2022年製作のドキュメンタリー映画
製作国:アメリカ、イギリス
監督:スティーヴ・ジェームズ。
登場人物:セオドア(テッド)・ホール、ジョーン・ホール
原題は A Compassionate Spyで「哀れみ深いスパイ」

これは(も?)面白かった。
スパイの話——それも原爆の情報をソ連に渡し、ソ連の原爆開発を数年単位で早めたと言われる人物の話だから、ハナから受け付けられない人もいるだろうが、その動機があまりにもまっとうで、批判する言葉が出てこなかった。
そのスパイの名はセオドア(テッド)・ホール。マンハッタン計画に18歳という最年少で参加した天才物理学者だ。だが、よくあるスパイ映画のようにその手口の巧妙さやサスペンスに感心するタイプの映画ではない。というか、手口なんかまったく描かれない。描かれるのは、彼が何を思ってその行動を起こしたか、そして、それを妻のジョーンがどのように受け止め、その後の長い人生を共に歩んだかだ。だから、スパイものと言うより、見ていて心地いい夫婦ものと言うほうがふさわしいかもしれない。

目次
18歳でマンハッタン計画に参加した天才の不安
この若き天才が公募に申し込んでロスアラモスの門をくぐったのは、原爆開発でドイツに先を越されたら大変なことになるという危機感からだった。
彼の優秀さは研究所でもすぐに認められ、次々と重要な仕事を任されていく。ただ一方で、これは他の多くの研究者も感じていたことだが、大変なことに従事しているという恐怖が膨らんでいった。
彼が他の人々と違ったのは、漠然とした恐怖にとどまらず、“この悪魔のような兵器をアメリカ一国が独占していいのか”と考えるようになったことだった。“いつかアメリカにナチスのような政権が生まれたら、どんな結果をもたらすか”…。
ならば、ソ連に情報を流し、彼らにも原爆を作らせるべきなのではないか。
ソ連に情報提供することを最初に思いついたのは、テッドの親友サヴィル・サックスだった。 二人は共産党員だった。共産党員が、アメリカの最大の軍事機密を盗んでソ連に提供する——こう言ってしまうと今の感覚ではあまりにベタなスパイ行為に見えるが、そんな単純な構図では割り切れないものがあるから、この映画が生まれたのだと思う。
この時代のアメリカ
テッドがロスアラモスで働き始めたのは1944年1月だ。第二次世界大戦も終盤に差し掛かる時期。
ソ連はアメリカと同じ連合国に属し、体制の差を超えた同盟国だった。
しかも当時ソ連は、最終的に2000万人を超えたと言われる死者を出しながら、ナチスドイツと壮絶な戦いを続けていたのだ。それを後押しするためアメリカは、41年以降膨大な量の軍需物資を提供してしていた。
さらに、対日戦へのソ連の参戦を心待ちにしていたという事情もあって、150隻を超える艦艇をソ連に提供したうえにソ連兵の訓練まで請け負っている。(麻田雅文『日ソ戦争』)まさに共に戦う同盟国としての振る舞いである。
その一方でスターリンによる粛清・恐怖政治についてはまだ知られていなかった。
つまり当時は、アメリカの歴史においてソ連(ロシア)がもっとも尊敬され、親近感を持たれていた時期だったと言っていいのだ。
で、何が言いたいのかというと、共通の敵ドイツと死力を尽くして戦っている同盟国ソ連に軍事機密を漏らすことは、たとえば交戦中だった日本へ情報提供するのとは、まったく意味合いが違ったのではないかということだ。心理的なハードルがかなり低かったのではないか。
戦後のアメリカは反共(反ソ)へと急転回をとげるが、対戦中のこの時期も同じだったと考えてはいけないと思う。
スパイをしたワケ
そして動機。
テッドは、「アメリカがあの兵器を独占するのは危険だ」と考えたのだ。「ソ連も同じ兵器を持つようになれば、新たな戦争を抑止する手段になる」と。
核抑止論を肯定するつもりはないが、少なくとも戦後の世界でまかり通ってきた論法と1ミリも矛盾しない。
国家機密を漏らしたことの罪は否定しようがないとはいえ、国家機密を守るという“国民国家がなかば自動的に国民に要請する正義”と、新たな戦争を抑止するために彼が“個人的に導き出した正義”とを比べたとき、はたしてどちらに重みがあるだろう。

セオドア・ホール。ロスアラモス国立研究所でのIDバッジの写真(Wikipedia)
しかも、(くどいようだが)相手は同盟国。
原爆使用に反対する声
また、原爆の破壊力があまりにも大きすぎることへの危惧は、彼だけでなく、少なからぬ数の同僚科学者も抱いていた。
ソ連に情報提供すべきだと主張する者はテッド以外にもいたし、トルーマン大統領に対し、原爆を使用するべきでないと訴える書簡を連名で出した学者たちもいた。(マンハッタン計画の軍責任者レズリー・グローヴズに握りつぶされたが。)
また、軍人の中にも使用に反対する者がいた。ヨーロッパ連合軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワーは陸軍長官ヘンリー・スチムソンから打診されたとき、原爆の使用は米国の評判を落とすだけだとして反対した。日本がすでにポツダム宣言の受諾を真剣に考え始めていることを知っていたからかもしれないが、軍の戦略上も、あの時点で人知を超える殺傷兵器を使用する必要性などなかったのだ。
テッドが行なったのは極端な離反行為だったかもしれないが、原爆が人間性を脅かす悪魔的な兵器であるという認識は彼だけのものではなかった。その認識をふまえて、人としてどういう行動に出るかの違いだけだった。
テッドがソ連に流したのは、計画に参加している科学者たちの名前と、彼自身が携わった爆縮型原子爆弾の詳細だった。これは長崎に落とされた「ファットマン」に用いられた技術だと言っていたと思う。そもそもの概念から開発計画(?)まで、図解を入れて細々と説明した文書だ。
それをサヴィルが受け取り、ソ連側につないだらしい。
ロスアラモスにはテッドの他にも情報提供者がいた。クラウス・フックス。彼が流した情報とテッドの情報が一致したため、ソ連はこの情報を信用し、金と人を投入して開発を進めたという。(原爆情報のスパイとしてはおそらくローゼンバーグ夫妻のほうが有名だが、夫妻が持ち出した情報はテッド/フックスのものに比べるとそれほど価値のあるものではなかったと言われている。)
晩年の告白

彼のスパイ行為は戦後50年間明るみに出ることはなかった。
1995年にヴェノナ文書——ソ連への秘密通信を解読した文書——のソビエトスパイ通信文が段階的に公開され、そこで初めて世に知られることになった。
テッドはそれを受けて声明を出すが、自らの行動を遠回しに認めはしたものの、詳細を語ることはなかった。しかし、パーキンソン病とガンを患い、おそらく死期が近いことを悟ったのだろう、亡くなる前年の1998年に二本のインタビュー映像を残している。
一本は、CNNとBBCが共同制作したドキュメンタリー・シリーズ『Cold War』のために撮られたもの。ちゃんとライトを当てられ、プロと思われるインタビュアーの質問に答えているが、放送されたのはごく一部だったらしい。
もう一本は、妻のジョーンがインタビュアーを務めるプライベート・ビデオ。
ただし、これは弁護士同席のもとで撮影されたもので、ジョーンはまず「これは記録用の撮影です」と断りを入れ、内容を最少限の言葉で説明したあと、日付と場所を付け加えている。確かな記録を残そうという意志が感じられるものだ。
そのビデオでは、テッドとジョーンがテーブルの角をはさんで90度の角度で並び、笑いを交えながら和やかに質疑が交わされていく。
ネットで拾った映画の公式(?)資料によると、この二本以外に“環境活動家”が撮ったものも使ったとのことだが、どの部分がそれに当たるのかは不明だ。
基本的に生きたテッドの映像はこの二本からの転用である。
監督のスティーヴ・ジェームズが撮ったのは、2019、2021、2022年に行なったジョーンとその娘たち、そして存命の関係者(遺族含む)たちへのインタビューと、役者を使って若き日の夫妻を再現した部分で、この映画はこれらの映像と家族が所有する写真、そして当時のニュース映像などで構成されている。
テッドの老いと、変わらないもの
インタビューに答えるテッドは年齢(73歳)よりも少し老けて見え、病気が進行していることが分かる。映っているのは上半身だけだが、脚腰も弱っていたんだろうと思う。言葉もどちらかと言うと弱々しい。朴訥というか、ボソボソという感じ。しかし、記憶ははっきりしているし、若き日の自分が考えたことも、今の自分が考えていることも、考え考え、途切れ途切れではあるが、きちんと言葉にして返してくる。
その様子には、最年少で原爆開発に携わった早熟の天才の面影はない。
飛び級を重ねて18歳でハーバードを卒業した神童と聞いたら、早押しクイズのように、こちらの話が終わらぬうちに鋭利な言葉が返ってきそうなイメージを抱いてしまうが、73歳のテッドは質問を反芻するように沈黙し、そして誰にでも分かる日常的な言葉をゆっくりと紡いで答えていく。しかし、的を外すことはけっしてない。
見ていて、これは加齢や病気による衰えではなく、彼は若い頃からこうやってゆっくりと問題を受け止め、咀嚼して、自分の考えを導き出してきたのではないかと思った。
研究に取り組んでいるときは、もしかしたら光の速さで思考が脳内を駆けめぐったのかもしれないが、人としての思考が必要なときには、そういう頭の使い方ではなく、ゆっくり真摯に問題と向き合い、自分の良心だけと対話し、答えを導き出してきたのではないか。まぁ、そんな気がしたというだけの話なんだけど。
英語版Wikipediaにソ連側エージェントによるテッド評が記載されていた。やっぱり若い頃は才気煥発だったみたいだ。
(前略)英語は非常に教養豊かで表現力に富んでいる。質問、とりわけ科学的な質問に対しては、即座に、極めて流暢に答える。両目は寄った位置にあり、明らかに神経衰弱の気配がある。精神の早熟さゆえか、機知に富み、多少皮肉屋なところもあるが、不躾な馴れ馴れしさや冷笑的な態度は微塵もない。彼の最大の特徴は、極めて鋭敏な頭脳と即座に反応する能力にある。会話においては、剣のように鋭く、かつ柔軟だ……。
パーティーをして祝うようなことじゃない
彼は軍隊方式のロスアラモスの暮らしにも馴染めなかったし、実験が成功してお祭り騒ぎする仲間たちの輪に入る気にもなれなかった。
自分も含めて、その手のものが性格的に苦手という人は少なからずいると思うが、彼の場合、たんに苦手というだけでなく、ひとつひとつ、拒絶する理由があったんだろうなと思う。
原爆の完成は、パーティーをして祝うようなことじゃない。
FBIの取り調べと尾行・盗聴
前にも触れたように、テッドのスパイ行為は戦後50年間明るみに出ることはなかった。しかし、戦後数年たった頃、FBIの捜査線上に彼が浮かんだ。ヴェノナ文書——ソ連への秘密通信を解読した文書——に彼の名前が出てきたからだ。
1951年2月、テッドはFBIに召喚され取調べを受けた。40年代後半からマッカーシズムの嵐が吹き荒れ、50年にはローゼンバーグ夫妻やクラウス・フックスが核情報の漏洩の疑いで逮捕されていた。精神的にずいぶん追い詰められたことだろう。しかし、サヴィル・サックス——同時期に取調べを受けた——とも示しあわせて、彼は否定しつづけた。
テッドはシカゴでジョーンと出会い、幸せな結婚生活を送っていた。子どもも生まれていた。
取調べから戻ると、その日のうちにジョーンとともに左翼思想に関わる書籍や文書をすべて処分した。彼は共産党員だった。おそらくジョーンもそう。ジョーンはさらに進歩党の党員幹事としても活動していたらしい。しかし、彼らはすべての社会活動から離れる決意をし、実行した。
次の取調べのとき、テッドはこれ以上捜査に協力しないと啖呵を切って部屋を出た。以来、出頭を求められることはなかったが、尾行がつき電話を盗聴される日々がつづくことになる。
19歳のときに強い意志を持って行なった国家への背信行為が、罪を問われることはなかったとはいえ、その後の彼の人生を強く拘束することになった。
ジョーンとの出会い
話が前後するが、テッドとジョーンが出会ったのは戦後のシカゴ大学においてだった。彼はニューヨーク出身だが、ロスアラモスから解放された後、ニューヨークには戻らずにシカゴ大学に入っている。
ジョーンもテッドに負けず劣らずの天才少女で、1944年に15歳の若さでシカゴ大学に入学していた。
インタビューの中でジョーンは「28歳までの10年間は結婚しないと決めた」と言っていた。ということは、18歳のときにそう思ったということだろう。毎日が楽しくてしようがなかったそうだ。でも、すぐにテッドに出会い、その考えは消えた。
1947年に結婚。彼女は18歳、テッドもまだ21か22だ。
テッドはプロポーズの言葉につづけて、19歳の彼が行なった行為について告白したという。しかしジョーンはそれを受け入れ、結婚を承諾する。
ちょっと分からなかったのは、シカゴで新生活を始めたテッドの横にサヴィル・サックスもいたことだ。サヴィルはハーバードでテッドが出会った親友である。英語版Wikiによるとルームメイトだったらしい。
大学在学中にマンハッタン計画への参加が決まったテッドにソ連への情報提供を持ちかけたのが彼だ。
サヴィもニューヨーク生まれで、英語版Wikiの学歴の欄にはHarvard College としか記載がなく、シカゴ大学に入った形跡はない。
だが、映画ではテッド、ジョーンと三人でつるんでいた様子が描かれ、後にテッドがFBIの取調べを受けたときも隣の部屋で取調べを受けていた。シカゴで暮らしていたことは確かなのだろう。
だとすれば、シカゴに移ってからもテッドがソ連に情報提供していた可能性が高くなる。シカゴ大学は世界初の原子炉を作ったところであり、その研究はマンハッタン計画と一体化していた。戦後も引き続きアメリカの原子力研究の中心だったからだ。まぁ、この辺りのことは映画でも描かれなかったし、ネットでも情報を見つけられなかったから、この話はこれで打ち止め。
ニューヨークへ
X線微量分析のすぐれた技法を考案するなど、テッドはシカゴ大学でも研究者として実績を積んでいたらしいが、FBIの取調べを受け、尾行と盗聴にわずらわされるようになると、1952年、彼はニューヨークの民間研究機関の生物物理学の研究職に転職し、一家で転居する。
ジョーンが言うには、この時ソ連への亡命も検討したらしい。祖父母がロシアからの移民だったジョーンはけっこう乗り気だったと言っている。だが、ソ連のエージェントに相談したところ、とりあえずニューヨークへ行けと言われたのだ、と。
スパイや革命家というと、(偏見かもだけど)家族が足枷になって思うように動けない、あるいは信念が揺らぐというケースが多いイメージなのだが、この映画を通じ、ジョーンにはそんな気配がまったく感じられない。この点が見ていて面白いと思ったポイントの一つだ。結局のところジョーンは、テッドの過去のスパイ行為にただ目をつぶったわけではなく、積極的に肯定し、権力からの追求をテッドと共にかわしつづけたのである。
それを象徴するのが、1949年8月29日にソ連が核実験に成功したと聞いたときの彼女の心境だ。ラジオからニュースが流れてきた瞬間をはっきり覚えているという。
誇らしかったわ。ぜんぶ夫がやったようなものよ。
ケンブリッジへ
1962年、テッドは英国ケンブリッジ大学のヴァーノン・エリス・コスレットの電子顕微鏡研究室に職を得て、一家はイギリスに移住する。
そこでもFBIは英国人を差し向けて話を聞き出そうとしたというから、彼は完全にクロだと見なされていたのだろう。だが、ヴェノナ文書以外に物証がなく、この文書は外交・軍事戦略上、公にできなかったから、自白させる以外に手がなかったのだ。
テッドは1984年に59歳で退職するまでケンブリッジで働きつづけた。彼はここでも微量の生物組織を解析する「ホール法」という技術を開発したというから、本当に優秀な人だったのだ。
生きがいだった社会活動から離れ、家事に専念していたジョーンは、その地でロシア語とロシア文学を学び始め、やがて教鞭をとるまでになる。
アメリカとイギリスの違いを長女のサラが話すシーンがあって印象的だった。
イギリスに渡ったとき彼女はまだ12歳だったが、「その歳での移住はつらかったですか」という質問に彼女はこう答えた。
こっちの新しい世界では、自分は無神論者だと公言していいし、“共産主義者”は悪口じゃない。
そうした自由な空気の中でジョーンは勉学を再開し、フェミニズム運動などの社会活動にも参加していく。
ヴェノナ文書公開
次の大きな転期となったのは1995年。
この年の7月、ヴェノナ文書のソビエトスパイ通信文の一部が公開された。そして、段階的に3000以上に上る解読文書が公開されていった。
テッドがソ連側エージェントと接触していたことも、これによって明るみに出た。マスコミが押し寄せてきた。
ジョーンは「追い返した」と笑っていたが、19歳の若き天才の裏切りとして世間を騒がせたらしい。

ジョセフ・オルブライトとマーシャ・クンステルが『爆弾発言:知られざる原爆スパイ』を出版したのが1997年。映画にはこの二人へのインタビュー映像も出てくる。
彼らによると、テッドはこの本が世に出るまでは生きられないと思っていたらしく、自分の行為とその動機を説明する(最初で最後の?)機会だと思って取材に応じた。
そして98年、自らの言葉で語るべく二本の——三本?——インタビューを映像に収め、その翌年に永眠した。享年74歳だった。
何に惹かれたのか
核兵器をアメリカが独占したら…
さて、どうしてこんなに長々と書いてきたかというと、テッドが自分の行為の動機として語ったことが、一見稚拙で短絡的に見えながらも、核心を鋭く突いていて、その後の世界を正しく見通すものだったからだ。19歳にしてそんなふうに考えることができたのかと驚かされた。
私は心配だった。こんな兵器を独占する国家は破滅的な出来事を引き起こすのではないかとね
戦争も終盤に入り、国中に愛国的高揚が蔓延しているさなかに、この19歳の若者は、やがて始まるかもしれないさらに悲惨な戦争を予感し、自らの手でそれを阻止する方法を考えていたのである。
そして彼はそれを、妻にも取材者たちにもそのままの言葉で伝えた。自分の正しさを強弁するでもなく、懺悔して許しを乞うでもなく、ただ“こう思ったからこうした”と。
まるで「卵が切れてたから買っといた」とでも言うような口ぶりで、しかも「卵が切れてたから」と同じぐらい否定しようがない。考えれば考えるほど否定しようがない。
ジョーンによると、テッドは晩年、ソ連政府による残虐行為をあの当時知っていたら、情報を渡す気にはならなかっただろうと話していたそうだ。
しかし、ジョーンは言う。
確かにそうだと思う。
でも、これもまた本当——彼が情報を渡してなかったら、それは世界にとっての不幸だった。
まったくそのとおりだ。
実際問題としてアメリカは戦後すぐに、ソ連を潰滅させるにはどこにどれだけの原爆を投下すればいいかという計画を練り始めた。
映画ではこんなことも紹介されていた。
研究者の見方では、アメリカでそういった核戦争を計画したのは、主に金融街の出身者だったというのだ。名の知れた政治家たちとその出身企業(=金融機関)が挙げられていた。
金儲けのために戦争をしたがっているとまでは言わないが、この界隈の人たちは、敵が手の焼ける存在になる前に叩き潰して独占を完了しておこう、ぐらいのことは考えそうだ。
テッドの心配は非現実的なものではなかった。
ジョーン・ホールという女性の魅力

この映画に心を惹かれた二つ目の理由は、妻ジョーンの魅力だ。
彼女は、テッドと同じように昔のことをよく覚えていて、テッドと反対に立て板に水の勢いでよくしゃべる。プライベートビデオを除くと、この映画の中で話す彼女は90歳を過ぎている——最初のインタビューが90歳のときで、最後はたぶん93歳——のだが、言葉に力があってつい引き込まれてしまう。
そして、その歳になってもテッドへの愛がまったく衰えていないことにも驚くが、かと言って、夫に盲従するといった気配が全然なくて、自我を確立した一人の個人としての凛々しさが伝わってくる。
二人はともに社会主義を信じ、共産党に入っていた。 それはどちらかに影響されてというのではなく、それぞれが自分の頭で考えて出した答だったんだろうなと思う。
19歳のテッドが行なった行為についても、夫だからとか愛しているからと言う前に、彼女は心から支持していたんだと思う。インタビューのはしばしからそう感じられた。
この二人がめぐり逢ったこと自体がすごいことだと思う。最初にこの映画はテッドとジョーンの物語だと書いたが、彼女の存在がなければテッドの人生はかなり違うものになっていただろうし、死を前にして、こんなふうに当時の自分を語ることはできなかったんじゃないかと感じたからだ。
19歳のテッドは自分の良心に従って原爆の情報をソ連に流した。期間としては、短ければほんの数ヶ月、長くてもせいぜい数年というところだろう。それに比べてジョーンと暮らした期間は50年以上。
過去は変えようがないが、その評価は時とともに変わっても不思議ではない。彼が当時の自分を過大評価するでもなく、全否定するでもなく、実物大のまま保ってきたように見えるのは、いつもそばにジョーンがいたからではないかと思うのだ。だから、この映画から伝わってくるものもジョーンがいなかったら全然違うものになっていたように思う。
ジョーンは、テッドとの結婚生活を通じて、そしてテッドを失って20年以上が経った時点でも、彼の行動の意義を肯定しつづけた。これはもう(言葉は悪いが)立派な共犯者である。
テッドの思い
最後に、(おそらく『Cold War』の)インタビューの(おそらく)最後にテッドが述べた言葉を。
「自分の行為に関してどう思ってますか?」の問いに、
「私の歴史というだけだ。胸を張れたらいいんだが、私はそんな性格じゃない。」
「結局、動機は?」と重ねて聞かれると、彼はひとしきり声を出して笑ったあと、こう言った。
いちばんは思いやりかな、あとから言ってみるならね。
これについては、同じ年のプライベート・ビデオで語った言葉が意味を補ってくれる。
頭にあったのは特にソ連の人々を無差別攻撃から守り、世界中に影響を及ぼす大量虐殺を防ぐことだった。
原題の“A Compassionate Spy”のCompassionate(=哀れみ深い)はここから取られている。たぶん。
再び『Cold War』.
「次の世代の人々に伝えたいことは?」
今の世界は大惨事が起きる寸前まで来てる。破局の前だ。
だから国民(people)は…政府ではなく国民が、情勢を気にかけ、必要なら行動しないと。
政策に声を上げ、軌道修正させるんだ。再び世界を危険にさらさないために。
Joan Krakover Hallは2023年、94歳で亡くなった。
遅ればせながらR.I.P.
画像は主に映画の公式ホームページからスクショした。
Wikipediaから拝借したものにはその旨を記載した。
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