願兵といえばガチガチの軍国少年しか頭に浮かばなかったが、そんなに単純な話ではなさそうだった。愛国心が強い少年から順に志願していったかというと、おそらくそうではない。後で詳しく触れるけれど、どうやら当時は未成年のうちに両親を亡くす子どもがたくさんいて、彼らにとっては、志願兵になるというのは経済合理性の高い選択だったと言えそうなのだ。
これを知ると、それまで自分とはまったく違う人種のように思えていた少年志願兵が、ぐっと身近な存在に感じられる。人の体温を感じられる存在に変わるというか。
皇国思想とか軍国主義などという言葉を目にしても、今の自分との接点が感じられなくて、どこか遠い世界の話のように思えていた。何故そんなものを信じることができたのか想像もつかないからだ。しかし、たかだか70数年前の日本人が今の自分とそんなに違うはずがない。おそらく、それらと彼らの日常生活とをつなぐ導線のようなものがいくつも存在したのだ。生活のために選んだのが軍隊だった少年兵のように。今の日本には存在しないものだから、そこがブラックボックスになる。そして「想像もつかない」と思えてしまう。
その導線を知ることができると、遠い世界がリアリティのある光景に変わり、異人種のように思えた当時の人々が、体温をもった同じ日本人に感じられてくる。
直接の導線とは言えなくても、当時の人々の(今の日本人とは違う)感覚は興味深いものだった。それをある程度知っておかないと、あの時代はどこまで行っても遠い世界のままで、正しく理解することはできないのではないかと思う。
これらのことは、今回のイベントのように“直接聞く”という形でなければ一生気付くことのできなかったことかもしれない。思い切って行った甲斐があったと思える部分でもある。
少年志願兵
お話を聞いた6人のうち、2人は徴兵されて出征した方、2人は志願兵として出征した方、残りの2人は終戦時まだ十代前半で、内地で空襲を経験した方だった。
志願兵のお一人が志願した理由を話してくれた。
前にも書いたように、志願兵というとガチガチの軍国少年しか思い浮かばなかったのだが、この方の境遇や当時の日本の状況を知ると、そう単純なものではなかったことがよく分かった。
この方は早くに両親を亡くし、工場で働いて自活していた。ところがその工場が閉鎖されてしまったのだという。たしか原材料などの物資が手に入らなくなったとか、そんな理由だったと思う。資源は軍需工場に集中されていっただろうから、こういうケースは少なくないはずだ。何もしなければ、どこかの軍需工場に徴用されたあと、年齢が来れば徴兵される。
他の方も口を揃えて言っていたことだが、この方も「兵隊になるのは当たり前のこと」だと考えていた。早いか遅いかの違いだけ。ならば、徴兵年齢より1年でも2年でも早く入隊しておけば、みんなが入ってくる頃には班長くらいにはなっている、そう考えたそうだ。
つまり、同年代の少年たちよりも愛国心や軍人志向が強かったわけではなくて、どうせ行かなければならないのなら“どちらが自分にとって得か”で決めたのである。親や養わなければならない弟妹がいればまた違ったのだろうが、この方の場合はそうではなかった。単純に早いか遅いかの選択肢しかなかったわけだ。
比べるのはおかしいかもしれないが、今で言うなら、年金給付をいつから受けるかを決めるのと似ているかもしれない。金額は多少削られても60歳から受け取るか、満額支給される年齢まで我慢するか。年金の場合はどちらにしても“もらえる”し、兵役の場合はどちらにしても“行かなければならない”。
熱烈な軍国少年が志願兵になるというのは、僕の勝手な思い込みだった。遅かれ早かれ戦争に行くというのがこの時代の男子の共通認識であったとすれば、ある時期まで兵役免除のあった進学は別にしても、就職や転職などと志願との間にはそれほど大きな違いはなかったのかもしれない。同列に並ぶ選択肢の中の一つに過ぎなかったと言ったら言いすぎだろうか。
そして、この方が志願を選択した決め手の一つは両親が亡くなっていたことだが、これはこの時代には珍しいことではなかった。日本人の平均寿命が50歳を超えるのは1947(昭和22)年、つまり戦後のことで、男女ともそれまでは一度も50歳を超えたことがなかった(厚生労働省HP「第22回生命表」)。ということは、たとえば親が30歳のときに生まれた子どもは、成人する前に親を失うことは珍しくもなんともなかったということだ。
実際、お話を聞いた6人のうち3人が当時すでに両親を失っていた。
「人生五十年」と言われていたことは知っていたが、残された子どものことまでは考えたことがなかった。両親の亡い十代の少年。そういう苛酷な境遇の中で生きなければならない少年がたくさん存在した。一家の大黒柱として幼い弟妹を養う少年も中にはいただろう。しかし、そうでない場合、いずれは戦争に行くという大前提があるのなら、志願兵になるというのはけっして合理性に欠ける決断とは言えない。ガチガチの軍国少年でなくてもそれを選ぶ者はいるだろう。
士官学校・兵学校が超エリート校だったということ
これと関連して、ちょっと考えたこと。
陸軍士官学校や海軍兵学校が超エリート校だったということは知っていたが、このことを僕は軽く考えすぎていたかもしれない。当時旧制中学生だった方がチラッと触れただけだが、どうやら学校ごとに合格者数を競っていたらしい。もしかしたら、今で言えば東大や京大と同じような存在だったのではないかと思えてきた。
今の日本で東大や京大に“行ける”のに“行かない”子は、高校からそれなりにプレッシャーを受けるのではなかろうか。まあ医学部に行くとか、最近では海外の大学に行ってしまう子もいるかもしれないが、そうでなければ、行けるんだから行ったら?と勧められるだろう。
(僕の妄想にすぎないかもしれないが)それと同じことが、当時、これら将校養成学校に関して起こっていたかもなと思ったわけだ。勉強ができるんだから士官学校へ、兵学校へ。そんな空気があったのだとしたら、この場合も愛国心とか軍国主義とは別のところで軍人への道が開けていったことになる。これらの養成学校が優秀さの頂点を表すシンボルのような存在だったとしたら、学力競争の延長線上に、(ある意味で二義的に)軍隊があったことになる。もちろんこれも、いずれは戦争に行くという大前提があってのことだけど。
予科練(海軍飛行予科練習生)も相当倍率が高かったらしいから、それに近いものがあったかもしれない。
軍国主義教育の成果(=洗脳)を軽く見るつもりはないけれど、それだけだと当時の少年たちは異人種にしか見えない。軍国少年になっている自分がどうしても想像できないからだ。でも当時の日本の社会とか家庭とか学校の様子がこうして少しでも分かると、自分に引き寄せて考えることができる。自分も同じ選択をしたかもしれない。天涯孤独だったら…、学業優秀だったら…。
そんなわけで、これまで勝手に決めつけていた少年志願兵(と士官学校)のイメージが、この二日間でかなり変わることになった。
「親は我慢していたんではないでしょうか」
軍に志願する我が子を親はどのように感じていたのかという質問が出た。
先ほどとは別の志願兵の方に対する質問だった。でも、もちろんその方は志願した子どもの側だったので、親の気持ちは推測するしかない。
「親は我慢していたんではないでしょうか。(行くなとは)言えなかったでしょう。」
というのが答えだった。
「お国のために」と夢見心地で大きな物語を語る我が子に対し、水を差せる親はなかなかいない。しかも子どもは正しい(とされている)ことを言っているわけだし。心中複雑なものがあったとしても否定はできない、そういうことだろう。
これもあの時代の見え方を少し変えてくれる説明だった。
当時は一方で家父長制の家族観がまだ強固だったから、父親の意に反して男子が兵役を志願するというのは考えづらい。とすると、志願する少年の父親はゴリゴリの軍国主義者かと考えてしまいがちだ。しかし、たとえ戦争に対して懐疑的でも、あるいは少なくとも我が子に志願などしてほしくないと思っていても、本心をぶつけられない場合が多かったのかもしれない。
考えてみれば、少年志願兵の親の世代はおそらく幼少の頃に日露戦争を経験した世代で、日本がもっとも誇らしく感じられた時代を知っていると同時に、その後の平和や軍縮、自由な世相も知っている世代だ。ゴリゴリの軍国主義者がいてもおかしくないが、反戦主義者がいてもおかしくない。大正デモクラシーの申し子と呼べる世代がいるとしたら、この世代のはずだ。だから、みんながみんな忠君愛国に染まっていたわけではないはずなのだ。
ちょっと飛躍するかもしれないが…
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に、学校で徹底的な思想教育を受けた子どもたちが自分の親を思想犯として密告する話が出てくる。たしか中国の文化大革命では実際にそういうことが起こったはずだ。
僕の想像だが、こうした逆転現象が当時の日本でも起こっていたかもしれない。つまり、国策(正しいとされること)について子どものほうが親よりもより多くを知り、より深く信じていたということはありうるだろう。そうすると親は反論できない。親の権威よりもずっと高貴な国家(天皇)の権威を子どものほうが帯びてしまうのだから。
そうやって大人が押し黙る中で戦時体制が確立されていく…。
そのあと、戦地から帰ってきたときの話になった。
これも質問があったのだと思う。帰還兵の親はどんな感じで迎えたのか。喜びをあまり表に出せなかったと聞いているが、実際にはどうだったのか。
具体的には語らなかったが、この方の親も感情を表に出さなかったようだ。そしてこんな回答をしてくれた。
「近所には子どもを戦争で失った家がいくつもありました。その手前、手放しで喜ぶわけにはいかなかったのではないでしょうか。」
多くの帰還兵が「生きて帰って恥ずかしい」という思いを強く抱いていたのだが、親たちにはそれとは別の種類のためらいがあったという意味だ。おそらく無上の喜びを感じていたはずだが、周りのことを考えると感情を表に出すのははばかられたのだろうと。
「勝てると思っていなかった」
次は徴兵されて満州で砲兵隊の伍長を務めた方の話。終戦間際、新兵の教育をしていたという。
陸軍最強と言われた関東軍も、強い部隊は南方など他の戦地に送られ、その頃には貧弱な人員と兵器しか残っていなかったという。(たしか)人数分の銃さえなく、大砲はあっても砲弾がなかったり、砲弾はあっても大砲がなかったり、そんな有り様だった。それに日本軍の銃は一発一発弾を込めなければならない三八式だったのに対し、敵は何十発も連射できる自動小銃だった(銃については他の方の話だったかも)。
そんな状態で新兵教育をするってどんな気持ちだろうと思い、質問してみた。
まず、教育をするに当たって想定していた敵は誰だったのか。つまり中国軍だったのか、ソ連軍だったのか。
答は「ソ連」だった。
実際この方は、8月9日に国境を越えてきたソ連軍と17日(ポツダム宣言受諾後!)に戦っている。
次の質問。そんな不十分な人員と装備で勝てると思っていたのか。教育する側となれば、新兵のモチベーションを高めることも大事な任務の一つ。そのためには自分自身が高い士気を持って臨まなければならないはずだが、そんなことが可能なのだろうか。
答は「思ってないですよ」。即答だった。
それ以上の詳しい話までは聞けなかったが、「じゃあ、形ばかりのものだったんですね」と尋ねたら頷いておられた。
「最後まで日本が負けるとは思わなかった」という声をよく聞くが、これもよく分からないことの一つだった。内地の人々が大本営発表によって欺かれていたというのは分かる。でも戦地で実際に戦う将兵たちは、敵と味方の実力を肌で感じていたはずだ。当時の人たちは(内地の人も含めて)敵の兵器についてかなり詳しく知っていた。ということは、客観的な力の差は(少なくとも薄々は)認識していたと思うのだが。
中国軍が相手なら“負けていない”と信じることも可能かなと思って、念のために「敵」を尋ねてみたのだが、はじめからソ連軍を想定していたのならそうもいかなかっただろう。“ソ連は攻めてこない”と信じるしかなかったということか。
やってきたばかりの新兵に対して、勝てると思えない戦争のための訓練を、敵が攻めてこないことを祈りながら行っていた…。かなりシュールな状況だったことは間違いなさそうだ。
「日本ってこんなに怖い国なのか」
南京大虐殺や朝鮮人慰安婦問題を否定する人たちがよく口にする言葉で、(私たちのお父さんやお祖父さんである)「日本兵がそんなことをするはずがない」というものがある。ただ情緒に訴えているだけで反論にも何もなっていないのだが、“倫理観が強く統制の取れていた日本軍”という幻想を抱くのは分かるような気がする。
それに対する直接の反証になるわけではないが、日本兵の倫理観のなさを目の当たりにした方がいた。
(たしか九州出身だったと思うが)台湾で育った方。
この方は農学校を出たあと徴用され、軍属としてミンダナオ島の海軍直営農場で生鮮食料の生産にあたっていた。台湾人と在留日本人合わせて120名の大所帯だったそうだ。その後徴兵されるが、軍命により現役兵としてそのまま営農指導を続けたそうだ。
1945年5月に米軍が上陸し、ジャングルでの逃亡生活を経験したあと敗戦を知って投降。収容所での捕虜生活のあと(台湾ではなく)日本へ復員した。その収容所や復員船の中で体験したこと。
自分の荷物から離れた者は必ずと言っていいほど荷物を盗まれたというのだ。もちろん盗むのは同じ日本兵。見張りをしてくれる仲間がいないとトイレにも行けなかったということだ。
「日本ってこんなに怖い国なのか」と思ったという。
この方がこう思ったのは、ずっと海外で暮らしていたからだ。台湾で育ち、就職したのは日本の企業だったが、より遠くの世界で力を試そうとニューギニアでの勤務を希望した。そこへ赴任する途中で徴用されたのだ。内地の土を踏むのはたしか復員したときが初めて。台湾は植民地だったから多くの日本人が居ただろうが、台湾人との付き合いのほうが多かっただろう。(支配者側の鈍感さもあったかもしれないが)ずっと仲良くやってきた。直営農場でもそうだったし、ジャングル生活でも台湾人と行動を共にし、わずかな食料を分かち合った。
その後に遭遇したのが、日本兵同士の容赦のない窃盗合戦だったのだ。まあ驚きもするだろう。そして、故国と思っていた異国に恐怖を感じたとしても不思議ではない。
復員船といえば、上官に対する吊し上げやリンチが横行したという話を聞いたことがあるが、この気持ちは十分に分かる。軍隊では理不尽な鉄拳制裁が日常茶飯事だったというから、除隊になったとなればやり返したくもなるだろう。でも、同じ兵士同士でモノを盗み合うってどういうことだろう。持っているモノなんてみんな同じようなものだろう。というか、米軍から与えられた食料以外何かあったのだろうか。それを盗むって…。
そう言えば大岡昇平の『俘虜記』に出てくる日本人捕虜たちも似たようなものだった。意地汚くエゴイスティックで、役得にありつけようものなら(たとえば料理係になったら食料をネコババできる)トコトン吸い尽くす。不正をためらう者など一人もいないと言ってもよかった。
異常な状況にあったとはいえ、日本兵の倫理観なんてこの程度のものだったのだ。
そして、国外で暮らした人にはその醜さがよく分かった。でも日本しか知らない人は“こんなもの”と思って意にも止めなかったのかもしれない。僕はそう感じた。
だが、東日本大震災の被災者の秩序ある行動が世界から絶賛されたのも事実だ。この違いは何なんだろう。
正直なところよく分からない。心根が180度変わってしまったのかもしれないし、まったく別の側面が表に出たのかもしれない。
たとえば同じ敗戦後の日本兵の行状で言えば、敗戦を知り武装解除に応じたときの日本兵は驚くほど従順だったという。直前まで「天皇陛下万歳」で「鬼畜米英」で「神風特攻隊」で「玉砕」で「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」だったのに。連合軍側にしてみれば、目を疑うような変わりようだったらしい。大震災のあとの日本人の態度は、この従順さに通じるものなのかもしれないと思ったりもする。分からんけど。
「生きて帰って恥ずかしい」
これで最後。
何度か触れたと思うが、多くの体験者が「兵隊になるのは当たり前のこと」(いつかは戦争に行く)という感覚を持っていた。でも、この感覚を僕はまだ十分に理解しきれていない。徴兵制の時代だから当然と言ってしまえばそれまでだが、年若い男子が何かを考えるとき、つねに「いつかは戦争に行く」ということが頭をよぎり、それを前提とせざるを得なかったことになるから、その重圧と制約感は簡単に想像できるものではないだろう。余命宣告を受けて生きるのに近いのだから。
「どうせ近いうちに死ぬ」という制約のついた人生。
ほとんどの若い男子がそういう限定的な人生を生きていた時代。
勝手に想像を膨らませすぎかもしれないけれど。
一方まったくもって想像さえできないのが「生きて帰って恥ずかしい」という感覚だった。これもほとんどの体験者の話に出てきたし、出征経験のない人まで口にしていた。それくらい当時の男子に共有されていた感覚なのだろう。しかし、ぜんぜん分からない。というか、永遠に分からないような気がする。
たとえば、戦死した戦友のことを思うと自分だけが生き残って「申しわけない」「うしろめたい」というのならまだ分かる。でも、そういう意味合いだけだったら「恥ずかしい」という言葉にはならないだろう。やはり分からない。
とはいえ、この二つの感覚は、この時代の男子の行動や思考を考えるうえで忘れてはならないものだろうと思う。少なくとも、この二つの感覚がこれほど強固に血肉化されていなかったら、当時の日本人の行動はかなり違ったものになっていたのではなかろうか。
もちろん、これらが諸悪の根源だという話ではないし、何かの出発点だと言いたいわけでもない。「いつかは…」という感覚は徴兵制によってもたらされたものだろうし、「生きて帰って…」はやはり戦陣訓の影響が大きいのだろうと思う。そういう鶏が先か卵が先かの話をしたいのではなくて、当時共有されていたこういう感覚にも(分からないなりに)思いを馳せないと、なかなかあの時代を理解することはできないと感じたということだ。
徴兵制や戦陣訓についていくら知っていても、志願兵や玉砕は今ひとつリアリティを持たない。遠い世界の出来事としか思えない。でも「いつかは戦争に行く」「生きて帰って恥ずかしい」という感覚を慮ってみることで、少しだけ距離が縮まる。
そういう作業を繰り返すことでようやく、「遠い世界」の出来事が、またいつ起こるかも知れないものへ、「違う人種」の人たちのしでかした過ちが、いつ自分が同じ轍を踏んでしまってもおかしくないものへ、姿を変えていくように思えた。
ま、要するに“自分の見方は浅はかだったなあ”ということで、じゃあ何か凄いことを悟ったのかというと、“どうやら大きなブラックボックスがある”ことに気付いたというだけなんだけど。でも「遠い世界」の出来事だと感じているよりも少しはマシかなと思う。
とても有意義な二日間だった。