本/映画

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』

あの戦争を煽ったのは、マスコミというより国民だな。

世論に視点を当てて歴史を読み解く。

アジア太平洋戦争へと向かう戦前の日本を描いた本はたくさんあるけれど、この本はかなりユニークな視点に立っていると思う。歴史の流れを語る場合、ふつうなら、主だった出来事について誰がどういう意図で何をしたかを明らかにしていくだろう。そして、それが何をもたらしたか。この本にも基本的なことは書いてあるから、出来事のあらましについては分かる。しかし、ポイントはそこにはなくて、メディアがその出来事をどのように報じ、人々がどう反応したか、あるいはまた、新聞や大衆によって形成される世論がその出来事にどういう影響を与えたかにある。

20世紀が始まった頃には、日本にも「大衆」が存在していた。それがどういう生業の人たちで、どれほどの人数だったのかまでは分からないが、ポーツマス条約を結んで日露戦争の和平が成ったとき(1905年)、政府が受け入れた条約案に反対する人々が数万人規模で集結して暴動を起こし、死者17人、負傷者2,000〜3,000人、逮捕者2,000人を出したことを、大衆の存在なしに説明するのは難しいだろう。

日比谷焼き討ち事件と言われるこの出来事を、歴史上初めて「大衆」が表舞台に登場した瞬間と位置づけ、著者はここから戦前日本について語り始める。

ただし、著者の言う「ポピュリズム」が、いま世界で話題になっているポピュリズムと同じものなのかどうかには少し疑問が残る。「要するに大衆の人気に基づく政治」(まえがき)と言っていて、それはまあそうなのだけれど、あんまり間口を広げすぎると、民主主義国家の政治はどれも多かれ少なかれポピュリズムになってしまう。でも、この言葉を抜きにしても、この本が提示しているものはすこぶる興味深い。政治家がだんだん世論を無視できなくなっていく過程。こう言うと、民主主義が成熟していく過程だと早合点しそうだけれど、残念ながら日本の場合はそうではなかった。

この本が取り上げている事件を列記すると、おおよそ次のようになる。

  • 1905年 日比谷焼き討ち事件
  • 1924年 排日移民法排撃運動
  • 1925年 朴烈怪写真事件
  • 1926年 松島遊郭事件
  • 1926年 陸軍機密費事件
  • 1928年 鈴木内相弾劾議案問題と水野文相優諚問題
  • 1928年 パリ不戦条約「人民の名において」事件
  • 1928年 張作霖爆殺事件
  • 1929年 宮中主導による田中義一内閣崩壊
  • 1930年 ロンドン海軍軍縮条約調印と統帥権干犯問題
  • 1931年 軍制改革(軍縮)問題
  • 1931年 満州事変
  • 1932〜33年 五・一五事件と血盟団事件の勃発と同情的世論
  • 1933年 国際連盟脱退
  • 1934年 帝人事件
  • 1935年 天皇機関説事件
  • 1937年 第一次近衛内閣誕生
  • 1937年 盧溝橋事件
  • 1940年 第二次近衛内閣誕生と大政翼賛会発足

1925年に衆議院議員選挙法が改正され、28年に最初の普通選挙が実施された。25歳以上の男子に限られてはいたが、貧富の別なく平等に選挙権が与えられたのである。民主主義への大きな一歩となるはずだった。しかし、それからわずか3年で満州事変が起き、軍国主義へと突き進んでいったことになる。

日比谷焼き討ち事件はたしかにメディアが煽った。

政治的な行動に人々が群れをなすことは、第一次護憲運動などでも見られた光景だった。ただ、それは主義主張を持つ少数の有志の集いを、人々が取り巻いて見物するという体のものだった。日比谷焼き討ち事件がそれらと異なるのは、過激な反政府運動だったにもかかわらず、そこに見物人はいなかったと思われるからだ。数万の人々が意思を持って参加した。

それを煽ったのは明らかに新聞だった。ロシアという大国に勝ったのに賠償金も取れない政府を、弱腰だとして痛烈に批判したのだ。だが、煽りは勝敗が決まってから始まったわけではなかった。もっとずっと前から繰り返されていたのだ。

交戦中、日本が大きな戦果を挙げるたびに「戦勝祝捷会(せんしょうしゅくしょうかい)」が開催されていた。その多くは新聞社が主催し、当然ながら大々的に前宣伝をして人を集めた。参加者が10万人を超えることもあったそうで、それだけの群衆が飲めや歌えの大騒ぎで勝利に熱狂したのである。

つまり、メディアは交戦中から戦勝気分をさんざん煽っていたのだ。ところが終戦してみたら、勝利に見合うだけの戦利品がないことが分かった。薄氷の勝利だったのだから致し方ないのだが、そのことは理解していなかったようだ。紙面で徹底的に政府をこきおろし、読者に集会への参加を呼びかける。そこにあるのは感情の爆発だけで、社会の公器としての抑制は失われていた。しかし、国民はそれを真に受け、街頭に繰り出した。

世論ははじめから親天皇でナショナリスティックで好戦的だった。

暴動は、警察を襲撃するという、今では想像もできないほど過激なものだった。東京市内の派出所の7割が消失したという。路面電車や教会も攻撃された。新聞社の中で唯一、講和内容を支持した国民新聞も襲われ、輪転機が破壊された。

しかし見落としてはならないのは、日比谷公園で行われたのは、ごくまっとうな講和条約反対の「国民大会」だったということだ。主催者が演説し、条約反対の決議を読み上げ、君が代を演奏し、天皇・陸海軍に万歳を唱えて解散した。暴動に発展したのは、そこから二重橋前広場に移動してからだった。そこでまた君が代を演奏していたところ、警察隊が解散を命じたため、「無礼だ」と言って群衆が怒りだしたのだ。(P.18〜19)

人々は、勝利に見合わない内容で妥協した政府を厳しく糾弾はしたが、天皇崇敬の念を失ったわけではなかったし、軍に対しても最大限の敬意を示していた。悪者は政府であり、その手先となった警察と一部のメディアだった。世論は初めて露見したその瞬間から、親天皇で、ナショナリスティックで、好戦的だったのである

明治38年に明らかになった世論のこの性質が、すべて新聞によって醸成されたものであれば、新聞の論調が変わるに従って変化していく可能性もあっただろう。しかし、この本を通読して感じたのは、基本的な性質はこれ以降まったく変わっていないな、ということだった。この本が扱っているのは対米戦争が始まる前までだけれど、そこまで驚くほど一貫しているように見える。それどころか、はじめはこれらの性質を抑制するストッパーがいくつかあったはずなのに、一つずつ剥ぎ取られ、いつしか純粋培養されるようになる。そして、メディアの影響力はどちらかと言うと低下していき、逆に世論に引っ張られ、それにおもねる姿が露わになっていく。

満州事変以降、メディアは世論を後追いする存在に。

1931年9月に満州事変が起こると、多くのメディアは事変支持(=関東軍支持)の論陣を張った。政府も軍中央も不拡大の方針を示していたから、それに反する主張である。この中で東京朝日新聞は、はじめのうち反関東軍の立場を取っていたが、すぐに猛烈な不買運動を受けることになる。その結果、1カ月後の重役会で「満州事変支持」を決定した(P.145)。

日比谷焼き討ち事件のときは、ただ一社、講和条約に賛成していた国民新聞が群衆に襲撃された。20数年後の東京朝日は180度寝返ったのだ。正論を発信して世論を変えることより、世論におもねることになっても経営を優先させたということだろう。

このときがメディアにとっての分水嶺だったような気がする。

この本は米騒動(1918年)や普選運動(1919〜24年)にほとんど触れていないので、この期間の世論とメディアの関係がどのようなものだったのかは分からないが、日比谷焼き討ち事件のときは明らかにメディアが世論を煽っていたのに、満州事変以降はその関係が逆転しているように思える。メディアが煽る場面はその後もあるが、東京朝日の方向転換が象徴しているように、これ以降のメディアは世論が望むもの、つまり売れる記事を優先するようになったのではないかと思う。

テロリストを褒め称える世論

1932年には、血盟団事件と五・一五事件という歴史にその名を残すテロ事件が起こる。ずっと報道規制が敷かれていたようで、詳細が報道されるようになるのはほぼ1年後、公判が始まる直前だった。

二つの事件は紛うかたなきテロリズムなのだが、新聞の論調ははじめから被告に同情的なものだった。見出しこそ「陸海軍人、愛郷塾生らが犬養〔毅〕首相暗殺、帝都擾乱 見よ、恐るべき暴挙」(大阪朝日)と厳しい口調だが、記事の中では被告たちの動機を称賛し、この暴挙をほとんど正当化していると言っていい。殺された人たちこそ悪人だと言い出しかねない口ぶりだ。

文中に「皇室中心主義の一種の無産運動 濁世への警鐘——被告人の心構 大不祥事の特異性」という小見出しで以下のような記事となっている。

まず、「我国現下における政党の腐敗堕落、特権階級及び財閥の横暴を叫んでこれを矯正せんがため」という彼らの現状批判に同調的な色彩を感じさせつつ、「如何なる方法によって政治を改善しようというような具体的の考えは彼等は持たなかった」として変革プログラムのないことに批判性を見せる。続いて「庶民階級殊に農民の救済解放をも叫ん」だ「一種の無産運動の現れ」なのだが、「左翼の解放運動と違って皇室中心主義を高唱している」ところに特色を求めている。当時の「進歩派」の事件に対する複雑な視点を感じさせる紙面である。(P.150)

論調はこのあとも変わらなかった。被告たちの法廷での礼儀正しさや仲間同士の友情のエピソードまで、まるで講談の忠臣蔵のようにドラマティックに語られていく。いや、まさに講談や浪花節の世界だった。忠臣蔵だけでなく、桜田門外の変や西郷隆盛、果ては中大兄皇子や楠木正成まで引き合いに出して、お涙頂戴の美談に仕立て上げていった。

メディアが先か世論が先かで言えば、この件に関しては、メディアが先に立って世論を誘導したのだろう。そのように見える。そして、減刑を望む投書が新聞社へ寄せられ、それがまた報道されることによって大きな減刑嘆願運動へとつながっていく。

しかし、減刑嘆願運動も、考えてみればこのときが初めてだったわけではない。関東大震災に乗じて大杉栄らを惨殺した甘粕正彦(憲兵大尉)に対しても大規模な減刑嘆願運動が起こった。まったく同じことを繰り返しているのだ。

日本特有とまでは言わないが、大義があり、それが一定のエンターテインメントの型にはまれば、どんな大罪も許してしまう風潮が日本の世論にはあるようだ。不思議なのは、社会主義者の行為はぜったいにそこから排除されることだ。動機はほとんど同じと言っていいのに。上の記事でも、「一種の無産運動の現れ」と左翼運動に肯定的なニュアンスは示しつつも、「皇室中心主義を高唱している」ことが強調されている。結局、右翼のテロに対してだけ甘いのだ。

この風潮の源がどこにあるのかは分からない。ただ、明治維新も立派な暴力革命であったことを考えれば、この時代の人々が世直しを標榜するテロリズムに寛容なのも無理はないのかもしれない。

この事件に対するメディアと国民の反応から僕が感じたのは、理性より感情が上位に来るのだなということだ。今もまったく同じことを感じるし、また、このときに始まったわけでもないと思うけれど。これを日本人特有と考えるべきなのか、前近代的と言うべきなのか分からないが、あまり深く考えようとしていないことは確かだろう。娯楽映画や井戸端会議と同じレベルだ。実際に減刑運動が広がったということは、それが法を凌駕できると多くの人が信じていたことを示すわけで、それこそが怖い。

天皇機関説事件で反知性主義の世の中へ

1935(昭和10)年に起こった天皇機関説事件についてはほとんどの日本人が知っているはずだけれど、深く考えたことのある人はそんなにいないのではなかろうか。でも、この本を読むと、この事件で最後のピースが埋まったのかなと思えてくる。あるいは、それまでバラバラに動いていたものが、この事件が結束バンドのような役割を果たして一つにまとまった。それくらい大きな意味を持つ事件なのだ。

中身の説明を始めると長くなるので、この事件によって失われたものだけ挙げてみる。

学問・知性の権威失墜

この事件は、明治期から定説とされてきた正統の法学理論が国家によって完全否定され、抹殺されたというものである。その分野の第一人者が唱え、多くの研究者たちによる議論に耐え、大学で教えられてきた学説が、素人による感情的な攻撃によって跡形もなく葬り去られたのだ。知性が政治に敗北したのである。

まず、研究者たちが受けたダメージは計り知れないものがあっただろう。いくら研鑽を積んで真理に辿り着いても、いつ覆され、国賊呼ばわりされるか分からないのだ。萎縮してしまったとしても無理はない。もっとも理性的で合理的であるはずの人たちが口を封じられてしまった。

一方、事情を知らない一般国民のほうは、それまで権威あるものとして敬意を抱いてきた学問、教養、知性といったものが、急に色褪せて見えたことだろう。「末は博士か大臣か」という言葉は明治初めに生まれたらしいが、そうした明治以来の価値観が揺らいだ瞬間だったかもしれない。

「国体」だけが正しい。

この事件を受けて、政府は二度に渡って「国体明徴声明」を出すことになる。

日本は万世一系の天皇が治める世界に比類なき神の国である——政府がこのように念押ししたのだ。国や天皇についてこれ以外の考え方は認めない、だから、とやかく言うな。国民はこれをどのように感じたのだろう。はっきり言ってよく分からない。

いずれにしてもこれ以降、「国体」という言葉が念仏か何かのようにあちこちで使われるようになっていく。でも、言っていることは、天皇は神だ、日本は万邦無比の国だという抽象的なイメージにすぎない。しかし、それに少しでも反するようなことは、口にすることさえできなくなっていく。

西洋由来のものも否定されていく。

天皇機関説は「国体」に反するものとして否定された。しかし、「国体」は日本でだけ通用するカルト的な信仰に過ぎない。普遍的な真理を追い求める学問や思想はすべて、どこかで「国体」に抵触する。つまり、「国体」を前提としたら、西洋で生まれた学問や思想はすべて誤りということになる。こうして西洋由来のものが次々に否定され、貶められていく。

国際協調派の排除

天皇機関説事件は、一部の勢力を追い落とす政争でもあった。狙われたのは天皇の側近だった。その中にも機関説擁護派がいたのだ。軍縮=国際協調路線を支持する穏健派でもあった。天皇も考えを同じくしていたことは間違いないのだが、軍部から見れば「君側の奸」が誤った方向へ誘導しているということになるのだろう。二人の重臣が辞職した。このとき排除されなかった穏健派は、翌年の二・二六事件で命を奪われることになる。

こうして天皇は信頼する側近を次々に失い、丸裸にされていくのである。

軍部の復権

この事件の首謀者は熱狂的な国粋主義者(右翼)の簑田胸喜だと言われているが、バックで陸軍が全面的に支援していたことは間違いない。そして、この言論排撃が成功したことで、軍部の復権が完成したと言えるのではなかろうか。

大正から昭和のはじめにかけて、日本では——というより世界で——軍縮の時代が続き、軍部は臍を噛む思いをしてきた。1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約でさらに軍縮圧力が強まったが、それを一気に撥ね返したのが翌年の満州事変だった。国民は熱狂し、軍縮を求める声は消えた。関東軍の青年将校たちのイメージは、おそらくその後の五・一五事件の被告たちとも重なるものだっただろう。そして満州国は、日本の将来に大きな希望を感じさせたに違いない。1933年に五・一五事件の裁判が始まると、すでに紹介したように若き軍人をめぐる美談が世にあふれ、減刑運動が広がった。これによって軍は完全に世論を味方につけたのだ。

天皇機関説事件はこういうタイミングで起こった。「国体」に政府が太鼓判を押したことで、天皇直属の軍に対しても文句を言えなくなる。そして、大陸進出を邪魔してきた国際協調派の天皇側近を追い落とすことにも成功した。世論の支持に加え、法的にも、実権という意味でも、軍部に有利な条件が揃ったことになる。

近衛文麿のポピュリズム政治

国民を熱狂させた近衛内閣

そのまままっすぐに軍国主義への道を歩んだのかというと、最後に徒花が咲いた……ように見える。

1937年に首相に任命された近衛文麿は、なんとも華やかな人物だった。公家の中でも最高の家柄に生まれ、若くして貴族院議長。長身で容姿端麗で、スーツをスマートに着こなし、アメリカナイズされた洋風の生活をファミリーとともに楽しむ。夫婦ともにゴルフをたしなみ、長男はプリンストン大学に留学……映画スターでもこうはいかないだろう。また、帝大出の宰相はそれまでにもいただろうが、彼ほど“教養あるインテリ”という印象を持たれた人はたぶんいない。しかも自由主義者であり、社会主義にも理解を示していた(らしい)。

それまでの総理大臣と比べると、近衛文麿は明らかに異色だった。というか、ほとんど日本人離れしていると言っていい。そして、ここまで挙げてきた戦前日本の変容の歴史ともまったく無縁の存在に見える。とくに天皇機関説事件で否定された教養や知性、西洋、国際協調といったものを、彼は全身にみなぎらせていた。逆に講談や浪花節、そして軍部のイメージからはほど遠い。

とにかく近衛文麿という若き宰相の誕生を、国民は熱狂的に歓迎した。女学生や主婦など、それまで政治に無関心だった層まで彼のラジオ演説に耳を傾けたという。インテリ層からも期待が寄せられた。戦前はもちろん戦後にもこのような首相はいなかったのではなかろうか。細川護熙や小泉純一郎が頭に浮かぶが、おそらく格が違う。この二人を足し合わせてもまだ足りないような魅力を、国民は近衛に感じたのだろうと思う。

もちろん、この熱狂を呼び起こしたのはメディアだった。まるで芸能雑誌のように近衛の一挙手一投足、そして家族や私生活について書きたて、合わせて熱狂する国民の様子も紹介していった。さらに近衛はラジオも積極的に活用して、国民に直接訴えかけた。まさに大衆社会的政治家の誕生と言えるだろう。

軍からも政党からも独立した政権

戦前の総理大臣は元老や重臣の推薦で決まっていたから、議会に基盤を持たないケースが多かったが、近衛もまたそうだった。政党人でもないし、軍人でもない。陸軍と近かったことを仄めかす記述もあるが、この本だけではその詳細までは分からない。彼の行動を見る限り、軍とは距離を置き、政府がコントロールする仕組みを作りたかったんだろうなと感じる。

彼は新しい政治のスタイルを確立しようとしていた。知性派揃いの強力なブレーン集団を置いたのも、その一つの表れだろう。軍からも政党からも独立した政権を確立し、利害やしがらみに振り回されず、結果的に軍の暴走を止めようと考えたのではないだろうか。

(すでに完全な憶測モードに入っているのだが)インテリが彼を支持したのは、そういう姿勢が見てとれたからではなかろうか。けっして彼がインテリっぽいからというだけの理由ではなかったはずだ。それらの人々は、軍や右翼などの反知性主義的な勢力が着々と既成事実を積み上げていくのを不安を持って見ていたはずで、近衛ならその流れを止められると夢見たのだと思う。

しかし、軍や政党から独立するということは、軍や政党と闘い続けるということでもある。
近衛の武器はブレーンと圧倒的な世論の支持。

皮肉なことに、こうなると逆に選べる選択肢が限定されてしまう。世論に見放されるわけにはいかないからだ。

そして、不幸なことに、異色の総理大臣が生まれた途端に盧溝橋事件が起こった。

世論を味方につけながら、軍と議会を制す…

軍が地道な努力(?)によって世論の支持を取り戻してきたことはすでに触れたし、またその世論が明治以来変わらず、親天皇で、ナショナリスティックで、好戦的だったことにも触れた。近衛の人気は、“理性より感情”というもう一つの要素によって火がついたのかもしれないが、そうだとしても、“親天皇”“ナショナリスティック”“好戦的”というベースの部分で許容範囲を逸脱していなかったから、人々に受容されたのではないかと思う。つまり、一部のインテリを除けば、彼を支持する人々というのは、関東軍に喝采を送り、テロリストの減刑を嘆願した人々なのだ。

軍に引きずられるのではなく、国民の支持を得ようとすれば、結局できることは一つ。軍よりも好戦的になるしかない

軍は現地で停戦交渉をしていたし、外務省も戦線拡大には反対で、なんとか終息させようと努力していた。ところが、事件発覚当初の閣議で「不拡大」「現地解決」を確認したにもかかわらず、実際に近衛内閣が行ったのは、現地交渉を反故にするような強硬策だった。

石射猪太郎外務省東亜局長は、この日(7月11日)の朝の閣議で杉山陸相から出される三個師団動員案を外相の力で否定してくれという陸軍軍務局からの使者にあきれたが、広田外相に否定を進言、ところが賛同したはずの広田は閣議であっさりと動員案に同意して退出してきたので失望していた。その後、夜になり首相官邸に「行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ」(石射〔1986〕297頁)。
(P.261〜262)

この三師団派兵という強硬策によって中国側の態度が硬化し、早期解決の努力は水泡に帰した。

しばらくして駐華ドイツ大使トラウトマンを通しての和平交渉がまとまりかけたが、これも結局、近衛内閣が潰してしまう。妥結直前に南京陥落という大きな戦果が上がり、それが分かるやいなや和平条件を大幅に吊り上げたのだ。これは「世論の圧力」によるものだったと広田外相が認めている(P.264)。しかし、条件を吊り上げれば合意は遠のく。いや、それどころか決裂してしまう。これには陸軍参謀部でさえ強く反対したというが、政府の方針は変わらなかった。そして、近衛はわずか1カ月後に「爾後国民政府を対手とせず」とする声明を発表し、和平工作を打ち切ってしまう。

このトラウトマン和平交渉は、結果的に日中戦争における和平実現の最後のチャンスだったから、後世から見れば、こんなに呆気なく決裂してしまったことが残念だし、また不思議でもある。

木戸幸一文相や多田駿参謀次長は、議会対策を優先した結果ではないかと語っている。議会の開会が間近に迫っていたのだ。もちろん交渉は秘密裏に行われていたが、いつ情報が漏洩するとも限らない。その場合、勝っているのに和平交渉をしていること自体が、政府にとって大きなリスクになる。議会でつつかれる前に、先手を打って強硬な姿勢を示しておきたかったのだろうというわけだ(P.265〜266)。ポーツマス条約のあとの日比谷焼き討ち事件のことが、近衛らの脳裏に浮かんでいたのかもしれない。

議院内閣制でない戦前の内閣が、世論だけを頼りに軍や政党を抑えようとすれば、結局こういう選択に行き着かざるをえなかったのではないか。あくまでも仮定の話だが、陸軍の息のかかった政権であれば、トラウトマンの仲介を待つまでもなく、初期の段階で解決できていた可能性があった。皮肉な話だけれど。

このあと日中戦争は泥沼にはまっていく。

近衛は1939年の年頭に辞任し、40年の7月に再び総理の座につくが、彼が在任中にやったことというのは、結局のところ軍事独裁体制の基盤整備に他ならなかった

経済を国家社会主義的な中央管理体制に移行させ、既存の政党を解散させて大政翼賛会に一本化した。一党独裁である。これらも、もしかしたらまったく違うものを目ざしていたのかもしれないが、結果的には軍国主義化のブレーキを破壊しただけだった。そして米国との開戦回避の交渉に失敗し、開戦直前の1941年10月、「戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と言って政権を投げ出す。

日独伊防共協定を結んだのも近衛内閣時代であったことを考えると、こう言っては可哀想だが、大局を何度も読み間違え、日本が明治以来築き上げてきた資本主義と民主主義(的なもの)を破壊したのが近衛文麿だったと言わざるをえない。

史上もっとも高い人気を博し、知性と教養に恵まれ、軍からも政党からも独立した政治を行おうとした異色の総理大臣が、誰よりも日本の軍国主義化を推し進める結果となった。皮肉なものである。

特定の視点から歴史を見るということ

ここまで書いてきたことは、この本の主旨から外れるものもあると思う。また、戦前の日本には二種類(二段階)のポピュリズムがあったとし、汚職の続いた政治家が信用を落とし、徐々に警察や軍などの「中立的」な権力が信用を得ていったと見立てている点など、この本には興味深い分析が他にもいくつもあったが、切りがないので触れることができなかった。

歴史をこの本のように特定の視点から見るというのは、捨て去る部分が多く、またストーリーを優先して事実を歪曲してしまう可能性も高いから、かなりリスクの高い試みだとは思う。でも面白かった。

通史的なアプローチは、それはそれで捨て去る部分が多々ある。スタートからゴールまでの全体の流れについて、因果関係を探りながら追っていくことになるから、細かいことには疑問を持ちにくいし、はじめから善人と悪人が頭の中で固定されがちだ。この本が面白かったのは、それが細かく入れ替わっていくことだった。

たとえばメディアについて言えば、国威発揚に全面協力した負の歴史はいろいろなところで読んできたが、煽られた国民のほうは被害者という認識しかなかった。でもこの本を読むと少し違った印象を持つ。メディアの罪を過小評価するのは避けるべきだろうが、国民を無色透明で善良な市民だと買いかぶるのも誤りなのだと気づく。とくに満州事変や五・一五事件への国民の反応を見ると頭がくらくらしてくる。でも、今もほとんど変わっていないのだ、たぶん。欲深いメディアが無辜の国民を誤誘導するという面がある一方で、国民がメディアに邪悪なものを求めるのだ。素の世論がどれほど危険なものなのかを知ることが、民主主義や言論を考えるうえではぜったいに必要だ

個別の事件で言えば、天皇機関説事件がとても印象深かった。国体明徴声明までの推移を表面だけ見ると、“皇国思想がそれだけ浸透していたのか”とか“日本人はそんなにバカだったのか”と思うだけだが、実際にはいろいろな思惑が交錯してああなったのだし、また、その後の日本に及ぼした影響も思っていた以上に大きい。1935年という時期にこの事件が起こったことの意味を、日本人はもっと深く考えてみるべきだなあと思った。

一つ気になったのは、権力による言論統制の話がこの本にはまったく出てこないことだ。それが本格化する前のことしか扱っていないからかもしれないし、あるいは世論とメディアの相互作用に焦点を絞るためにあえて無視したのかもしれない。しかし、出版条例などはすでにあったわけだし、美濃部達吉の著書はそれを適用されて発禁になった。それなりに厳しい制約があったはずだ。

それなのに、この本に登場するメディアはつねに反政府的なスタンスを取っているように見える。権力の監視という点では、今のマスコミとは比べものにならないほどその務めをまっとうしている。それが当時の世論に合致していたという点が、今日の日本とはずいぶん違う点だが。

メディアというのは、いつの時代も世論と権力の双方から圧力を受け、どちらにも良い顔をするか、あるいは少なくともどちらかから強力な支持を得なければ存続することができないものだと思う。当時の権力がメディアをどのように扱っていたのか、やはりもう少し知りたかった。

ポピュリズム政治

最初にも書いたように、ポピュリズムを広く捉えすぎるとあまり意味がなくなってしまう。しかし、この本の終着点として取り上げられた近衛文麿は、どこから見てもポピュリズム政治家としか言いようがない。そして、彼を育んだのも、あの時彼を選んだのも、明治以来の日本の歴史なんだなあと思う。

議会との関係が薄かった当時の内閣制度のもとでは、ポピュリズム政治はあのような形にならざるをえなかっただろうし、逆に今日の議会制民主主義のもとでは、あれと同じようにはならないだろうとは思う。でも、ポピュリズム政治がどんな危険をはらんでいるかは、近衛内閣を見ることで実によく理解できる。闘う相手がはっきりしているときほど危険は大きく、下手をすると敵よりも邪悪な存在になりうるのだ。そのとき、本来の彼が何を目ざしているかはあまり関係がない。だから余計に怖い。

世論(=国民)とメディアがおのおのの、そしてお互いの弱点を理解して、権力から自律しながら補い合うことができないと、これを撥ね返すことはできないのだろうなと思う。しかし、はっきり言って今の日本はあの頃からほとんど進歩していない。戦後、経済が発展している間は少しまともに見えた時代もあったが、SNSが普及した一方でメディアの力が衰退し今、簑田胸喜が何人出てきてもおかしくないという恐怖さえ感じる。

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』(中公新書2018)

 

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