お気軽な話

腕時計の文字盤は黒 失敗と錯覚の記憶

保育園に通っていた頃−−−50年以上も前だ−−−の記憶に、園庭でママゴトをしたときのものがある。とても局所的な記憶で、お兄さん役をすることになった僕に、先生が自分の時計を貸してくれたことだけが頭に残っている。うれしくて何度も何度も左前腕を目の前にもってきて腕時計を覗き込む自分。要するにその頃から腕時計に夢中だったのだ。

いつから腕時計が好きになったのかは覚えていない。でも「何となく好き」といった生やさしいものではなかったことだけは確かだらろう。相当猛烈に興味を示していなければ、先生もわざわざそんなことはしないと思う。(腕時計をするとしたら、まずはお父さん役だし。)

僕の腕時計好きが圧力になったのかどうかはわからないが、同じころ父が時計を買い替え、お下がりをもらえることになった。それが僕の人生最初の腕時計となったわけだ。

今となってはどんな時計だったのかまったく思い出せないのだが、文字盤(ダイアル)の色が黒でなかったことだけは間違いない。

なぜなら、僕はもらったばかりのその時計のガラス(風防)を黒マジックで真っ黒に塗りつぶしてしまったのだから。もちろん自分の時計ができたというだけで天にも昇る気持ちだったのだが、僕が本当に欲しかったのは黒の文字盤の時計で、それへの憧れが昂じて頭がどうかしてしまったのだ。

我ながら何とアホだったことかと呆れる。

しかし、子どもなりにかなり逡巡したことも覚えている。さすがに「そんなことで黒い文字盤になるはずないでしょ」という疑問は浮かんでいた。何も見えなくなるだけだと。でも頭のどこかに「どっちでも同じことじゃないか」という思いがかすかにあって、それを追い払うことができなかった。頭の中でシミュレーションを何度もしてみたのだが、願望に歪められて、やがて針もインデックスもくっきりと見えるイメージしか頭に浮かばなくなってきた。そして「きっと大丈夫」という確信が生まれる。…妄想だったわけだが。

いざ決行。

(当時の僕には想定外だったのだが)ガラスの表面はマジックの塗り跡で見る見る醜くなっていった。塗り始めた途端に敗北は確定的だったと言っていい。でも、かすかな希望にすがりついて最後まで塗り続けた。ガラス全体が薄汚いまだらの黒で覆われる。

当然、針もインデックスも見えない。(油性マジックだったから拭いても落ちない。)

あの時点では間違いなく人生最大の失敗だった。取り返しのつかないことをしてしまったと気づき、パニックになったのではないかと思う。だから50年以上たってもこんなにありありと思い出すことができるのだろう。

でも、これについてはさらに不思議な記憶が残っている。

失敗を悟ってからどれくらいの時間がたっていたのかは覚えていない。もしかしたら次の日だったかもしれないが、その時計をもう一度手に取ってみた。すると、針もインデックスもはっきりと見えた…ような気がした。

「なんだ、思ったとおりじゃないか!」と心から安堵した。

しかし、それも一瞬のことだった。当たり前だけど。
もう一度よく見ると、やはり時計の機能を果たさない醜い物体にすぎなかった。再び意気消沈。針やインデックスが見えたと思ったのはもちろん錯覚で、すぐに現実に引き戻された。

記憶はそこまで。

その後のことはまったく思い出せない。マジックの黒インクを落とすことができたのかどうかも、その後その時計を僕が使ったのかどうかさえもまったく。

しかし、わずか5歳か6歳で味わった痛烈な挫折とその後の一瞬の錯覚の記憶は、鮮明に頭に刻み込まれている。

錯覚の記憶。

不思議な気がする。なぜあの一瞬の錯覚のことまで覚えているんだろうか。もちろん錯覚したまま記憶していることなんていくらでもあるだろうから、そういう意味では珍しくも何ともない。でも、あの錯覚はオマケみたいなもので、後日談とさえ言えないものだった。自らの愚かな行為で時計を台無しにするという人生最大の失敗をやらかしたわけだから、それだけで十分すぎるほどのインパクトがある。錯覚はほんの束の間そのダメージを和らげてくれたが、幼心にもすぐに現実に引き戻され、また絶望のどん底に突き落とされた(ちょっと大袈裟)。なのに、そんなぬか喜びのことまでなんで覚えているんだろう。

それだけあの錯覚に救われたということなんだろうか。あの一瞬の回復がなければ心の傷が大きすぎたとか?それとも逆に、あれがダメ押しとなってさらに深い傷が心に残ったとか?

まあ、どちらでもいいけど。
別にトラウマになったというわけでもないから。…ただ不思議に思うだけだ。

腕時計好きは50年以上たった今も変わらない。
若い頃はそれほど意識に上らなかったのに、40歳ぐらいからまたぶり返してきた感じだ。高級時計を買い漁るような余裕はなかったけれど、なんだかんだで手元には20個近くの時計がある。(半分以上は捨てられないだけのオンボロだけど。)残念ながら人生最初の腕時計は含まれていないし、高校入学の時に親が買ってくれた時計も失ってしまった。全部自分で買ったものだ。

二、三の例外を除いて文字盤はどれも黒。三つ子の魂百までというやつだろうか。

おそらくもう新しい時計を買い求めることはない。と言うか、どう考えても買いすぎだし。これからは、まだ動く時計(けっこうある)をできるだけ使い回していこうと思っている。欲しいと思って買っただけあって、どれも腕にはめると今でも「いいな、これ」と素直に思うのだ。

みんな黒の文字盤だけれど、それぞれ違う顔を持っていて、はめた時の印象が違う。だから気分も違う。それを味わうだけで少しだけ幸福を感じる。(単純なヤツだ。)

黒の文字盤の腕時計を好きになったのには、それなりのきっかけがあったはずだ。身近な人だったのかテレビの中の人物だったのか、とにかく誰かがはめていた黒の文字盤の腕時計に目を奪われたのだろうと思う。そして初めての自分の時計を台無しにするほど恋い焦がれた。でも不思議なことにその時計が全然思い出せない。一生思い出せないんじゃないかという確信めいたものさえある。思い出せそうな気がまったくしないのだ。

まあ、それもまた良しと今は思う。

知らず知らずのうちにその時計(理想の時計?)を探し求めてきたのかもしれないが、たとえ再会できたとしても、もはやその時計だと気づくこともできないような気がする。だからもう十分。手元にあるもので十分だ。十分楽しませてもらったし、これからも楽しませてもらえそうだから。