タイトルは「戦後史」だけれど、明治以降の日本の右翼の変遷がわかりやすくまとめてある。
僕にとって「右翼」という言葉で思い浮かぶのは「街宣車」とか「闇のフィクサー」などで、暴力団と区別のつかない強面の人たちというイメージなのだけれど、これは戦後日本の特殊な社会状況の中で作り出された一つの型にすぎなかったようだ。その後、学園闘争を契機としてまったく新種の右翼が登場し、これが長い時間を経て日本会議へとつながる。現在の日本の右傾化に大きな影響を与えているのはこの系統の人々だ。そして、インターネットの普及にともなってさらに新しいタイプの右翼が誕生した。ネトウヨだ。彼らがどれほどの勢力を成し、またこれまでの右翼の系統とどれほどのつながりを持っているのかはよく分からない。しかし、ヘイトスピーチという醜悪な行動様式を日本に定着させてしまったのは確かだ。日本会議ほどではないにしろ、昭和の右翼よりも人数では上を行っているのかもしれない。
備忘録として、昭和の右翼と日本会議の二つについて大まかな流れをまとめておく。
それと、今感じている大きな不安というか恐怖について。
昭和の右翼
日本の右翼は明治時代の自由民権運動にルーツを持ち、太平洋戦争が終わるまでは反体制側の勢力だった。だから左翼と同様に弾圧され、戦時中は大政翼賛会に組み込まれて自由を奪われた。戦後は左翼運動が全面的に解禁されたのとは対照的に、GHQによって徹底的な弾圧を受ける。皇国思想の元凶のひとつと見なされたからだ。しかし数年でGHQの方針が変わって活動を認められるようになり、再スタートを切る。やがて日本の政財界と関係を深め、体制内に地歩を固めていくことになる。僕の頭に焼き付いているのはこうして完成した右翼のイメージだった。
アメリカが右翼を許容し、また日本の政財界が彼らと結びつくようになったのは、「反共」という共通の利害を見出したからだった。社会主義の隆盛を恐れたGHQ(アメリカ)が右翼を野に放ち、安保反対などの反政府運動を抑えたい自民党と労働運動を潰したい財界が裏で右翼を利用した。どの右翼も天皇を絶対的に崇拝していたから、天皇制を否定する左翼は彼らにとっても敵だった。
新しい右翼
昭和的な右翼は今も存在する。だが、60年代の“新左翼”による学生運動に呼応する形で新しい右翼が登場してきた。“民族派”と呼ばれる学生たちだ。その運動自体は左翼学生運動の終焉とともに消滅するが、当時あれだけのムーブメントを巻き起こした“新左翼”が雲散霧消し、その後はほとんど影響力を持ちえなかったのに対し、この“民族派”の一部はその後も生き残り、まったく新しい活動手法と組織を作り上げて今大きな力を手にするにいたっている。
「日本会議」だ。
※日本会議とは別に「新右翼」と呼ばれる人々も登場したが、ここでは省略。
注目すべきなのは、彼らの多くが新興宗教「生長の家」信者だったという事実だ。“民族派”学生として学園闘争に立ち向かい、それから半世紀近くを経た今、日本会議を事務局として支え、自民党政権に——つまり日本全体にということだ——大きな影響を与えている人々を輩出したのが「生長の家」であるということ。
ただし「生長の家」という団体名で話を進めると混乱するかもしれない。今の生長の家は政治的な活動から完全に手を引き、日本会議とはまったく異なる立ち位置を取っているからだ。トップの代替わりを経て、宗教団体としての性格が大きく変化したのだ。今は日本会議に参加してさえいない。だから、日本会議の実働部隊として働く人々も生長の家を代表して活動しているわけではない。(多くは生長の家と縁を切っているはずだ。)
谷口雅春信者
おそらく彼らは生長の家創始者の谷口雅春信奉者なのだと思う。学園闘争の時期はこの人がトップ(総裁)だったから、生長の家=谷口雅春だったのだろう。
谷口雅春は1893(明治26)年生まれ。彼が雑誌『生長の家』を創刊したのが1930(昭和5)年3月1日で、この日が「立教記念日」とされている。教団創設は1935(昭和10)年、亡くなったのは1985(昭和60)年。
そもそも日本会議の設立には谷口雅春が深く関わっている。日本会議は1997(平成9)年に「日本を守る会」(1974年設立)と「日本を守る国民会議」(1981年設立)が統合する形で生まれたが、右派宗教団体の連合である「日本を守る会」の設立に谷口が直接関与しているのだ。そして実働部隊として教団の雅春信者たちが送り込まれ、活動の手足となった。
新しい活動スタイル
彼らの活動手法はそれまでの右翼とはまったく異なっていた。それは「市民運動」「草の根運動」とでも呼ぶべき地道で大衆的な活動の積み重ねだった。従来は左翼の運動家たちが実践してきたスタイルとも言えるだろう。その最初の成功事例となったのが元号法制化運動だった。
同会(日本を守る会)の呼びかけで、「元号法制化実現国民会議」が結成されたのは1978年。これは元最高裁長官の石田和外(かずと)をトップに据えた大衆運動組織である。なかでも運動の実働部隊となったのは、生長の家と、そして全国に神社のネットワークを持つ神社本庁だった。
全国各地に「元号法制化」を訴えるキャラバン隊を派遣し、それぞれの議会に働きかけを行う。さらには著名人を招いての集会、デモ行進などを展開していく。その結果、全国の地方議会の約半数にあたる1,632議会で「元号法制化」を求める決議が採択された。
地を這うような草の根運動の成果である。その結果、79年に右派勢力が悲願としていた「元号法」が国会で成立する。(P214〜215)
元号法成立後の1981年に「元号法制化実現国民会議」を発展継承して生まれたのが「日本を守る国民会議」だった。
本丸は憲法
その後も国旗国歌法制定、学校教科書、教育基本法改正など、彼らは自分たちの求めるものを一つずつ手に入れていく。新しいスタイルで。
しかし、彼らが本当に求めているのは憲法を変えることだ。この本を読んで、そのことの恐ろしさを改めて感じた。なぜなら、個別の条文をいくつか変えるくらいで彼らが満足するはずはないからだ。彼らは日本国憲法が日本を駄目にしたと考えている。日本国憲法によって変えられてしまったもののすべてを憎悪し、排除しようとしているのだ。
押しつけだからダメだとか自衛隊がどうのとか「義務」を明記したいとか——彼らが持ち出す個別の問題に反論していてもおそらく埒があかない。論破できたつもりでいても、それが日本国憲法の精神に則った議論である限り彼らには届かないだろう。自由、平等、民主主義といった近代的な理念を用いた議論は彼らには通じないのだ。このことの恐ろしさに血の気の引く思いがする。
改憲(本当は反憲)についても、彼らはいつもの着実な手法ですでに歩みを進めている。しかも、今や彼らは単なる右翼団体とは言えないほど存在感を増している。安倍自民党と一体化していると言ってもいいかもしれない。
手をこまねいていたら、想像もつかないような変化を起こしてしまうに違いない。
日本会議については引きつづきしっかり考えていきたい。