「顕教」と「密教」…「たてまえ」だけを教えられた臣民
久野収が鶴見俊輔との共著『現代日本の思想 —その五つの渦—』(1956年岩波新書)で語っている明治国家像が面白い。
「天皇の国民」「天皇の日本」という芸術作品
伊藤博文を指導者とする明治の元老たちが明治天皇を中心に据えて作り上げた明治の国家は、「一個のみごとな芸術作品」だと言う。
在来の日本の伝統や外来の制度・思想などさまざまな意匠が取り入れられているが、それらはたんなる素材にすぎず、どれも決定的な意味を持つものではない。伊藤は明治憲法と教育勅語を二つの柱として、天皇の国民、天皇の日本といういまだかつてどこにもない芸術作品を作り上げたのだ。
天皇は、政治的権力と精神的権威の両方をかねあわせることによって、ドイツ皇帝とローマ教皇の両資格を一身にそなえ、国民は政治的に天皇の臣民であるだけではなく、精神的に天皇の信者であるとされた。(P127)
宗教における神の前の平等と、民主主義における法の前の平等とが、天皇の前の平等によって代行された。こうして作りだされた一君万民のシステムは、封建的身分制度からの解放をねがう国民をうけ入れ、国民の統一と独立と平等を天皇を媒介として、上から保証し、平等となった国民の自由な立身、出世、栄達の道を確保したのである。(P128)
「顕教」と「密教」
面白いのはここから。
明治国家の中心である天皇にはまるで違う二つの顔があり、一般の国民にはその片方だけしか見えなかったというのだ。だが、本当の姿はもう一つの顔のほうであり、ごく一部の支配層だけがそれを知っていた。
幕藩体制が終わるまでは、ほとんどの日本人にとって国のトップといえば藩主。そしてその上に徳川将軍がいる。天皇のことは、その存在自体を知らない者も少なくなかったはずだ。そんな国民に天皇を認知させるだけでなく、王として崇めさせなければならない。一方で、欧米諸国から国家として認めてもらうには、近代国家にふさわしい制度を整える必要がある。とてつもない難題を突きつけられていたわけで、ウルトラC級の方便が必要だったのだろうというのはわかるが…。
注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二種に解釈され、この二種の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。
天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生に指導されるシステムがあみ出された。(P132)
初等教育では教育勅語などを通じて天皇の絶対性だけが徹底的に叩き込まれ、本当のことは教えられない。実際の明治国家は立憲君主制であり、権力は分散し、天皇の権威もシンボル的・名目的なものにすぎないのだが、国民にはそれは見えない。国を動かすごく一部のエリートたちが了解しているだけなのだ。
国ぐるみのダブル・スタンダード。
この国家的欺瞞は、伊藤たちによってあみ出され、彼ら明治の元勲たちが国全体をコントロールすることでなんとか維持された。だが、彼らが政治の表舞台から姿を消していくと、バランスを失い、矛盾を露呈していく。さまざまな素材を巧みに組み合わせて完成された芸術作品だったから、全体の均衡を失うと、たちまち醜いスクラップと化してしまったというわけだ。
顕教による密教征伐
ただ、天皇への翼賛と輔弼のシステムの中で、軍部と衆議院だけは、伊藤の苦心にもかかわらず、それぞれちがった意味においてではあるが、サイズのあわない歯車として、ぶきみな音をたてつづけた。
軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省をしたがえ、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後にはメチャクチャにしてしまった。(P133)
この連合勢力の攻撃に直面したとき、明治の末年以来、国家公認の申しあわせ事項であった天皇機関説、明治国家の立憲君主的解釈は、天皇自身の意思に反してさえ、一たまりもなく敗北させられたのである。国民大衆から全く切りはなされた密教であるかぎり、この運命はまことにやむをえなかった。密教は、上層の解釈にとどまり、国民大衆をとらえたことは、一回もなかったのである。(P133〜134)
国民大衆をバカにしたツケがこういう形で回ってきたということだが、じゃあ最初から一つの天皇像——立憲君主制、天皇機関説——を掲げていればコトがうまく運んだかと言うと、そうかんたんな話でもないだろう。旧武士勢力でさえそれを理解することはできなかったかもしれないから。
いずれにしても、やがて暴走を始める軍国主義がどのような土壌の中で用意されていったかを理解するうえで、この顕教と密教という見方はとても役に立つ。
そしてこんなことも思う。国ぐるみのダブル・スタンダードというのは、この時期だけのものではないのかもしれないと。
たとえば、もともと日本という国は天皇と貴族、天皇と武士という形で長年にわたって二重の権力構造を持ってきた。権威と権力の分割だと割り切ることもできるだろうが、朝廷にはつねに政府としての執務体制が整えられていたはずだし、徳川家康は自らを神と位置づけたのではなかったか。なぜ朝廷(皇室)を抹殺しなかったのか、いまだに上手く理解できない。
また、戦後の日本における平和主義にも似たようなところがある。
新しい日本の国家理念として多くの国民に信奉されてきたが、為政者たちは道具として利用しているだけとしか思えない。
権力者にとっての建前と本音と言ってしまうこともできるだろうし、べつに日本に限ったものではないのかもしれない。だが、少なくとも民主主義国家においては許されるべきことではない。安易に一般化しすぎないよう注意しなければならないが、もう少し敷衍して考えてみたいと思っている。