本/映画

ポン・ジュノ『ほえる犬は噛まない』

2000年/韓国
製作:チョ・ミンファン
監督:ポン・ジュノ
脚本:ポン・ジュノ、ソン・テウン、ソン・ジホ
出演:  ペ・ドゥナ、イ・ソンジェ

『パラサイト 半地下の家族』(2019年)でカンヌ国際映画祭のパルムドール(最高賞)とアカデミー賞作品賞をW受賞したポン・ジュノ監督の長編デビュー作。監督は1969年生まれだから、まだ三十そこそこの頃の作品ということになる。

悪者が誰も裁かれない——脱力系非「勧善懲悪」話

とても不思議な物語だ。

どんな映画かと聞かれても一言では答えにくい。韓国社会の負の側面——貧困とか腐敗とか——も視野に入れた社会性のある物語なのに、コメディの要素が強く、漫画から切り取ったようなおバカなシーンにあふれている。深刻さは皆無。主人公のキャラクターとも相まって、全体としては実にノンキでふわふわした雰囲気に覆われている。

でも、これがなかなかの曲者で、観終わった瞬間に「えっ?」となる。
たぶん物語の文法のようなものを無視して作られているからだろう。

多くの映画は大なり小なり「勧善懲悪」という基本類型をベースにしている。善と悪がはっきりしていて、最後に悪は裁かれ、観る者はそれで溜飲を下げる。もっと繊細な作りのものもあるけれど、その場合は、古典的な価値観で一刀両断できないような微妙な問題について、観る者一人ひとりの熟慮を促すような組み立てになっていることが多い。でも、この映画はそのどちらでもない。

この映画では、誰が悪事をはたらいたかはすべて明らかされている。起きる事件はどれもショボく単純なものばかりで、凶悪犯と呼べるような者は一人も出てこないのだが、観客にはすべての事件の全容が開陳され、誰が悪人なのかが示されている。つまり、裁かれるべきは誰なのかを、観客は知っているのである。

ところが、最後まで悪人は誰一人として裁かれない。なんの解決もされないまま、なぜかなごやかな雰囲気に包まれ、イイ感じで終わってしまうのである。

観ている者は「なんじゃ、こりゃ」となる。

登場する人物は——語弊のある言い方になるが——《小悪党》と《おつむの弱い人間》の二種類しかいない。正義の味方らしき人物はいるが、残念なことに少々頭が鈍く、不正義がまかり通っていることに気づかない。一方、何人かの人間が悪事をはたらくが、もともとショボい悪事ばかりだから、自分が犯罪を犯しているという認識さえない者がほとんどだ。両者がともに悪を見逃してしまえば、まあ平穏な日常しか残らないわけだ。

悪人は誰一人裁かれず、何事もなかったかのように生き延びる。出世さえする。

原題は「フランダースの犬」なのだという。童話ではなく日本のアニメのオマージュらしく、あの聴き慣れた主題歌をアレンジした曲がBGMとして流れている。しかし、アレンジと言ってもかなりぶっ飛んだパンク・ミュージック(?)に生まれ変わっているので、すぐには気づかないのだが。また、途中で主人公の一人がカラオケであの歌——歌詞は韓国語だが原曲どおりのアニメソング——を歌うシーンもある。

でも、なぜ「フランダースの犬」なのか、僕にはよく分からなかった。
もっとも、アニメ自体を観ていなかったから、詳しいことは知らないんだけど。観ていた人は、あのカラオケのシーンで何か感じるものがあったりするのだろうか。

物 語

舞台は、日本で言えば公団(UR)の団地のようなところだ。と言っても、昭和の高度経済成長期に作られたエレベーターなしの5階建てが広がるあれではなく、もうちょっと新しい、10階建てぐらいの高層住宅が何棟か建ち並んだやつ。

そこで飼い犬の連続失踪事件が起こる。
……。
映画の中で起こる主要な事件はそれだけだ。

実にショボい。

3匹の犬が次々に行方不明になり、そのうち2匹が殺されるが、人間は一人も殺されない。もちろん子どもの誘拐殺人事件と同じだと思う人もいるのかもしれないが、映画のモチーフとしてはやはりパッとしないと言いたくなる。

しかし、このパッとしない物語をある程度詳細に追っていかないと、この映画の面白さとユニークさは説明できそうにない。…要約する能力がないとも言えるが。

第一の飼い犬失踪事件

コ・ユンジュ(イ・ソンジェ)は大学の万年非常勤講師で、出産間近の妻と二人でこの団地に住んでいる。教授になることを目ざしているが、世渡りの下手な彼はずっと人の後塵を拝してきた。つい最近も他の研究者に先を越されたばかりだった。それに、教授になるには学長に1,500万ウォン(140万円くらい)のワイロを贈らなければならないという話も聞こえてきた。生活は妻の収入が頼りで、彼にはそんな大金は用意できない。もちろん不正に対する罪悪感もあった。そんなわけで精神的にかなり追い詰められていた。

家にいると犬の鳴き声が聞こえてくる。ペットの飼育は禁止されているが、中流階級が住むその団地では、ルールを無視して飼っている家が少なくないのである。イライラが募っていく。

ある日、共用廊下にいる犬を見かけた彼は、捕まえて屋上に駆け上がる。投げ落として殺そうと思ったのだ。だが、ためらっているうちに人が上がってきてタイミングを逸してしまう。次に向かったのは地下室だった。そこにはボイラー室があって、空いたスペースの一部は警備員が物置(サボり場?)として使っていた。一般の住人はめったに出入りしないはずだった。しかし、そこでも人の気配がして断念せざるをえなかった。とっさに彼は目についたロッカーに犬を閉じ込め、その場を立ち去った。

これが物語の発端となる第一の飼い犬失踪事件だった。飼い主にとっては愛犬の突然の失踪だが、実際は連れ去り(窃盗)であり、はじめから殺害するために捕獲されたのである。とは言え、この段階ではユンジュは犬を連れ去っただけで、殺してはいない。だが、事件はここからヘンな方向に展開していく。団地の警備員(ピョン・ヒボン)がこの犬を殺し、こっそり犬鍋にして食べてしまったのだ。

ついでに言っておくと、この地下室には『パラサイト 半地下の家族』と同じようにホームレスが住みついていた。警備員にも気づかれていなかったようだが、この男がのちに起こる事件に絡んでくる。

しかし、この映画の主人公はこれらの人々ではなく、団地の管理事務所で経理の仕事をしているパク・ヒョンナム(ペ・ドゥナ)という若い女性である。どうやらアルバイトか何かの非正規雇用らしく、事務所の中では一人だけ若く、カジュアルな格好をしている。

仕事はかなりヒマなようで、事務所での彼女はいつも退屈そうだった。団地内の売店に勤めるユン・チャンミ(コ・スヒ)と仲が良く、勤務時間中でも電話でダベったりしている。

ユンジュが地下室のロッカーに閉じ込めた犬の飼い主が管理事務所にやってきた。小学1年生の女の子だった。「この犬を探しています」と書いたはり紙の許可をもらいに来たのだ。心配で食べ物も喉を通らず夜も眠れないから、学校を休んで来たのだという。

気のいいヒョンナムは、はり紙は自分が貼っておいてあげると言って少女を学校へ送り出す。

第二の飼い犬失踪事件

犬の鳴き声はやまなかった。
鳴いていたのはユンジュがさらった犬ではなかったのである。あの犬はほえないように声帯手術を受けていた。彼はそれを迷い犬のはり紙で知る。そういえば、ロッカーに閉じ込めるまで、その犬は一度も鳴き声を上げなかった。あわてて地下室に向かうが、そのときにはもう犬は殺されていて、犬鍋の準備が始まっていた。

良心の呵責はあったようだが、それでも鳴き声は気になる。次は実際に鳴いているところを目撃した犬を狙った。そして、今度こそ屋上から投げ落として殺す。

それをたまたま目撃していたのが、隣の棟の屋上でチャンミとサボっていたヒョンナムだった。すぐに犯行のあった棟に走り、犯人(=ユンジュ)を追いかける。正義感が強いのだ。だが、あと一歩のところで邪魔が入り、取り逃がしてしまう。結局、彼女は犯人の顔を見ることができなかった。後ろ姿は目に焼き付くほど見ていたのだけれど。

ユンジュが投げ捨てた犬はもちろん死んだ。飼い主の老婆はその死骸を見て心臓発作を起こし、後日、あとを追うようにして死ぬ。この映画の中で命を落とす人間は彼女だけだ。

ヒョンナムから犬の死骸の後始末を頼まれた警備員は、もちろんまた犬鍋を作る。——ただし、目を離した隙に例のホームレスが平らげてしまうのだが。

第三の飼い犬失踪事件

三匹目の失踪犬は、なんとユンジュの妻の犬だった。

出産の近い彼女は会社をクビになっていた。もらった退職金の大半はユンジュの任官のため——つまり学長へのワイロ——に使うと決めていたが、わずかに残るお金で、自分のために犬を買ってきたのである。だが、その頃二人の関係はうまくいっていなかったから、夫には事情を話していなかった。彼が知ったのは犬が行方不明になったあとだった。

彼は必死になって犬を探す。小学1年生の女の子と同じようにはり紙を作り、団地中に貼って回った。ヒョンナムはこのときもまた協力を惜しまない。だが、自分があと一歩のところまで追い詰めた犬殺しの犯人がユンジュであることには気づかない。

ユンジュの妻の犬を連れ去ったのは、地下室に暮らすホームレスだった。屋上で火を焚き、丸焼きにしようとしていた。

そこに、またしてもたまたまヒョンナムが現れる。

漫画のような奪還劇。犬を助け出したヒョンナムは団地の中を逃げ回り、最後は駆けつけたチャンミが見事なプロレス技を披露して、ホームレスをノックアウトした。男は警察に連行される。

ヒョンナムはユンジュの部屋を訪れ、助け出した犬を差し出す。顔には満面の笑み。ユンジュも相好を崩して受け取る。めでたしめでたしの大団円。

「いや、違うだろ」と言いたくなるが、ヒョンナムはユンジュの犯行に気づいていないのだから、こうならざるをえない。ヒョンナムにとって彼は可哀想な被害者でしかないのである。そして、すべてを知ったうえで観ている観客も、ペ・ドゥナの弾けるような笑顔を——しかもスローモーションで——見せられると、これはこれでいいか、と思えてくる。(個人の見解です。)

ユンジュの鬱屈

犬の失踪事件とは別線で、ユンジュの夫婦生活や任官活動の様子も描かれている。家庭内では妻の尻に敷かれ、大学OBの集まりなどでは引っ込み思案でおとなしい。「フランダースの犬」の主題歌をカラオケで歌ったのは、先輩に誘われて出席した飲み会の二次会でのことだった。

やがてチャンスが訪れる。しかし学長に渡す1,500万ウォンが調達できない。すったもんだの末に妻の退職金でようやく賄うことができたのは、すでに書いたとおりだ。手土産のデコレーションケーキの底に札束を隠し入れてくれたのも妻だった。

ワイロを渡し、苦手な酒の席もなんとか無事にこなす。だが、心に鬱屈したものがあることも見てとれた。もともとワイロを贈ることにも強い抵抗を感じていたのだ。

実は登場人物の中でユンジュだけが内省的な人間として描かれている。最初にさらった犬が声帯手術を受けていたと知ったときは大いに動揺したし、自分が殺した犬の飼い主が死んだと聞いたときも心を痛めた。

犯した罪を悔い、償いたいという気持ちを人並みに持っていたのである。だから、自分の犯行の目撃者であり、顔は見ていなくても後ろ姿を見たヒョンナムに、自分が犯人であると何度もほのめかしている。しまいにはヒョンナムの目の前で駆けだして、わざわざ後ろ姿を見せつけて思い出させようとまでする。

なのに、おつむの鈍いヒョンナムはぜんぜん気づかない。肝心の正義の味方がバカなのだ。

結局のところ彼は、自分が犯した罪を明確に告白することまではしない。心を痛めつつも、最後は長いものに巻かれるのである。

《小悪党》と《おつむの弱い人間》

はじめに述べたように、この映画に出てくる犯罪はどれも大罪とは言えず、社会規範を揺るがすほどの大きなインパクトは持たない。日常生活の範囲内で、あるいはせいぜい日常と地続きのところで普通に起こっていそうな小さな悪事ばかりなのだ。この設定がなんとも絶妙だなあと思う。これが殺人とか大金の絡む不正だったら話は違ってくるはずだ。

登場する《小悪党》と《おつむの弱い人間》をおさらいしてみる。

小悪党

  • ユンジュ
    失踪した3匹の犬のうち2匹は彼によってさらわれた。鬱々とした日々を送っていたとはいえ、いずれも殺すつもりで連れ去り、1匹は実際に殺害しているのだから、その罪は軽くない。さらに彼は教授職を得るため学長にワイロを贈っている。昔ながらのルールだったとしても、彼が不正に手を染めたことに変わりはない。
  • 警備員
    最初の犬を殺したのは警備員だった。2匹目は死んだ犬を持ち去っただけだが、余罪は他にもありそうだ。おそらく彼は罪の意識などまったく感じないまま、ただ自分の食欲を満たしているだけだろう。気のいいおじさんで、憎めない笑顔の持ち主だが、彼が絡んだことで事件は途端にグロテスクなものになってしまった。ただし、犬鍋のことを知っているのは、地下室に足を踏み入れたことのある者だけだ。彼とユンジュとホームレスの三人である。
  • 学長
    収賄の常習犯。この人も慣習に従っているだけだろうから、おそらく罪の意識はない。でも、罪の重さで言えばこの人が一番重いのではなかろうか。
  • 第一の失踪犬の飼い主の少女
    失踪した愛犬を探すいたいけな少女として登場するが、実はそうとばかりも言えないことが後で分かる。夜も眠れないとしおらしいことを言っていたのに、すぐに新しい犬を入手していた。しかもその犬を乱暴に扱っているところをヒョンナムが目撃する。この子も無自覚のうちに虐待という罪を犯していた可能性がある。新しい犬もじきに飽きてしまうのではないかという不安がよぎった。

おつむの弱い人間

  • ヒョンナム
    基本的に正義の人だが、それを相殺してしまうほどのおバカでもある。ユンジュが犬殺しの犯人であることに気づかない。彼女がもう少し目先の利く人間だったらと思わないではないが、それだとこの物語は成り立たないのかもしれない。
  • チャンミ
    ヒョンナムほどバカじゃないと思えるが、五十歩百歩なのだろう。学歴もなく、見た目も行動も粗野だから、このまま底辺に近い暮らしを続けていくに違いない。
  • ホームレス
    3匹目の犬(ユンジュの妻の犬)を連れ去ったのはこの男だ。でも、計画的にさらったわけではなく、偶然目の前に現れた犬を拾い上げただけだろう。たぶん盗み食いした犬鍋に味をしめたのだ。屋上で丸焼きにする寸前だったが、これは未遂に終わっている。つまり彼はユンジュや警備員に比べれば取るに足らない罪しか犯していない。まあ地下室に住みついたことは不法侵入に当たるだろうが、それにしたって誰かの居住空間を侵害したわけではない。ちなみにこのホームレスの男は明らかに知的障害者で、善悪を判断できるような知能を持っていなかった。ポン・ジュノ監督はその後の作品でも知的障害者をしばしば登場させ、中には物語の鍵を握る重要な役割を与えているものもある。ただこの作品ではそこまで大きな意味があるとは思えないが。

この映画の登場人物の中で唯一法の裁きを受けるのがこのホームレスの男である。なんともアイロニカルな話だ。

しつこいかもしれないが、彼は団地の地下のボイラー室をねぐらにし、警備員が作った犬鍋を盗み食いしただけだ。ユンジュの妻の犬は無事助け出されたのだから、彼から実質的な被害を受けたのは犬鍋を食べ損ねた警備員だけだったということである。

でもこれにもオチがあって、おつむの弱い彼は、刑務所に入れば毎食ご馳走が食べられると信じ込んでいて、逮捕されてもウキウキなのだ。寝床にも困らないわけだから、もしかしたらこれまでよりも幸福な日々が待っているのかもしれない。少なくとも一日三食しっかりと食べられるのはたしかだし。

その他の登場人物

二種類の人間しか出てこないと言っておいてナンだけど、二つの分類に当てはめづらい人物もいる。

ユンジュの妻は、映画の中では終始イライラしていたけれど実は一番まともな人間なのではないかという気がした。おそらく韓国社会の中でもっとも閉塞感を感じているのが彼女たちなのだろう。

もちろんこれからは「教授夫人」としての明るい未来が待っているのかもしれない。子どもも生まれるし。しかし忘れてはならないのは、彼女はもともと自立できるだけの能力を持っているということだ。ヒモのような状態の夫を養いながらあの団地での暮らしを維持してきたのだから、それなりの稼ぎがあったはずだ。フルタイムで働いて疲れた身体で家に帰ると夫はゴロゴロしているわけだから、そりゃ苛立ちもするだろう。しかも彼女は妊娠を理由に会社をリストラされてしまう。退職金がユンジュの任官活動にちょうど役立ったわけだが、彼女がそれを手放しで喜んでいるとは思えなかった。大切な自己実現の場を失ってしまったのである。ユンジュ教授がもたらしてくれる経済的な安定がそれを補ってくれるだろうか。そんな単純な話ではないように思えた。

もう一人、印象に残る人物がいる。電車の中で赤ん坊をおぶって物乞いをする婦人だ。察しの悪いヒョンナムが席を譲ろうとすると、大変な剣幕で振り払い、隣の車両に移っていく。そのときはなんのことかよく分からなかったが、終盤の、ユンジュが学長にワイロを届けにいくシーンで謎が解けた。

彼女は電車の中を端から端まで歩いて自分の窮状を訴えるビラを配り、Uターンしてまた端から端まで歩き、ビラを回収しながら金銭を恵んでもらっていたのである。だから、座ってしまったら商売にならない。

ヒョンナムはここでも正義感を発揮したのだが、相手にとっては余計なお世話だったというわけだ。彼女の鈍さを象徴する場面でもあった。一方のユンジュは、妻が用意してデコレーションケーキの下に隠し入れてくれた1,500万ウォンの中から紙幣を抜き出して、婦人に渡す。これも彼を象徴するようなシーンだった。自分がこれからしようとしていることに、やはり後ろめたさを感じていたのだろう。と同時に、バカバカしさも感じていたのかもしれない。自分の財布ではなく、ワイロの中から抜き出すところが笑えた。

ユンジュの妻の苛立ちも物乞いの女も、物語には直接関係がない。妻がいくら優しくてもユンジュの焦りは募っただろうし、物乞いにわずかの施しをしたくらいでワイロを贈ることの罪悪感が薄れるはずもない。

それでもこの二人が登場することで、物語の厚みが増しているように思う。ヒョンナムやチャンミ、そしてホームレスの男はキャラが立ちすぎていて、女性の社会的地位の問題や貧困問題にまで思いが至らない。でもユンジュの妻を見れば、ヒョンナムやチャンミが典型的なワーキングプアであることに気づかされる。また物乞いの女は、ホームレスの男以外にも社会の最底辺でさまよう人々がいることを教えてくれる。

見えないものは無いもの

ラストシーン1 ユンジュ

ラストシーンは、一連の事件からしばらく経ってからのユンジュとヒョンナムの様子である。まずユンジュ。大学の教室で学生を前にして彼が立っている。授業が始まろうとしているのだ。無事教授に就任したことが分かる。しかし表情は暗くて疲れているようだ。幸福そうには見えない。夢がかなったのに、晴れやかな気分にはなれないのだと察せられる。

とはいえ、犬殺しの件も学長へのワイロもあのまま発覚せず、彼が無事に生き延びたことは明らかだった。彼が無事なのだから、警備員も学長も無事だろう。

つまり、罪を犯した者は罰せられず、たいした罪を犯していないホームレスの男だけが裁かれて一連の事件は決着したのだ。観ている者は、真の悪人に対して何らかの裁きがあるだろうと予想していたはずだが、そうではないことをここで知る。正義は成し遂げられなかったのだ。悪が懲らしめられないという不条理。欠落感というか、もやもやとした違和感、薄気味悪さが残る。

しかし、それだけではない。ダメを押すようにもっと強烈な不条理が用意されている。

ラストシーン2 ヒョンナム

場面が切り替わる。次はヒョンナムとチャンミが仲良く森を散策しているシーンだ。陽光を浴びた木々の緑が美しい。その下を歩いていく二人の表情はなごやかで、屈託がない。まさに勧善懲悪劇のハッピーエンドという感じなのだ。このもやもやする不条理劇を「予定調和」風に終わらせてしまうのである。エンドロールが始まる。

正義に反した決着のつけ方に、主人公が何の疑問も抱かず、不満も感じていないことをこのラストシーンは教えてくれる。悪を野放しにするという不条理を、それまで(おつむは弱いけれど)正義の味方だと思っていたヒロインが肯定しているわけである。

不条理と不条理をかけ算するようなもので、薄気味悪さが一気に膨らみ、ある種の恐怖に変わる。

この感触は今まで味わったことのないものだった。これがこの映画を特別な、忘れられないものにしている。(少なくとも僕にとっては。)

ところで、ヒョンナムはなぜ不正義に納得してしまうのだろう。…少し考えてみたい。

全能の神の目

ヒョンナムは、おバカだけれど、思いやりがあって正義感の強い、とてもキュートな女の子である。親近感を抱かせるキャラクターが画面の中で右往左往する姿は愛らしく、物語が進むにつれて観客は彼女との距離をどんどん縮めていく。

しかし別の観点から見ると、観客と彼女との間の距離は広がる一方だった。
前にも書いたように、この映画はすべての事件の全容を教えてくれる。たいていの映画と同じように、観客は全能の神の目を与えられるのだ。だから、裁かれるべき悪人が誰であるかを観客は知っている。知っているから、悪人が放置されることにショックを覚えるのである。

それに対してヒョンナムは、三つの失踪事件にそれなりに関わりながらも、分かっているのは第三の犬を自分が無事に救い出したということだけだ。犬鍋のことは警備員とホームレスとユンジュしか知らない。第二の犬を殺したのはユンジュだが、ヒョンナムはあと一歩のところでその顔を見ることができなかった。ワイロのことはもちろん彼女には知る由もない。

このように、この映画では、神の目を与えられるのは観客だけで、主人公には最後まで与えられない。彼女は真実を知る機会をことごとく奪われているのだ。観客は正しい答えを見つけられるが、彼女にはそれができない。間違っていることにさえ気づかない。要するにヒョンナムには、第三の事件が解決したことを喜ぶ以外にできることはないのである。

おそらくこの点が他の映画と大きく違うのではなかろうか。
ふつうならエンドロールが流れるとき、観客と主人公は同じ景色を眺めている。どちらも神の目ですべてを見渡し、全体を把握しているのである。だから、誰が裁かれるべきかは、観客と主人公とで認識が一致している。これは一般的な勧善懲悪劇でも、バッドエンドのアンチ勧善懲悪劇でも同じだと思う。ところがこの映画では、最後まで観客と主人公の認識は一致しない。観客は山の頂きから全方位を見渡しているのに、主人公は麓にとどまったままで、視界に入るのは目の前の限られた景色だけだ。

そしてそのままの状態で映画は幕を閉じるのである。
主人公は、映画の中で起こったことの何分の一かしか知らない。

だからのんきにピクニックを楽しむことができるのだ。ヒョンナムとチャンミの満足げな表情を見て、観客は自分の心象とのギャップに驚いてしまう。「え、それでいいの?」と。道徳的に許せないものを見せられたうえに、信じていた親友に裏切られるようなものだ。不条理と不条理がかけ合わされて薄気味悪さが恐怖に変わると言ったのは、このことである。

まあ、これは一つのトリックだろう。神の目を利用したトリック。

観客には神の目を与えて全体を見せておきながら、主人公にはそれを最後まで与えないことが一つ目のトリック。「(人間の目しか持たない)主人公にはこう見えている」とさりげなく教えて、そこで物語を完結させてしまうことが二つ目のトリック。おそらく二重の文法破りをしてみせた。

その結果、得られると思っていたカタルシスは得られず、それどころか落とし穴に落とされたような気分になる。

しかし、考えてみれば現実世界では誰もがヒョンナムと同じ立場にある。全能の神の目ですべてを把握できる人間など誰一人いない。見えないものは無いものとイコールであり、少なくとも誰かが教えてくれなければ知ることはできない。隠匿されれば、それまでである。明らかになっていることだけで物事を認識し、それが真実だと仮定して判断をくだしていく。だから間違いを犯すのだし、間違っても平気でいられる。

補助輪をはずされた

観客は心のどこかでヒョンナムを見下していたはずだ。愛すべき存在だけどおバカだよな、と。でもそれは、補助輪をつけて自転車に乗っている人間が、補助輪なしで転んだ人間を見て笑っているようなものだ。自分は補助輪をつけているから転ばないだけなのに、そのことは忘れている。映画の魅力というのは、気づかぬうちに観客に補助輪を履かせて、神にしか見えないはずのものを見せてくれるところにあるのだろう。

ところが、この映画はその魅力を自ら引きはがしてしまう。映画が与えてくれる心地良さのカラクリを一本の映画を通じて暴露しているのである。

おバカなヒョンナムこそ自分なのだという身もフタもない事実をバラしてしまう。
補助輪がなければこうなるし、現実はいつもこのように成り立っているのだよと。

考えすぎなのかもしれないけれど、なんか凄いものを見せられたという気がする。

この世は無法地帯か

最後にもう一度この映画の登場人物に目を向けてみたい。

《おつむの弱い人間》と《小悪党》。前者はもちろん現実世界に住む我々のことだ。ヒョンナムを見れば分かるように、いくら善良であっても、目の前のものしか見ていないからすぐに間違いを犯す。後者は、極悪人とは言えないまでもだらしなく罪を犯しつづける人たちである。罪の意識さえないから余計にタチが悪い。しかも意外とバレずに生き延びる。困ったものだが、自分は違うと言い切れるかというと、「あれ、どうかな」と思ってしまう。

要するに、ヒョンナムだけでなくユンジュや警備員も自分なのかもしれない。

そういう意味で人物設定も実に絶妙だと思う。
犬さらいというショボい話にこういうしょーもない人たちを投げ込んで、さんざんドタバタで笑わせた挙げ句に、映画という文化装置の舞台裏をパッとめくって見せ、そのまま破壊してしまう。それを見て、自分は神ではなく人間だったんだと思い知らされる。

これが自分かと悟るには、あのしょーもなさがちょうどいい。悪人が小粒なのも、我が身をふり返るには好都合。よくできているなあと感心する。

この映画を観たあと、こんなショボい映画がなんでこんなに心に残るんだろうと不思議だったんだけれど、考えれば考えるほどよく出来ているし、凄い映画だ。ショボいけど凄い。

で、そのうえで思うのは、この世はこんなにも無法地帯だったのか、ということだ。
小悪党だらけで、おバカだらけ。表に出る悪はわずかだけ。

いや、まあ、フィクションなのは分かっているんですけど。

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