2019年/日本
企画・製作・エグゼクティブプロデューサー:河村光庸
監督:森達也
出演:望月衣塑子
藤井道人監督による『新聞記者』が先に公開されて話題になったが、あちらはフィクションでこちらはドキュメンタリー。どちらもプロデューサーは河村光庸で、彼は始めから両方作るつもりだったという。そんなことを考えるのもスゴいけど、実現してしまったことに驚く。と同時に、今の日本の報道をめぐる状況に対してただならぬ危機感を抱いていることが分かる。
『新聞記者』と『i 新聞記者ドキュメント』
『新聞記者』については前に感想を書いた(↓)が、今回この『i』を観て、認識が違っていたなと思う部分もあったので、まずはその辺から。
『新聞記者』は、望月記者の同名のノンフィクション本を「原案」にしたフィクションだった。原作者の望月記者が実名で登場するという、人を食ったような演出もされていて、フィクションであることを逆手に取ったというか、最大限に利用していたという印象がある。
内閣情報調査室という厚いベールに覆われた組織を悪玉に仕立て、謎が多いのをいいことに、その謎をとことんまで膨らませて、観る者の恐怖心を煽る。単純に言うと陰謀論だが、内調という実在の政府機関を中心(と言うか背景)に置くことで、ゾンビ映画なんかよりよっぽど薄気味の悪いホラー映画になっていた。第一級のエンターテインメントだと思った。
フィクションでなければ、こうはいかない…と思っていた。原案となった本はいまだに読んでいないので大きなことは言えないが、少なくともドキュメンタリーだったらサスペンスで味付けすることはできないだろうし、望月記者の取材範囲に限定されるから、あんなにたくさんの事件をスクリーンにぶちまけることはできなかっただろうと。
ところが、それは大きな勘違いだった。
社会部の遊軍記者という東京新聞における彼女の立場がそれを可能にしている面もあるのだろうが、とにかく彼女はバイタリティにあふれ、いろんな案件に首を突っ込んでいる。
映画の冒頭は沖縄で、そこで彼女は辺野古埋め立てを厳しく追及し、取って返して東京では彼女を有名にした菅官房長官の定例会見に臨む。会見のシーンは何度も何度も出てくるが、別々のシーンなのにパターンはいつもまったく同じだ。彼女が口を開くやいなや、官邸の上村秀紀報道室長がレコードのノイズのように神経に障る茶々を入れて妨害し、長官はまともに取り合うことなく一刀両断する。他にも伊藤詩織さんの性暴力事件も出てくるし、加計問題を明るみに出した前川喜平氏も登場する。大阪に行って森友問題の当事者である籠池夫妻へインタビューする場面もあれば、宮古島に飛んで弾薬庫建設問題を取材する場面もある。
とにかく関わる案件は多岐に渡っていて、フィクションの『新聞記者』に出てきた事件はおそらくすべて出てきた。それどころか、菅官房長官はあちらには出てこなかったし、辺野古や宮古の話もなかったと思う。
権力者は誤魔化す
言い遅れたけれど、この映画もすこぶる面白い。
『新聞記者』のようなサスペンスの味付けはないのに、なぜ観る者を飽きさせず、何が物語のテンションを支えているのかというと、一つは望月衣塑子という被写体の魅力だろう。その正義感と行動力と熱量がなんとも見ていてワクワクするし、また頼もしい。もう一つは、普通なら見えにくい「権力者の誤魔化し」がしっかりと可視化されていることだと思う。望月記者が現れる先々に「権力者の誤魔化し」が必ずあるのだ。映画が進むにつれて、その“お決まり”感が明確なものになっていく。『新聞記者』で内調の不気味さが高まっていくのと同じように、権力者は誤魔化すものなのだという確信が深まっていく。
権力者は誤魔化す。
自分に不利になりそうなものはとにかく隠そうとする。反対の声は、権力者にとってはただの障害物に過ぎないのだろう。反対する人の不利益に思いをいたし、それを改善しようとはしない。不利益が見えないように、反対の声が上がらないようにまずは事実を覆い隠し、もし声が上がってしまったら、今度はその反対者を覆い隠し、見えないところで潰そうとする。あるいは反対者を変人か悪人に仕立て上げ、まだ問題に気づいていない人々が彼らを恐れるように仕向ける。
テレビや新聞をサラッと見ているだけではなかなか気づかないけれど、権力者とはそういうものなのだということが分かる。普通なら硬くて地味で党派色が前に出そうなテーマだが、これだけ多岐に渡る証拠映像が揃い、また望月衣塑子という活力にあふれた陽性の主人公を得たことで、まったく退屈しない極上のエンターテインメントに仕上がっている。
二つの小さなエピソード
どうでもいいような二つの小さなエピソードが心に引っかかっている。一つは制服警官のわざとらしく恐縮した顔、もう一つは(うろ覚えなのだが)同業者による望月評だ。
ひたすら低姿勢に「すみません」
望月記者が官邸の記者会見に行っている間、許可証を持たない森監督は外で待っていなければならない。敷地に入れないから歩道の上で待つことになる。そこでカメラを回していると、警備の警官から職質を受けたり、公道の上なのに、ここから先に入るなと制止されたりする(写真は西日本新聞より)。一般の歩行者は目の前で自由に行き来しているのに。で、なぜダメなのかと警官に尋ねると、ただ「すみません」と言うだけなのだ。私服警官(公安?)が「車が出るので」と答えたときもあったが(しかし、いつまでたっても車など出てこない)、あとはひたすら制服警官が「すみません」を繰り返すだけだ。
その「すみません」には見覚えがあると思った。もちろん、その警官を知っているという意味ではない。こなれた《ごめんなさい》顔とでも言おうか、おそらくいつもこの顔をするのだろうなと感じさせる過度に恐縮した顔で「すみません」を繰り返す姿は、これまでに何度も見たことがある。日本人なら誰もがそう感じると思う。と言うか、自分も同じことをしていると思い当たる人も多いだろう。
見た感じは低姿勢そのものと言っていいのだが、その人の良さそうな警官がやっていることは、問答無用の排除以外の何物でもなかった。謝っているように見えて、実は対話を拒否しているだけだ。「すみません」は鎧みたいなもので、すべてを撥ね返す。自分の態度を変える気は始めからまったくないのだから、立入禁止のバリケードと変わらない。ぜんぜん暴力的ではないし、本人にもそんな意識はないのかもしれないが、もっとも露骨な権力行使だと思えた。不快だった。
本当の権力者は別にいるのだけれど、現実の場面で実際に権力を行使するのはこういう人たちだ。自身は大した権限を持たないから、ただ相手を撥ね返すだけ。拒絶するだけ。
でも、もっと地位の高い人、権限を握っている人も、考えてみたらやっていることは同じだったりする。たとえば、冒頭の沖縄では、埋め立て工事の政府側現地責任者である防衛省の役人が望月記者の質問に答えず、業を煮やした彼女が「あなた、責任者でしょ」と詰め寄るシーンがあった。埋め立てに使う土砂に赤土はほとんど含まれないはずだったのに、現地を視察すると、誰が見ても赤土の山としか言いようがなかった。その説明を求めたのだが、まともに答えようとしない(写真は西日本新聞より)。過度の恐縮顔での「すみません」はさすがになくて、終始仏頂面だったが、やっていることは制服警官と同じだった。問答無用の完全シャットアウトだ。現場の最高責任者が記者の質問に答えない。じゃあ、誰が答えるのか。
そして思い当たる。官房長官定例会見で菅長官や上村報道室長が望月記者にしているのも同じことだ。じゃあ、誰が答えるのか。基本的には誰も答えないのだ。権力者は誤魔化す。隠せるものはすべて隠す。隠すことを正当化するためにウソだってつく。証拠隠滅までする。隠すほうが明らかに不利だと思えないかぎり、ひたすら隠しつづけるのだ。
だからジャーナリストが必要なのだろう。権力者に、隠すほうが自分にとって不利だと思わせることがジャーナリストの仕事だと言ってもいいのではなかろうか。
「彼女のやり方は普通の記者とは逆」
望月記者の同僚だったか他社の人だったか覚えていないが、男性の同業者が彼女を(たぶん批判的に)評してこんなことを言っていた。彼女のやり方は普通の記者とは逆なのだと。
普通の記者は自分が得た情報を誰にも知られまいとする。誰にも気づかれずにウラを取り、誰よりも早く記事にする——特ダネをものにする——ことが自分の仕事だと思っているからだ。それに対して彼女は、記事にする前の情報であっても(他社の記者もいる)会見で長官にガンガンぶつけてくる。他の記者からすれば、何をやってるんだという話になる。たしかそんな内容だった。
言っていることはよく分かる。記者は記事を書いてナンボということだろう。そしておそらく、会見でいきなり新しい情報を突きつけても、長官からまともな回答や情報が引き出せるはずがない、という意味もあるのかなと思う。もっと賢いやり方があるだろうと。
しかし、そんなことも含めて、望月記者は「普通の記者」とはまったく違う行動原理で動いているんだなと思う。
動画配信がジャーナリズムを変える?
記事という形にならなければ仕事をしたことにならないのであれば、たしかに望月記者のやり方は間が抜けている。ネタをライバルに気前よくばらまいているようなものだ。また、菅官房長官への質問から意味のある情報を引き出せたこともほとんどないに違いない。「ご指摘は当たらない」「お答えは差し控える」「適正な手順に沿って行っている」「〜(関係部署)に聞いてください」…返ってくるのはそんなセリフばかりだ。
(写真は検索にかかったもので出所はアメブロらしいが、ページは削除されてる。)
では、彼女がやっていることに意味はないのだろうか。
《インターネット+動画》という新しい情報ツールが生まれていなかったら、そうなっていたかもしれないと思う。
彼女と菅長官とのやりとり(上村室長のノイズ含む)はテレビではけっして流れない。だから多くの国民は、公式の記者会見でこんな醜悪ないやがらせが行われていることは知らないはずだ。しかし、ユーチューブではいくらでも見ることができるし、ツイッターにも頻繁に流れてくる。まだ認知度は低いかもしれないが、彼女は菅義偉という政治家の本性を白日の下にさらすことに成功したのである。あれを見れば、彼がどれだけ国民を愚弄し、民主主義や言論の自由を軽んじているかが手に取るように分かる。彼だけでなく安倍政権そのものがそういう人間の集まりだ。そして、今の政権のいたるところに「権力の誤魔化し」があると直感できる。
おそらく、木で鼻をくくったようなあんな回答では記事にならないだろう。「記事を書いてナンボ」であれば、望月記者は毎日あの会見に出て質問しても何の仕事もしていないことになる。だが、あの会見の映像を超えるインパクトを持つ記事が、いったいどれだけあるだろう。
自分が書く記事は、記者にとって最大の武器だ。しかし、紙面に掲載された記事だけが武器なのではないし、ましてや、記事にすることが唯一の目的になってしまっては本末転倒だろう。記者にしかできないこと、記者だからできることは他にもたくさんあって、官房長官の定例会見でしつこく質問することもその一つだ。一般人は路上で足止めされ、中に入ることさえできないのだから。望月記者は、それをはっきりと認識しているのだと思う。
有意義な情報を引き出せなかったら記事にするのは難しい。《何かを隠している可能性がある》というだけでは、たちまち権力側が潰しにかかるだろうし、読者も振り向かない。だから今までは、その何かを具体的に探り当てるまでは国民の目に触れることはなかったのだろうと思う。誤報とか誤誘導を避けるためにも、その点にはストイックさが求められもしただろう。
しかし、たとえば菅長官の定例会見の動画は、誤報も誤誘導も入り込む余地がない。もちろん望月記者が間違った情報をもとに的の外れた糾弾をする可能性はあるが、それは記者側の責任であり、長官は正しい情報を提示して反論すればいいだけの話だ。とにかく動画には記者の質問(音声だけの場合がほとんどだが)とそれに対する長官の回答とがそのままの形で映し出される。これまでは報じられることのなかった過程を我々は知ることができるようになったのである。そして、菅長官が何かを隠していたり、誤魔化そうとしていれば、表情や所作からダイレクトに感じ取ることができる。何を隠し、何を誤魔化しているのかは分からなくても、少なくとも誤魔化していれば誤魔化していることが映像を通じて国民に伝わる。なければ、そのように伝わるだけだ。
国会審議もそうだが、もともと国民にはすべてを知る権利があるはずだと思う。だが、物理的に難しいから、新聞の限られた紙面の中に収められた、新聞社のフィルターを通った情報に頼らざるを得なかった。「記事を書いてナンボ」という記者の価値観も、記者クラブというシステムも、そうしたこれまでの枠組みの中で生まれ、定着してきたものだろう。
しかし、動画というものが生まれて、ジャーナリストに「できること」も変わってきた。望月記者はそれを体現しているだけではなかろうか。
彼女はおそらく記事にするのが終着点とは思っていない。「権力の誤魔化し」の臭いがすれば、ためらわずに鼻を近づけ、何かを感知したら「〜の臭いがしますよ」と当事者にぶつける。これまでのジャーナリストならモグラのように地下にもぐり、全貌が明らかになるまで出てこなかったのだが、そんな悠長なことはしない。
権力者にとっては、感づかれただけでも嫌なものだろう。しかも、これまでなら最後のピースさえ隠しおおせたら公になることはなかったのに、少しでも動揺の色を見せただけで疑惑が広がってしまう。
時代が変わりつつあるのだなと思った。それに権力者もメディア業界も国民も追いつけていないというのが現状だ。隠蔽や改竄の技術も進んでいくだろうから、さらに状況は変わっていくだろうが、おそらくジャーナリズムの役割は変わらない。でも、自分の古いメディアにこだわっていたら、その役割を果たせなくなるということは十分に予想できる。
権力とジャーナリズムについて、改めて考えさせてくれる映画だった。
望月記者は荷物が多い
前にも書いたが、この映画の冒頭は沖縄でのシーンだ。大きなキャリーバッグをゴロゴロ転がしながら望月記者が動き回る。しかし、てっきり遠方だから大荷物なのかと思っていたら、そうではなかった。どこへ行くにも彼女はキャリーバッグを転がしている。段差や階段も苦にしていない様子だ。都内ではさすがに小ぶりなものに切り替わるけれど、ショルダーバッグ——それも十分に大きい——の他に必ずキャリーバッグを転がして歩く。そのまま世界のどこへでも行けそうな気がする。
望月記者は荷物が多い。ま、それだけの話だけれど。
(2019/12/11 KBCシネマにて鑑賞)