戦争のこと

小林正樹『東京裁判』(4Kデジタルリマスター版)

日本人なら、東京裁判のことをちゃんと知っとくべきだよね

監督:小林正樹
ナレーション:佐藤慶
製作:1983年
デジタル・リマスター:2018年

ドキュメンタリー 277分

 

 

硬くて長いけれど面白い

題名を見ればガチガチに硬い内容であることは一目瞭然だし、そのうえ上映時間が4時間半以上!さすがにハードルが高くて、迷いに迷い、上映最終日になってようやく観に行く決心がついた。しかし、なんのことはない、硬くて長いけれど面白い映画だった。時間なんか気にならなかった。

戦争については関心があるし、それなりに本を読んだりもしてきたつもりだけれど、改めて自分の無知を思い知った。断片的な知識が多少あっても、それぞれがバラバラの断片のままだと役には立たない。たとえば東京裁判の正式名称が極東国際軍事裁判であることとか、東條英機ら7人が絞首刑になったこととか、公判中に大川周明が東條の頭をポンと叩いたシーンとか、勝者が敗者を裁くのは不当だとか、だからパル判事が被告全員の無罪を主張したとか、右翼は「東京裁判史観」と言って全否定してるとか…断片的な知識はいくらでもあったが、東京裁判を全体として理解し、イメージすることができていなかった。

でも、考えてみたら、国際社会ではこの裁判の判決が公式の記録として歴史に刻まれ、日本もそれを受諾し、それを前提として戦後復興を成し遂げてきたのだ。これじゃイカンよなと思う。というか、日本人が思っているより、この裁判は国際社会において重い意味を持っているよな、きっと、と思った。

よく言われるように、東京裁判はけっして公正な裁判だったとは言えないし、事実がねじ曲げられてしまった部分もあった。でも、そこばかりを見ていると、まるで日本は被害者だったかのように思えてくるけれど、そもそも日本は加害者としてあの法廷に立たされたのだということを忘れてはいけない。瑕疵があったのは、裁判の持ち方とか、適用された法とか、被告の選び方とか、そういう法的な手続きの部分であり、たとえああいう裁き方をするべきではなかったとしても、日本が加害者であった事実が消えるわけではないのだ。日本人は、そこのところを都合よく忘れてしまいがちだけど、世界はきっと忘れていない。

また、日本人は、東京裁判にしろ先の戦争にしろ、日本史の問題というか、国内問題のような感覚で考えてしまいがちだけれど、戦争は他国を相手にするものだから、相手国は相手国の立場でその戦争を経験している。その相手国の立場から見た戦争の現実を、言葉はヘンだけれど、寄ってたかって突きつけられたのが東京裁判だったのだと思う。あれは裁判ではなく報復だという意見を否定することはできないけれど、仮にその指摘が正しくて、あの裁判が公正になされていたとしたら、別の形の報復を受けていたかもしれない。それくらい日本は世界から憎悪を買ったのだ。この映画を観て改めてそう思った。

この映画は、東京裁判というものをじっくりと体験させてくれる。裁判の場面はすべて米軍が撮影した実写フィルムで、どこが不公正なのかは、映像の中の当事者たちが教えてくれる。何(誰)が裁かれ、何(誰)が裁かれなかったのか、そしてそれは何故なのかも、見ているうちに分かってくる。公判の模様だけでなく、戦前から敗戦にかけて日本が何を行ってきたのかも当時の映像や資料を使って要領よく見せてくれるから、国際社会が日本の何を断罪したかったのかもよく分かる。

277分の拘束時間と2,500円の特別料金は、こう考えると破格とも言えるコスパの高さだ。元は十分に取れる。日本人なら観ておいてけっして損のない映画だと思う。

公正な裁判ではなかった

そもそもこの法廷は有効なのかという問い

この映画の多くの部分が公判シーンで占められていることは言うまでもないが、その中でもっとも印象に残ったのは、裁判冒頭の場面だった。いきなり弁護士たちが法廷そのものの正当性に疑問を投げかけたのだ。東京裁判に被告たちを裁く資格があるのかと理詰めで問いただしていく。正面から権力に立ち向かうその姿が実にカッコ良くて、実写なのだと思うと一層胸に迫るものがあった。そして彼等の主張は、この法廷の本質的な不公正さを見事に言い当てていた。

東条英機の弁護人である清瀬一郎は、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」はポツダム宣言後に生まれたものであり、これを被告たちに問うのは罪刑法定主義と法律不遡及の原則に反するとして異議を申し立てた。誰もが知る刑法の基本だろう。これが軽んじられると強者は何でもできるし、永遠に強者でいられる。

重光葵の弁護人でアメリカ人のジョージ・A・ファーナスは、「公平な裁判を行うならば、戦争に関係ない中立国の代表によって行われるべきである。勝者による敗者の裁判は決して公平ではない」と訴えた。法というより常識の問題で、正論中の正論だ。誰もこれを論理的に否定することはできないと思う。

さらに、梅津美治郎の弁護人で同じくアメリカ人のベン・ブルース・ブレイクニーは、これまで戦争が非合法とされたことはないと論じた。そして、国家の行為としてなされた戦争の責任を個人に問うのも筋違いだと。「キット提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるなら、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることができる」と述べ、「原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる。その人たちが裁いている」と畳みかけた。

繰り返しになるけれど、ファーナスとブレイクニーはアメリカ人である。たしか日本人だけでは弁護人が揃わず、急遽アメリカから呼び寄せられたと言っていたはずだ。そのアメリカ人弁護士が原爆まで引き合いに出して、なぜ日本人だけが裁かれ、もっと残虐な殺戮を行ったアメリカ人は裁かれないのかと問い詰めたのだ。

しかし、オーストラリア人のウィリアム・ウェッブ裁判長は、これらの追求にまともに答えることなく審議に入っていく。その様子もこの映画は淡々と映し出していく。

ちなみに、ブレイクニー弁護士の発言は裁判の速記録から削除されていたという。闇に葬られていたのだ。この映画によって初めて歴史の表舞台に引き出され、スポットライトを浴びたのである。

米国(GHQ)の思惑が裁判を支配していた

東京裁判はこのように致命的な瑕疵をいくつも孕んでいたが、それらはすでに始まっていたニュルンベルク裁判とも共通する問題だったはずで、下手に認めるわけにはいかなかったのかもしれない。しかし、東京裁判には、ニュルンベルクにはおそらくなかった別の種類の重大な問題もあった。アメリカによる支配である。表にはそれほど現れてこないが、結局のところこの裁判は、アメリカの意向に沿って進められ、アメリカが望む結論を得た裁判だった。

たとえば昭和天皇は起訴されることさえなかったが、これもマッカーサーの強い希望がなければ、どうなっていたか分からない。アメリカ国内にも賛否があったし、連合国の足並みも揃っていたわけではないからだ。マッカーサーが不起訴に拘った理由にはいろいろな見方があるだろうが、天皇を裁くことでもし政情が不安になると、GHQの負担が増える、つまり占領コストが上がるという計算があったことは間違いない。天皇が無実だと考えたというより、米国のコストを優先した現実策だったと考えるほうが自然だろう。それをアメリカ政府が受け入れ、他国にも同調するように求めた。違うかな。

また、東京裁判には第二次、第三次の訴追も想定されていたが、それが実現しなかったのは、アメリカの占領政策の転換が影響したと考えられる。当初は「民主化」と「改革」が政策の中心にあったのに対し、東西冷戦の構図が明らかになってくると、日本の「経済復興」を最優先するようになったのだ。西側陣営の一員として、東西対決の一翼を早く担わせようと考えたのである。こうしてアメリカは戦犯を処罰することに興味を失い、むしろ彼等を積極的に利用することを考え始めたのだ。

陸軍を中心とする一部の指導者に全責任を負わせ、その他の権力者や国民を「被害者」と位置づけたのも、アメリカの意向だったのだろうと思う。そう考えると、法的な正当性を云々する前に、始めから終わりまでアメリカの国益が最優先された裁判だったのだと言いたくなる。

東京裁判とは、GHQが占領(=戦後処理)を低コストでスムーズに進めるための道具に過ぎなかったとさえ言えるのかもしれない。

昭和天皇の免責

昭和天皇を訴追しないことについては、実は裁判が終わるまで攻防があった。

裁判長のウィリアム・ウェッブが、内心強く訴追を求めていたのだ。
彼はオーストラリアから派遣された裁判官で、オーストラリアは早くから国として天皇の断罪を要求していた。当時はまだ白豪主義の国だったから人種差別の要素もあったと言われているが、日本軍から本土空襲を受け、激しく戦火を交えた国の一つであり、反日感情が高まるのも無理はない。

もちろん起訴するのは検事だから、裁判官は口出しできない。しかし、公判の過程で、検事が追加訴追せざるを得ない状況を作ることはできる。そして、そのチャンスが来た。東条英機が、日米開戦の決定に関する質疑の中で「日本臣民は、陛下のご意志に反してかれこれすることはありません」と述べたのだ。東條は感覚的にそう言っただけだろうが、開戦が天皇の意志で決まったと取ることもできる微妙な証言だった。それが事実ならば、天皇の責任を問わないわけにはいかない。

ところが、いち早く首席検察官のキーナンが裏で動き、東條にこの発言を訂正させてしまう。東條をはじめ被告人はすべて天皇に累が及ばないことを望んでいたから、工作は簡単に成功した。完全に茶番である。首席検察官が被告を教唆し、これと共謀したのだから。もちろんキーナンはアメリカ本国とGHQの意向に従順に従っただけだ。

また、ウェッブの他にも、天皇を免責することに抵抗を感じていた裁判官がいたようだ。
11人中4人の裁判官が、すべての死刑判決に反対したという。被告全員の無罪を主張したインドのパル判事のことはよく知られているが、その他にもオーストラリア(ウェッブ裁判長)、ソ連、フランスの裁判官が反対した。オーストラリアとソ連は国内法が死刑を認めていないことが表向きの理由らしいが、この二人と仏の裁判官は天皇が訴追されないことに批判的だったと言われている。最高責任者が罪を問われないのに、その部下が極刑に処せられるのは不条理だと考えていた可能性もあるだろう。他の裁判官がこの点をどう考えたのかは分からないが、はっきり言えることは、みんながみんな天皇の免訴免責を妥当だと考えていたわけではないということだ。

結果的に天皇は起訴されなかっただけでなく、証言に立つことさえなかった。しかし、完全な出来レースだったわけでもなく、一つ間違えば被告人席に座っていてもおかしくなかった。最高司令官がマッカーサーでなかったら、どうなっていたか分からない。結局、アメリカの意思と影響力のお陰で逃げ切ることができたのだ。

このことを日本人は知っておくべきだと思う。

11もの国から裁判官が派遣されたということ

東京裁判には11カ国もの国から裁判官が派遣された。日本の降伏文書に署名した米、英、ソ、中、仏、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダの9カ国にインドとフィリピンを加えた11カ国から各1名。これらの国はいずれも敵国として日本と戦ったか、日本の侵略を受けた国である。今さらながらその数の多さに驚かされる。欧米とアジアにまたがるこれだけ多くの国の代表が日本の悪行を詳らかにし、犯罪であると認定し、断罪したのだ。

しかも、ここには戦前に日本が併合した韓国や台湾は入っていないし、東南アジアの国々もフィリピンしか入っていない。国外の民間人だけでも2,000万人以上が死亡したと言われているのに。

裁判を終えてそれぞれの国へ帰って行った11人の裁判官のことを思うと、一つの疑問が湧いてきた。あの頃も今も、日本人がしたことに対して一番無知なのは日本人なのではないか。少なくともあの11人は、日本人の誰よりも日本が行ったことの詳細を知っていたはずだ。自国だけでなく、他の国に対して行われたことにもすべて目を通し、その犯罪性を検討したのだから。戦後の世界には、そんな人たちの暮らす国が11カ国もあったのだなあと思った。そして厳粛な気持ちになった。

東京裁判は日本を不当に許すものでもあった

東京裁判では証拠の採用にも不公平があったと言われている。検察側の証拠は伝聞のようなものでも採用され、弁護側のものは確度の高いものでも却下されたというのだ。それもあって、日本軍の残虐行為など無かったと主張する向きもある。そこから「東京裁判史観」という侮蔑語が生まれ、「自虐史観」だとして全否定する。

そういう人たちがよく引き合いに出すのが、すべての被告の無罪を主張したパル判事のことだが、彼は被告たちの「無実」を主張したわけではない。映画にも出てくるが、彼が1,000ページを超える意見書を提出して訴えたのは、この裁判が法的に間違っているということであり、間違った法理に基づいた起訴は無効だという意味で被告たちを「無罪」としたにすぎない。残虐行為が無かったなどとは一言も言っていないのだ。「被告たちや日本国の行動を正当化する必要はない」と言っていることからもそれは明らかだ。法の原則に忠実であろうとしただけなのだ。

実際、東京裁判は恣意的で杜撰で不公正な裁判だった。その結果、裁かれるべきなのに裁かれなかった人や、裁かれる必要はないのに裁かれてしまった人もいた。

だが、ファーナス弁護士が主張したように中立国に判事を任せていたら、すべてが上手くいったのだろうか。事後法と批判されたものは適用されなかっただろうし、被告人も厳正に選ばれただろうが、それはつまり通常の戦争犯罪だけが裁かれるということだ。それは東京裁判より良い結果を生んだだろうか。

また、日本人自身の手であの戦争を総括すべきだったという意見もある。本来はそうあるべきだろうし、僕も心情的にはそう思う。しかし、これはGHQによって厳しく禁止された。戦後、日本人が最初に言い出したのが「一億総懺悔」だったんだから、まあ無理もない。放っておいたら戦争責任のある権力者はすべて生き残り、戦争前の秩序を回復することだけを考え、問題の本質は何も糾明されなかっただろう。「皇国」とか「神国」とか「帝国」という国家観とどう折り合いをつけたか、ちょっと見てみたい気もするが、たぶん「そんな尊い国でありながら戦争に負けたのは国民がバカだったからだ」とでも言うんだろう。そうなったら、国民はそれこそ底なしの「自虐史観」に苛まれていたに違いない。

このように、東京裁判が公正な裁判だったら、あるいは東京裁判がなかったらもっと良い結果になっていたかというと、それは怪しいのではないかと思う。もしかしたら裁判という形式自体が、戦争責任を問うのに適していないのかもしれない。そのうえ日本人は、過去を正しく清算する能力が欠けているみたいだし。

今改めて感じるのは、東京裁判は日本を不当なやり方で裁いたかもしれないが、その一方で日本はこの裁判によって不当に許された面もあったのではないかということだ。「不当に許された」とはヘンな言い回しだが、裁判自体がメチャクチャだったんだから、罰するのも許すのも不当にならざるをえない。早い話、アメリカの都合で免罪された人や事柄がたくさんあったということだ。

アメリカにとって都合が良かったり、アメリカが作ったストーリーから外れていたり、アメリカが杜撰だったために網の目からこぼれた者は、誰も罰せられなかった。そのうえ結審する頃にはアメリカは裁判自体に関心を失ってしまい、予定されていた第二次、第三次の訴追は立ち消えになった。情状酌量でさえなく、すべてはアメリカの気分次第である。

この映画で触れられていたかどうかは覚えていないが、サンフランシスコ講和条約も、アメリカの都合で日本に寛大な内容になった。連合国のほとんどが賠償請求権を放棄したし、戦争責任への言及もなければ、軍備の制限や民主化も求められなかった。(ただし東京裁判の判決を受諾することは明記されていた。)誰もが「ラッキー!」と叫んだのではないかと思うくらいだ。その代わりに日米安全保障条約というとんでもないオマケがついたのだが。

この映画を観ると、アメリカの身勝手さに怒りが湧いてくる。多くのことがアメリカにとって得か損かで決められたことが分かるからだ。だが一方で、その身勝手さのお陰で日本はずいぶん得もした。もっと正確に言えば、日本の悪い奴らが得をした。

個人的には、連合国による戦後処理で日本は良い方向に変わることができたと思うけれど、アメリカの損得勘定に振り回されたために、いろいろな面で中途半端なものに終わった。結局、「大日本帝国」の火種の多くは生き残ってしまったのだろう。まあ、人口7,000万人の国をまったく違う国に造り替えるなんて、そう簡単なはずがない。今のイギリスやフランスよりも人口が多いわけだし、言語も文化も習慣も独特だったのだから。

日本の戦後は、このように多分にいい加減なカオスとして始まったのだと思う。その点もザックリとでいいから理解しておかないと、個別の出来事を見誤ってしまいそうだ。

「自虐史観」と揶揄すること自体が自虐的じゃないですか?

「東京裁判史観」だとか「自虐史観」だとか言う人の本など読んだことがないから、まあ、言いがかりに近いものになるかもしれないけれど、最後に「自虐史観」について。

僕はあの戦争を愚かな行為だと思ってきたし、その中で日本人が犯した数々の残虐行為をでっち上げだと否定する気にはなれず、被害を与えた国の人々に対して申し訳ないという気持ちをずっと抱いてきた。

その筋の方々にすれば、まさに「自虐」的な歴史認識ということになるのだろう。しかし、この映画を観て、東京裁判のダメさ加減をはっきり知ったあとでも、まったくこの認識に変化はなかった。

そもそも日本人はアホで残虐だよなと思うことになんの問題があるんだろう。

アホで残虐だと思っても愛着を持つことはできる。
たとえば自分の親や先祖だって、偉人だったり聖人君子だから敬うのではなくて、ただ自分の親であり、先祖であるというだけで敬意を抱き、大切にしようと思うのではなかろうか。それの何が悪いと言いたくなる。

愛国心だって同じことだ。
べつに優れた国でなくても故国は故国だし、それだけで愛着があるし、離れがたい。それで十分だろう。
同様に他国に生まれた人はその国に対して愛着があって当然だし、それはその国が他の国より優れているとか劣っているとかということとは関係がないはずだ。理由などない。自分の国だから愛着があるのだ。

「自虐史観」と言って揶揄する人たちは「日本スゴイ」と囃し立てる人たちとかなり重なると思うが、日本が優れていなければならないと思う理由が僕には分からない。そんなことより、もしダメなところがあるのなら、それを正確に認識して気をつけるほうがよっぽど建設的だと思うのだけれど。

そして、この映画を観て、こんなことを思った。

「自虐史観」と揶揄するその思考回路自体がずいぶん自虐的だよな、と。東京裁判をはじめとするGHQの占領政策によって日本人がすっかり洗脳されたという考え方は、ごく控えめに言っても被害者意識丸出しだと思う。そして、7,000万人が魔法にかかったように欺されるって、それこそアホな国民だと卑下することにならないだろうか。日本人を優れた民族だと持ち上げるその手前のところで、真逆のことをしているように思えてならない。

子どもの頃に敗戦を迎えた人たちの口から、「大人が信じられなくなった」「常識と思っていたものもいつ変わるか分からない」といった言葉をよく聞く。それくらい衝撃的な変化を目の当たりにしたということだろう。でも、少なくともこういう言葉を口にする人たちは、コロッと洗脳されたりしなかっただろう。昨日までとまったく違うことを言い始めた大人たちに不信感を抱いているのに、その大人たちの言うことを信じる子どもがいるだろうか。正しいと教えられてきたことが目の前で全否定される瞬間に立ち会った子どもが、新たに正しいこととして教えられることを正しいと思うことなどできるだろうか。

つまり、戦後の日本人ほど洗脳されにくい民族はいなかったと考えるほうが合理的だと思う。

簡単に洗脳されたりせず、人間や社会に対して不信感を抱き、反抗的になったり厭世的になったりする程度には日本人はマトモだったのだと僕は思う。そして、コロッと洗脳されるような人たちよりも、こういう少しやさぐれた人たちのほうが、よっぽど尊敬できるし、誇りに思える。

だから言いたい。
妙な自尊心に駆られて日本人をバカにするなよ、と。

(2019/9/12  KBCシネマにて鑑賞)