われおもうに

「プロレタリアート」から降りるという革命

「妙な革命なんだな」

新井紀子氏と佐藤 優氏の対談記事に印象に残るやりとりがあった。

新井氏のことは人工知能「東ロボくん」(東大合格を目ざすAI)で知ったんだが、子どもの読解力の問題など本質を突いた研究をされていて、とても気になる存在だった。最初はSF作家の新井素子氏と微妙に混同していたんだけど。佐藤氏は鈴木宗男事件で有名になった元外務省主任分析官の作家。

僕が読んだのはMSNニュースだが、元記事はPRESIDENT onlineらしい。タイトルは「文章が読めない「新聞読まない人」の末路」。
(MSNニュースはすでに削除されている。)

このままAI時代が本格的に到来すると、AIに薦められたものを無批判に消費するだけの子どもが増えてしまうという話から、佐藤氏がこんなことを言う。

【佐藤】少し別の切り口のところから見ると、私はマルクス経済学をもう1回見直さなければならないと思っています。マルクスの『資本論』研究の第一人者である宇野弘蔵は、資本主義社会は、労働力を商品化させることで、あたかも永続的に繰り返すがごときシステムとなると言います。そのためにも、3つの要素が賃金の中に含まれている必要がある

まず1番目は、食費、被服代、家賃、ちょっとしたレジャーといった、労働するためのエネルギーを蓄えるためのお金。2番目は、次の世代の労働者をつくり出すためにパートナーを見つけたり、家族を養うのに必要なお金。3番目は、技術革新に対応するための自己学習のためのお金。

資本主義を持続的に発展させていくための秘訣はそこにあるわけで、賃金が極端に下がり、この3つの要素を満たせなくなれば、プロレタリアートが成り立たなくなり、資本主義も成り立たなくなります

それに対して新井氏が、社会に出る瞬間に奨学金という借金を負わされる学生たちの窮状を引き合いに出し、こんなやりとりへと進むのだ。

【新井】その状況で、3人子どもを産むなんて絶対に無理なのです。しかも、仕事が非常に不安定な状況で、稼げる見込みもない。では、そうしたお金が稼げないような人たちが今、何を言い始めているのか。結婚することと子どもを持つこと、家や車を持つこと。このコストだけで1億円くらいかかる。これを全部あきらめれば、このコストからフリーになれると言っているのです。それをプロレタリアートに言われたら、もう資本主義は終わるのです。

【佐藤】それはもうプロレタリアートではなくなるということですよね。

【新井】そう。そうすると、もう本当に国民国家は終わるのです。結婚はしません、家は持ちません、車などのレジャー消費はしません。それで、勉強はしません、自由になりますと言われたら、それはもう終わるのですよ(笑)。

(略)

【新井】それがある意味、妙な革命なんだなと思ったのです。

今の日本の若者たちは「プロレアート」という立場から降り始めているのではないか、そしてこれは一つの「革命」と言っていいのではないかという指摘に思わずはっとさせられた。ブラック企業や奨学金(という借金)の問題は毎日のように論じられているが、こういう視点からの発言は見たことがない。

共産党が暴力的に革命を起こす可能性は100%ないと思うが、共産党にも(おそらくほとんどの場合)関心がなく、政権に刃向かうこともなく、それどころか自分にとって極めて厳しい現実を仕方のないものとして受け入れる若者たちの、その諦め自体が、資本主義や国民国家を破壊する「革命」になっているというのだ。思想も主張も扇動も行動もない革命。なんかすごいなと思った。でも、言えてるなあと。

まあ、皮肉な話ではある。資本主義の勝者たちが自分たちの論理を推し進めていたら、結局それは資本主義そのものを食い潰す行為だったということだ。自分たちが一番偉いと思っているんだろうが、資本主義の構成員として圧倒的多数を占めるのは労働者(プロレタリアート)である。商品を日々生産するのは彼らだし、彼らが商品を購入しなければ企業の収益は上がらない。だからプロレタリアートが安心して暮らせて、次の世代を再生産できないと資本主義は立ちゆかなくなる。なのに目先の利益を追う資本家たちは、彼らに払う賃金を「人件費=コスト」としか考えずに削りに削ってきた。

上手い喩えではないかもしれないが、空腹に耐えかねて自分の手足を食べてしまうようなものだろう。手足がなければ、獲物を追うことも畑を耕すこともできなくなる。今の空腹は満たせても、次の空腹に対処する術を自ら奪うことになる。

近代化のスピードと少子化

直接の関係はないけれど、最近読んだ日本(とアジア諸国)の少子化に関する記事にも興味深いものがあった。「シロクマの屑籠 〜はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。〜」というブログに1月7日にアップされた記事。

落合恵美子編『『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』から得た知見らしいが、ゆっくり時間をかけて近代化を成し遂げた欧米諸国では、その間に価値観や結婚観も変化して、婚外子が増えるという形で出生率を保つことができたのに対し、日本はあまりに短期間で近代化を達成したために、そうした変化を生み出す時間がなかったというのだ。(アジア諸国はさらにひどいらしい。)だから少子化に歯止めが利かない。……つまり、古い家族観、結婚観を変えていく以外に打開策はないという話でもある。

ちなみに、(詳しくは触れないが)価値観の変換のために与えられた時間的猶予は、欧米が50年であったのに対し日本は20年、そして東アジアのほとんどの国ではまったく存在しなかったそうだ。

これは結婚、家族、出産といった人間関係を支える社会規範の問題を通して少子化を捉えているんだけれど、その前にお金がないという話だよな。仮に日本がフランス並みに婚外子に寛容な社会になっていたとしたら、それだけで少子化から脱却できていたのか?……無理そうな気がする。

もちろん近代化のスピードと規範の変化という見方には「なるほど!」と思ったし、重要だと思う。でも、おそらく日本は子育てにかかる「自己負担」が大きすぎるのだ。今の収入と将来の収入によほど自信がなければ、子どもを持とうという気になれない国になってしまった。賃金を大幅に上げるか、あるいは子育てにかかる費用を公が肩代わりするか。いずれにしても個人の負担感を減らさなければ、そう簡単に出生率が上がるとは思えない。

つまり、「結婚はべつにしなくてもいい。でも、子どもが欲しいと思ったらいつでも産んで育てられる」社会にならなければ、おそらく話は前に進まないんだろう。

まず言えることは、古い家族観を懐かしんでいる場合じゃないということ。というより、古い家族観がいまだに桎梏となって残っているから、今日の社会に適合した新しい「家族」の出現を阻んでいると考えるべきだろう。新しい「家族」が子育てを担えるはずなのに……。そう考えると、新井・佐藤対談に出てくる資本主義とよく似た構造が見えてくる。既存の制度(価値観)を先頭に立って維持・推進している人々が、その制度の土台を破壊しているのだ。……単純化しすぎ?

しかし、その前にお金。3つの要素を満たす賃金。それが無理なら、それに替わる仕組み。……お金がなくても子どもを産み、育てられる仕組み。なおかつ自分の能力向上のために学べる仕組み。企業が雇用とか賃金で実現するか、政府が制度によって実現するか−−おそらく両面から取り組まないといけないのだろうが、ここを改善できないと、家族も社会も資本主義も国民国家も、そのうち崩壊してしまうのかもしれない。

マルクスが見て心を痛めた労働者たちの暮らしは、その後ずいぶん改善されたのではないかと思う。だから、今ふたたび労働者たちが窮状に陥っているとしても、改善することは可能だと思うんだけどな。甘いか。

まずは類人猿に 〜対談のつづき〜

新井・佐藤両氏の対談の本題から外れてしまったけれど、最後に対談のその後の展開も紹介しておく。AIの話だ。シンギュラリティ(AIが人間を超える)が実際に起こるかどうかは別にして、AIと同じ土俵に立ったら、人間はAIに負ける。

新井氏は「(将来)仕事がマニュアル化されやすいものがAIによって代替されやすく、コミュニケーション能力や理解力を求められる仕事が残りそう」としたうえで、「つまり、読解力こそがAIに代替されない能力なのです。」と言っている。そして、読解力を育むためにどんなことが必要か。

重要なのは、人間として育てる前に類人猿としてきちんと育てることです。それは人間が個体発生ではなく系統発生だから。子どもにAI人材になろうとか、プログラミングをやろうとか言う前に、まず類人猿にすることです。それから人間になっていくことが大事だと考えています。

とてもよく分かる。