戦争のこと

沖縄慰霊の日に朗読された詩

聴いて、見て、読んだ。

6月23日の沖縄全戦没者追悼式で中学3年生の相良倫子さんが朗読した、自作の詩「生きる」。
僕は期せずしてこの詩に3回、それぞれ違う形で接した。

一度目はまさに追悼式の会場で、直に聴いた。

会場である摩文仁の丘には行ったけれど、式場(テントの中)には入らなかったから、朗読する姿を目にしたわけではなかった。

式場のすぐ外の芝生に腰を下ろして、スピーカーから聞こえてくる彼女の朗読をただ耳から聴いた。

正直に言うと、優等生の女の子が情感をこめて詩を朗読する・・・そんな、ステレオタイプなイメージが頭に浮かんで、こそばゆいというか、ちょっと苦手だなという印象を持った。
「魑魅魍魎」とか「阿鼻叫喚」といった難しい言葉や「〜のだ」という言い切りの語尾にも少し居心地の悪さを感じた。

でもすぐに、発せられる言葉がすべて、いささかも零れ落ちることなく、一瞬の淀みもなく、自分の心に入ってくることに気づいた。

周りの大勢の人々も固唾を飲んで聞き入っていた。
テントの中よりもずっと多くの人が、その周りで見守っている。
ほとんどは沖縄県民だろうから、よそ者の僕とは密度が違ったのかもしれないが、同じように、言葉がストレートに自分の心に届くのを感じていたのではなかろうか。

朗読が終わると拍手がわき起こった。僕も力を込めて長い長い拍手を送った。

二度目はその日の午後、ニュースサイトの動画で。

午後になって映像でその一部始終を見たとき、まったく別の驚きがあった。

読み上げているんじゃない。

あの長い詩を、一度も原稿を見ることなく、しかも記憶を辿るような素振りも見せず、身体の奥底から紡ぎ出すように自然に、冷静に語りかけている。

右へ左へと視線を向ける様子にもけっして過剰さは感じられず、会場の隅々にまで言葉を届けたいと願う気持ちの表われだとわかる。

その姿は僕が抱いたステレオタイプなイメージとまるで違っていた。
まったく嫌みを感じない。
照れや衒い、自己顕示欲といったものとは無縁で、ただ真摯に言葉を、思いを伝えようとしているのだ。

三度目はテキストで。

毎日新聞のニュースサイトには動画とともに詩の全文が掲載されていた。

現地で耳から聴いた言葉をあらためて文字で読む。

沖縄の美しさ。それを感じながら今を生きる実感。
その今を中心に置いて、過去と未来を一直線につなぐ視点。
精巧な構成に驚く。

そして、修辞を排し、まっすぐに発せられるメッセージ。
「もう二度と過去を未来にしない」
「戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無い」
「未来は、この瞬間の延長線上にある」

だから、一日一日を大切に、平和を想い、平和を祈りながら、未来につづく今を生きる。

耳だけから心に届いてきた言葉とも、彼女の口から語りかけられる言葉とも、また少し違う豊かな味わいがあった。

(2018-06-26)