黒岩比佐子さんによって書かれた大作ノンフィクションで、第62回(2010年)読売文学賞の評論・伝記賞受賞作。しかし、残念なことに没後受賞だった。
この本の単行本が発行されたのが2010年10月で、そのわずか1か月後の11月17日に亡くなっている。享年52歳。
あとがき——日付は2010年7月だった——に、この本の執筆中に膵臓がんであることが分かり、治療を受けながら仕上げたと書かれてあったので、気になって奥付を見てこの早すぎる死を知った。とにかく面白かったから、ちょっと言葉を失った。本当に残念。

堺利彦という名前は歴史の教科書にも出てきたから、もちろん知っていた。しかし、名前以外に知っていることと言えば、遠い昔の社会主義者で平民社を起こした人ということぐらいだった。言うまでもなく「売文社」なんて聞いたこともなかった。
著者もそうだったらしい。たまたま売文社という会社の存在を知り、興味を持ったことがこの本を書くきっかけだったとあとがきにある。
実際ふざけたネーミングである。有能に見せようとか、高級に見せようという気配は微塵も感じられず、むしろ露悪的、自己卑下的でさえある。なぜこんな俗な名前をつけたのだろうとまず疑問が湧く。
でも、この本を読むと、このふざけた社名に堺利彦の性格、遊び心、能力が集約されていることに気づく。また、わざと蔑むところにこそ、戦略家としての彼のしたたかさが隠されていることにも。
堺利彦が日本の社会主義運動黎明期における巨人であることは論を俟たない。彼の功績はいくらでもあるから、手早く略年表を作りたければ、このふざけた名前の会社に触れなくても十分に意味のあるものができるだろう。実際に多くの社会主義者や歴史家はそうやって彼の見栄えのする功績ばかりを語ってきたらしい。
しかし、このふざけた社名に目を奪われた著者は、調べるうちに、この会社を起こし、運営した時期の堺にこそ彼の本質が表れていることに気づく。そこにスポットを当てると、社会主義者とか革命家といういかめしいイメージの枠からはみ出す部分まで見えてくるのだ。
社会主義者にとって「冬の時代」とも言われたその時期、政府からの弾圧を飄々とかわしながら、彼は命懸けで仲間の食い扶持を生み出し続けた。陽気で気のいいオッサンなのだが、ただ性格がいいだけではなく、多くの人と繋がる社交性を持ち、ペンの力をパンに変えるマネタイズ能力をも備えた人だった。
社会主義者となるまで
堺利彦が生まれたのは1870(明治3)年。明治時代初頭の混乱の時期である。豊前小倉藩の下級武士の家柄だったが、武家の特権はすでになく、父親は農業で生計を立てていた。貧しい生活の中でも学業優秀で、豊津中学(旧藩校)から東京の第一高等中学校へと進む。誰もが羨むエリートコースである。だが、そこで彼はあっけなく道を踏み外してしまった。酒と遊郭通いを覚え、学費まで使い込んで退学処分にあうのだ。17歳の頃の彼は、一言で言うととんでもないクズだった。
幸い文才に恵まれた彼は、小説を書いたり、新聞社の記者をしたり、時には小学校の教師をしたりしながら糊口をしのぐ。
東京の有力紙である萬朝報の記者の職を得るのは1899(明治32)年、29歳のときだ。そして、そこで幸徳秋水と巡り逢う。社会主義者となるのも朝報社(萬朝報の発行会社)に入ってからだ。
だが、目も当てられない人間のクズが突然社会主義に飛びついたわけではないようだ。波乱の二十代を駆け抜ける中で、彼の生活態度は大きく変化する。両親の死と結婚が大きな要因となったようだが、それに加えて多くの人と出会い、さまざまな経験を積むことで、世の中に対する視線が定まっていったように見える。社会主義思想に踏み込むまであと一歩という地点まで、彼は自力で這い上がってきたのだという印象を受けた。
一転、愛妻家へ
堺利彦は二度結婚している。
一度目は1896(明治29)年、新聞人の中でも美文家として名高かった堀紫山の妹・美知子と。しかし美知子は体が弱く、1904(明治37)年に病没する。長女・真柄が生まれた翌年のことだった。
二度目は1905(明治38)年、延岡為子と。平民社の裏方募集の広告に金沢から応募し働きはじめた女性だった。
不思議なのは、美知子と結婚したとたん、たぶん当時としては珍しいほどの愛妻家ぶりを発揮しはじめたことだ。17歳の頃の女郎屋通いは何だったんだと言いたくなるほどの豹変である。美知子は亡くなる前に長い療養生活を送ったが、その間も彼女の治療を最優先させ、治療費を稼ぐために本業の他にも仕事を掛け持ちし、社会や政治への関与は二の次にしていたように見える。
為子との結婚生活は仕事と運動中心の日々だったが、それでも獄中からの彼女への手紙などを読むと、愛情と信頼、敬意があふれていて、読んでいるこちらまで笑顔になる。
普通の人々への啓蒙
若い頃の堺は小説家としての大成を目ざし、精力的に作品を発表していた。だが「『萬朝報』に入社した時点で、堺は小説家の道ではなく、ペンの力で世の中を改革していく道を選択したといっていい」(P .101)と著者は言う。
美知子の療養中、家計の足しにするために彼が書いたのは小説ではなく、啓蒙書だった。中でも1901年に書いた『言文一致普通文』と『家庭の新風味』は高く評価され、堺利彦の名を高めたという。
文学における言文一致運動はすでに始まっていたが、堺は、いまだに候文で書かれている手紙などの日常の書き物にこそ口語体を用いるべきだと主張した。ユーモアたっぷりの多様な例文が人気を博したという。
そして『家庭の新風味 1 家庭の組織』の序文で、彼はこんなことを書いている。
(略)
第二、予は此叢書を世の娘達に進めると同時に又敢て其親達に進める。世の細君達に進めると同時に又敢て其脊の君達に進める。世の嫁君達に進めると同時に又敢て其舅姑達に進める。
第三、予は貴族と金持とを度外に於いて、健全なる中等社会を此叢書の目安とした。新風味は固より中等社会の家庭から生じて行くべきものである。(P .122)
「中等社会」という言葉を堺利彦はしばしば使っていて、「ペンの力で世の中を改革していく」と考える彼の視線が大衆に向けられていたことが分かる。貴族でも金持でもインテリでもない、ごく普通の人々の生活の向上が彼の目ざすものだった。
と同時に、女性への眼差しがこの時代の男たちとはかなり違っていたことも確かだ。詳しくは触れないが、ただの愛妻家だったのではなく、男女同権・平等の価値観を(まだまだ完全なものではなかったにせよ)持っていたのである。
社会主義者・堺利彦の誕生
1901(明治34)年5月、日本で最初の社会主義政党と言われる「社会民主党」が誕生——と言っても即刻解散命令が出るが——する。創立者は幸徳秋水、安部磯雄、片山潜、木下尚江、河上清、西川光二郎の6人で、堺利彦の名前はない。妻・美知子の治療費の捻出に追われていたということもあっただろうが、どうやらその時点ではまだ社会主義思想に確信を抱くには至っていなかったようだ。
彼が社会主義関連の文献を読むようになるのは、その直後からだった。
そして、幻に終わった社会民主党のあと、朝報社社長の黒岩涙香と萬朝報記者の内村鑑三を中心に「理想団」が誕生すると、堺も発起人として加わった。(1901年7月)
名前はぼんやりしているが、「理想団」は「社会主義と名乗らない社会主義団体」(P .137)だった。中には社会民主党の創立メンバーもいるし、それとは路線の異なる人々も多数参加する、いわば呉越同舟の集団だ。そして、この会の発会式のとき、堺は自らを社会主義者であると告白したという。
主戦論と非戦論
日清戦争後の三国干渉により遼東半島をロシアに返還させられて以来、日本国内に反ロシア感情がくすぶり続けていた。そして、1900年の義和団の乱以降も満州から撤兵しようとしないロシアに対し、戦争も辞すべきではないとする「主戦論」が湧き上がった。多くの新聞がそれを煽り、やがて当初非戦論の論陣を張っていた新聞も次々と主戦論に転じていった。
最後に残ったのが萬朝報だった。
内村鑑三はキリスト教徒の立場で、幸徳秋水は社会主義者の立場で非戦論を紙面で展開していた。しかし、世論は主戦論へと大きく傾き、萬朝報の販売部数が減っていく。そして最後は社長・黒岩涙香の判断で萬朝報も主戦論へと転じた。
黒岩が書いた開戦支持の記事が出た翌日、堺利彦、幸徳秋水、内村鑑三の三人は朝報社を辞職する。
平民社創立
1903(明治36)年10月、堺利彦と幸徳秋水は「平民社」を創立した。そして11月15日に週刊『平民新聞』を発刊する。
第1号の一面トップで、自由・平等・博愛と平民主義(階級打破)、社会主義、平和主義、暴力(革命)の否定を宣言し、あくまでも戦争反対の態度を貫くことも述べている。
1904(明治37)年2月に日露戦争が始まるが、『平民新聞』は果敢に反戦のメッセージを発し続けた。
官憲による弾圧…発禁と投獄
1904年2月に日露戦争が始まっても『平民新聞』は非戦論を貫き通した。
発行部数は3、4千部だったとはいえ、当初は言論の自由が守られていたことにも驚かされる。
政府が平民社を黙認していたのは、日本は人権や言論の自由が認められた文明国であることを、国際社会に示すためだったのだろう。
(P .171)
初めての投獄
とはいえ、それもわずかな間だった。開戦2か月目の4月、堺利彦は軽禁錮2か月の刑を受ける。社会主義者や労働運動者の入獄はこれが最初だったという。(地裁判決は『平民新聞』の発行禁止も言い渡したが、控訴審で取り消された。)
政府による弾圧は目に見えて強まっていた。官憲の尾行がつき、演説会に登壇すれば「中止」「解散」を命じられ、新聞の発禁、責任者の投獄も日常茶飯事になっていく。
『平民新聞』の廃刊と『直言』への移行
そして、1905年1月29日発行の第64号で『平民新聞』は廃刊する。一周年記念の第53号で「共産党宣言」の翻訳を掲載するなど果敢な挑戦を続けており、発行停止と責任者の起訴が続いたうえに印刷機の没収まで言い渡されていたから、限界にきていたのは明らかだった。
ただ、第64号はマルクスの『新ライン新聞』の終刊号にならって全ページを赤インクで印刷したというから、根性が座っている。しかも、「『平民新聞』」という紙名は消えたが、内容はほぼそのままで、加藤時次郎が経営する消費組合「直行団」の機関紙『直言』に引き継がれている。転んでもタダでは起きないということか。
この『直言』も1905年9月10日発行の第32号で終刊となる。そのきっかけが日露戦争の終戦だったというのは、奇妙な巡り合わせに思える。
講和条約(ポーツマス条約)に不満を持つ市民が9月5日反対集会を開くと、その後なりゆきで暴動と化した。有名な「日比谷焼打事件」である。
翌日になっても治まらなかったため、政府は東京市とその周辺(ほぼ現在の23区全域)に戒厳令を敷いた。軍隊を出動させて鎮圧したのだ。
また、主戦論によって好戦的な世論を煽ったのも新聞なら、条約締結を声高に唱えて国民の怒りを増幅したのも新聞だったということなのだろう、政府は合わせて厳しい言論統制を行い、新聞雑誌を次々に発行停止にした。
『直言』は講和反対には与しなかったが、終始政府批判を続けていたため、発行停止の処分を受け、他紙と違っていつまでも解除されなかった。結果として9月10日発行の第32号が最終号となってしまったのである。
平民社解散
平民社の活動も身動きがとれない状態となり、解散することになった。(10月9日に解散式)
ただ、弾圧だけが解散の原因だったわけではなかった。非戦論のもとに集結していた同志たちの間の路線の違いが、戦争終了とともに露わになったということでもあるらしい。
その後、石川三四郎は木下尚江主筆、安部磯雄の監修の下に月刊『新紀元』を創刊し、西川光二郎と山口孤剣は月二回刊『光』を創刊する。
前者はキリスト教社会主義、後者は唯物論的社会主義を主張するもので、平民社に集まっていた同志たちはこの二つに分裂したのである。(P .205〜206)
堺は、『直言』の実質的な後継紙は『光』だと言っている。(P .206)
一方、萬朝報以来の同僚で、ともに平民社を創立した幸徳秋水は、この直後にアメリカに渡っている。
大逆事件まで
20世紀が始まるとともに堺利彦は30代に入り、弾圧が強まる中で平民社を解散したのは30代半ばだった。社会主義者の先駆けの一人である堺の周りには、一世代下の若者も増え、ともすると時代の閉塞感に抗して過激な方向へ進もうとする者もいた。
赤旗事件が起こった1908年6月までの堺の行動を追ってみると、同志の分裂や分派という事態に直面して、ひたすら調整役を務めているように見える。(P .210)
日本社会党の設立
1906(明治39)年1月、堺は「日本社会党」を創立する。
綱領の第一条に「本党は国法の範囲内において社会主義を主張す」と書いたが、政府はこの結党届を受理した。
堺は自ら設立した由分社(1903年設立)から『家庭雑誌』を発行していたが、1906年、同社から月刊『社会主義研究』の発行も始めた。
この雑誌名にある「研究」という言葉が堺らしい諧謔を秘めていて味わい深い。『平民新聞』時代に「共産党宣言」の翻訳を掲載して発禁処分にあっているのだが、そのときの大審院判決は「宣伝目的で掲載するのは禁ずるが、研究のためなら発表してかまわない」というものだった。これを逆手にとって、『社会主義研究』創刊号の巻頭に「共産党宣言」の全文を翻訳して掲載したのだという。政府も黙認したというから面白い。しかし、弾圧を受ける前に経営が行き詰まり第5号で終刊する。(P .216)
日本社会党は、その後、他の市民団体と共同で東京市電の電車賃値上げ反対運動などに取り組んだ。
幸徳秋水の帰国と日刊『平民新聞』
1906年6月、幸徳秋水がアメリカから帰国した。
その後、日刊『平民新聞』発行の話が持ち上がり平民社が復活する。山川均が岡山から上京しメンバーに加わった。
1907年1月15日、日刊『平民新聞』創刊。
これは日本社会党の事実上の機関紙で、『新紀元』と『光』に分裂していた社会主義陣営を再統合する試みでもあった。
2月5日付『平民新聞』に幸徳秋水が「余が思想の変化(普通選挙に就て)」を発表。内容は議会の否定だった。
普通選挙の実現は長い間日本の社会運動の中心にあったテーマで、社会主義者に限らず幅広い層の共通の要求だった。これに対し秋水は、議会はもはや不要だとし、直接行動に訴えよと主張したのである。彼はアメリカで無政府主義者たちに温かく迎えられ、クロポトキンを信奉するアナキストに変貌していた。ただし、この場合の直接行動とは暴力革命という意味ではなく、労働組合運動をさす。
堺利彦は秋水と議論を繰り返し、『平民新聞』でも秋水の直接行動至上主義を批判した。堺は労働者の団結と議会重視を運動の両輪と考えるべきだという立場をとった。
日本社会党内でも意見は割れた。1907(明治40)年2月17日の第二回党大会で堺ら評議員会が提案した党則改正案に対し、秋水と田添鉄二から修正案が提出される。秋水は普通選挙運動に関する項目を丸ごと削除するよう求め、田添は議会政策を最優先することを訴えた。結果は評議員会案が秋水案をわずかに上回って採択された。
大会の内容を掲載した『平民新聞』は朝憲紊乱罪(ぶんらんざい)で起訴され、編集発行人の石川三四郎と山口孤剣は軽禁錮刑、『平民新聞』は発禁処分を科された。財政難も加わり、4月14日付第75号に「廃刊の辞」が掲載され、第二次『平民新聞』はわずか3か月で幕を下ろすことになる。
また、日本社会党自体も大会の5日後には解散命令を受けた。(P .235)
「硬派」と「軟派」
こうして、また社会主義陣営は分裂することになる。
政府の弾圧や迫害を逃れるためには穏健路線を取らざるを得ないと考えた西川光二郎——足尾銅山事件の取材中に兇徒嘯聚罪(きょうとしょうしゅうざい)で逮捕され、第二回党大会時は拘禁中だった——は、出獄後、片山潜と週刊『社会新聞』を創刊して議会主義を主張。一方、森近運平が大阪で『大阪平民新聞』(月二回刊)を発刊し、直接行動主義の論陣を張った。(P .236)
直接行動を標榜する『大阪平民新聞』派は「硬派」、議会主義を唱える『社会新聞』派は「軟派」と呼ばれ、激しく対立するに至った。(P .237)
堺利彦はその間に立って両紙に寄稿していたが、親友である幸徳秋水を擁護するうちに『社会新聞』から離れていくようになる。(P .237〜238)
そのため、幸徳秋水や森近運平、大杉栄、荒畑寒村、山川均らとともに、堺も硬派とみなされていたが、ひと口に硬派といっても、マルキストとアナキストでは考え方が大きく異なる。(P .238)
山川によれば、議論が白熱するなかで、堺は「私はあくまで正統マルクス派の立場を守る」と自分の立場を明らかにし、両派のいずれにも偏しない中央の立場を取る、ということを述べたという。
山川は後年、この言葉の重要性に気づき、堺のその後の25年間の生涯は「あくまで正統マルクス派の立場を守る」というこの夜の約束の「瑕瑾(かきん)なき履行」だったと思う、と回想している。(P .238)
だが、威勢のいい青年たちには堺の「中央の立場」は日和見主義と映り、批判を浴びたという。
また、この行動原理をめぐる対立とは別に、知識人と一般労働者/民衆の間にも溝があった。足尾銅山を皮切りに各地で労働争議が激増するが、知識人たちの関わりは薄く、組織を持たない闘争は暴動化しがちだった。当時の社会主義運動は労働運動に影響力を持ち得なかったのだ。(P .240)
世話好き人間 堺利彦
幸徳秋水はカリスマ性を持ち、若い社会主義者たちから崇拝される存在だった。対して堺利彦にカリスマ性はなかった。秋水を非難する声は聞こえてこないが、堺に対しては誰もが同輩のような口ぶりで不平不満を並び立てる。二人はそのように対照的な存在だった。
しかし、山川均によると、
そのくせ若い人たちの生活のことまでよく面倒をみるのは——これは一つには、堺さんが健康で精力的だったためでもあろうが——いつでも堺さんだった。
私自身にしても、生活のために堺さんから金の援助をうけたことは一度もなかったが、この時期にも、またずっと後の時期になっても、ともかくなんとかして生活をしていけたのは、なにかしら堺さんが、ときどきに仕事を作ってくれたからだった。
そして当時の事情では、仕事を作るということは、想像のできないほどむつかしいことだった。(P .241)
『平民新聞』が消滅して食い扶持を失った同志たちに、堺は新たな収入源を見つけてきた。出版社を訪ね歩き、本の制作を提案し、その執筆の仕事を分け与えたのである。
吉川守圀もこう言っている。
困窮せる堺は有楽社に知人を訪ふて其処で得た幾何かの原稿料も仕事も後進に分与し、一切自身が総元締となつて同志の者の面倒を見た。堺は如何に困窮した場合でも我を忘れて能く後進の面倒を見、道を開いてやることを忘れなかった。(P .243)
後の売文社でやったことを、すでにこの時期に始めていたことが分かる。心根の優しさ、面倒見の良さが群を抜いていたことはもちろんだが、金になる仕事を生み出す企画力と営業力、そして人とつながる能力の高さにも感心させられる。
屋上演説事件と赤旗事件
新聞や出版物への規制だけでなく、集会の取り締まりも厳しさを増していった。ほとんど言いがかりの世界である。
1908(明治41)年1月17日、「屋上演説事件」が起こる。
毎週恒例となっていた学習会が始まると、いつものように警官が「中止」「解散」と叫んだ。しかし参加者も慣れたもので、外に出てそこらをひと回りしたあと戻ってきて、再開。するとまた警官がやってきて解散を命じた。今度は誰も言うことを聞かず警官と揉み合いになった。路上には野次馬も集まってきたから、堺、大杉、山川は窓から屋根に上がって演説を続けた。
これだけのことである。最初に解散を命じられたときに守田有秋が話していたのは「トーマス・モアのユトピアの話」、次は堺利彦がアメリカの恐慌の話をしているときだった。
この事件で、堺、大杉、山川、竹内善朔、森岡永治、坂本清馬が検挙され、軽禁錮1か月〜1か月半の判決を受ける。
5か月後の6月22日に「赤旗事件」が起こった。
1年2か月の刑期を終えた山口孤剣の出所を祝う歓迎会が、硬派と軟派が一堂に会して開かれた。これもまた両派の融和を図ろうと苦心して企画されたものだったんだろう。70人を超える賑やかな祝宴となった。
終わりがけに硬派の数人がふざけて赤旗2本を振りかざし場内を駆け回った。軟派が乗ってこないので、拍子抜けした彼らがそのまま表に走り出ると、待ちかまえていた警官との間で乱闘になった。「無政府主義万歳」と絶叫しながら赤旗を振って走り回れば、まぁそうなる。
大杉と荒畑はその場で検挙されたが、堺と山川は止めに入っただけだったから、拘束されることはなかった。ところが帰り道で通りかかった交番の警官に捕えられてしまう。こうして女性4人を含む14人が留置場に入れられた。
裁判の結果、堺、山川、森岡は重禁錮2年、大杉は重禁錮2年半、荒畑は重禁錮1年半、その他は(女性は無罪か執行猶予)半年から1年(一人だけ執行猶予)の判決を受けた。屋上演説事件からたった5か月しか経っていないのに、下された刑期に歴然とした差があった。
東京で活発に運動していた急進的青年グループは、この事件でほぼ全滅してしまうことになる。(P .253)
このときの取り調べ中に残虐な拷問があったことを、荒畑寒村が『寒村自伝』に書き残している。菅野すがもひどい暴力と屈辱を受け、復讐を誓ったという。(P .254)これが後の大逆事件につながるわけである。
幸徳秋水は、赤旗事件が起こったとき病気療養のため故郷の高知に帰っていた。静かな環境の中でクロポトキンの『麺麭(パン)の略取』の翻訳に取り組んでいたという。それを完了させて上京したのは8月に入ってからだった。
大逆事件
大逆事件というのは前代未聞のフレームアップだった。
「幸徳事件」とも呼ばれるが、そもそも天皇に対する爆弾テロを言い出したのは幸徳秋水ではない。発案者は山梨県出身の職工・宮下太吉で、1909(明治42)年2月13日にこの男が秋水宅を訪ねてこの話をしたのが事の始まりだった。しかも秋水(と同席した森近運平)はこの提案に賛成していない。しかし、秋水の書生だった新村忠雄が感銘を受け、これに管野すがと古河力作が加わり、4人で謀議を始めたのである。
宮下が爆弾を作り、4人で実行計画を練った。だが、この計画は実行されずに終わった。
大逆罪の条文は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」というもので、計画しただけでも死刑と定められていたから、謀議に加わった4人が処刑されるのは、まぁ分からないではない。しかし、秋水は計画を知っていたとはいえ、主体的に関わったわけではない。
にも拘らず、1910年5月に宮下太吉らが爆発物取締罰則違反で検挙されると、芋づる式に社会主義者・無政府主義者が検挙されていった。最終的に秋水をはじめとする26人もの人間が起訴される。うち24人が大逆罪で死刑(12人は判決言い渡しの翌日、特赦により無期懲役に減刑)、2人が爆発物取締罰則違反で有期刑の判決を受ける。大逆罪は第一審が終審とされていたため、この判決が確定判決となった。そして判決言い渡しの6日後には処刑が執行された(ただし1名はその翌日)。
中には、秋水の家に出入りしたことがあるというだけの者、秋水が高知からの道中で立ち寄ったというだけの者もいた。捕まって初めて計画のことを知った者がほとんどだっただろう。管野すがの獄中手記「死出の道艸(みちくさ)」には悪辣な手段で自白を強要する官憲の姿が記録されているという。
報道統制と秘密裁判
この事件は捜査段階からベールに包まれていた点でも異様だった。幸徳秋水らが検挙されていることは報道されたが、事件の内容はなんら明らかにされなかった。社会主義者たちは気が気ではなかっただろう。
大審院法廷の開廷が1910年12月10日。裁判も非公開の秘密審理で行われ、証人は一人も出廷しなかったという。たった1か月で審理を終え、1911年1月18日に判決。国民はこの時初めて(でっち上げられた)事件の全容を知ったのではなかろうか。そして、1月24〜25日に死刑執行。
明治政府は、この機会に社会主義者、無政府主義者を壊滅させようと考えたのだと思う。
1907年に足尾銅山、別子銅山で相次いで労働争議が暴動化するなど、労働争議があちこちで起こるようになっていた。その背後で主義者が糸を引いていると考えたのではなかろうか。(実際はそのような影響力はなかったのだが。)
獄中にいた堺、大杉、山川は難を逃れる
赤旗事件で不当に長い刑期を科された堺、大杉、山川はまだ獄中にあり、このでっちあげ事件に巻き込まれずにすんだ。もし屋上演説事件と同程度の短い刑期であったら、彼らも間違いなく狙い撃ちされていただろう。
堺が出獄したのは1910年9月22日で、裁判開始の約3か月前である。事件の内容を知ったのは出獄してからだった。すぐに彼は被告たちのサポートを始める。「被告たちへの差し入れ、面会、残された家族たちへの連絡と世話、その生活費の工面など」(P .309)。被告は和歌山、熊本、岡山、神戸など地方在住者が多く、家族・親族は差し入れさえできなかったのだ。
遺体引き取り
1月25日と26日、堺は何人かの同志、処刑者の親族とともに東京監獄へ棺の引き取りに行った。それらを歩いて火葬場へ運ぶ。へとへとになってようやく火葬場に着いたとたん警察に連行され取り調べを受ける。引き取り手が現れなかった遺骨はしばらく堺の自宅の床の間に安置した。
遺族の慰問の旅、「大逆文庫」、「大逆帖」
1911(明治44)年の3月末から5月初頭にかけて、堺利彦は大逆事件の遺族を慰問する旅に出た。京都、岡山、熊本、高知、兵庫、大阪、和歌山、三重。気が遠くなるような行脚だ。
さらに彼は、幸徳秋水や大石誠之助らの蔵書を集め、「大逆文庫」を作った。わざわざこの物騒な名前の印を作り、捺して保管したという。
また刑死した人たちから受け取った獄中書簡をスクラップ帖に貼って保存し、その背には「大逆帖」と墨書した。
いずれも堺の人としての優しさ、思いやりがうかがわれる行動だが、「大逆文庫」「大逆帖」という命名には彼の底知れぬ怒りも表れていると言えるだろう。
売文社
赤旗事件によって長い獄中生活を送った堺利彦は、その間に膨大な数の書籍を読破した。おそらく社会主義者としての自覚は確固たるものになったことだろう。しかし、あの子どものいたずらのような事件で2年もの重禁錮を科されるほど、政府の社会主義者への圧力が強まっていることも骨身に染みていたはずだ。しかも、東京の活動家は赤旗事件で壊滅状態に陥った。
社会改革を諦める気はまったくなかったが、当面は猫を被って生き延びねばならない。運動を再構築するには、自分だけでなく同志たちにも生活の糧が必要だ…そう考えた堺が獄中でひねり出したのが「売文社」のアイデアだった。1910年9月に刑期を終えて出所したあと、3か月後の12月24日に「売文社」の看板を自宅に掲げている。そして、同年12月31日の東京朝日新聞に広告を出す。年末は新聞の広告が払底するのでタダ同然で出せたらしい。
1911年に出版した『楽天囚人』によると、出所直前に妻へ宛てた手紙にこう書いたらしい。
僕の出獄後の生活方法に就ては、固より今から成案のあろう筈は無いが、左の如き広告を新聞に出して見ようかとも思つて居る。
小生は稍(やや)上手に文章を書き得る男なり。いづれ文を売つて口を糊するに亦何の憚る所あらん。今回断然奮発して左の営業を開始す。既知未知の諸君子、続々御用命あらんことを希望す。
一、新聞、雑誌、書籍の原稿製作
一、英、仏、独、露等諸語の翻訳
一、意見書、報告書、趣意書、広告文、書簡文、其他一切文章の立案、代作、及添削(P .20〜21)
ちなみに、この時代は今と比べると“金のために文章を書くのは賤しいこと”というイメージが強かったらしい。若い頃は小説家を志し、その後もペンの力で社会を変えようとしてきた堺にも抵抗があった可能性はある。だが彼は別の手紙で「僕には売文の外に金もうけの道が無いから甚だ困る」とも書いていて、背に腹は変えられないと覚悟を決めたのかもしれない。
出所後、堺はすぐにいくつかの新聞・雑誌に外国小説の翻訳や梗概を仮名で発表している。モーリス・ルブランのルパンシリーズ、モーパッサン、マーク・トウェイン、バーナード・ショー、チャールズ・ディケンズ等々今も巨匠として名高い作家たちの作品である。翻訳には若い頃にも取り組んでいたから、いわゆる昔取った杵柄なのだろうが、選択のセンスが際立っているように思う。
自分の家族が食べていくだけなら、そうした依頼に応えるだけで十分だったろう。そうは考えないのが堺利彦の堺利彦たる所以である。
新聞広告の効果はすぐに現れ、仕事が舞い込み始める。はじめは翻訳の注文が多かったそうだが、やがて祝辞原稿や論文代筆なども求められるようになる。
そして、散り散りになっていた仲間が集まってくる。荒畑寒村、大杉栄、高畠素之…数年後には地方を転々としていた山川均も戻ってきた。
話が前後するが、売文社を立ち上げたのは大逆事件の裁判が始まった直後で、戻ってきた同志たちが最初に共同で取り組んだのが処刑者たちの遺体の引き取りと火葬だった。そして、3月末から1か月以上かけて堺は遺族の慰安のための長い旅に出ている。
後に触れる『へちまの花』第8号によると、売文社創立から4年目の1914年7月1日から8月15日までの取り扱い事項は35種類に及んでいた。(P .428〜429)1か月半の間に受注したか納品した案件がこれだけあったということだ思う。
論文・教科書・判決文などの英訳、広告のコピー/デザイン、趣意書・書簡・あいさつ文など各種文書の作成…堺が獄中で夢想した内容がほぼ網羅されていることに驚く。現在広告代理店・編集プロダクション・翻訳会社が担っている仕事を売文社が掘り起こしたのである。
「冬の時代」の灯火
売文社は1910(明治43)年12月に始まり、1919(大正8)年3月に幕を下ろす。誰も思いつかなかった事業を立ち上げ、これだけの長期間にわたり存続させただけでも驚きだが、この期間が社会主義運動の「冬の時代」と呼ばれた時代をほぼカバーしていることにこそ意味があると思う。
大逆事件以降、表だった運動は完全に封じられてしまった。ある意味で隠れキリシタンのように生き延びるしかなくなった同志たちに、遠くからでも見える灯台のように光を放ち続けながら、合法的に生活費を稼ぐ仕事を生み出し続けたのである。
文芸誌『近代思想』
しかし、堺利彦より下の世代には、政治的な発信から頑なに距離を置こうとする堺のスタンスに飽き足らなさを感じる者も少なくなかった。早くも1912(大正元)年10月には大杉栄と荒畑寒村が『近代思想』を発刊し、閉塞した状況から一歩踏み出す試みに出た。
当時の社会情勢から、時事問題を自由に論じるのは不可能でも、せめて文芸や思想上の抽象的な問題を論じる雑誌を発行し、離散隠遁している同志が再起する中心をつくろう、というのが二人の意図だった。(P .380)
二人が堺を見限ったというわけではなく、いつまでも石橋を叩いて渡らない堺の横をすり抜けて、半歩前に歩み出てみたということだったことが分かる。目ざすものはまったく同じだった。実際、二人はその後も売文社に籍を残していたし、堺は創刊資金の調達を請け負っている。また、彼を含め売文社の人間の多くが同誌に寄稿し、同誌には毎号のように売文社の広告が載った。
1914年、大杉と荒畑は再び政治経済を語ろうと、『近代思想』を廃刊して月刊『平民新聞』を発行するが、毎号のように発行禁止となり、すぐに終刊した。その後『近代思想』を復活させるも、これも発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、まもなく幕を下ろした。(P .438)
『近代思想』が発行された期間はけっして長くはなかったが、その間にプロレタリア文学の先駆けとなる作品を世に送り出すという大きな足跡を残している。文学史のうえでは高く評価されているという。(P .382)
機関紙『へちまの花』
社会主義者の残党が運営していることはすぐに知れ渡ったから、売文社の経営状況は当然ながら厳しかった。しかし、堺利彦は無類のアイデアマンであっただけでなく、経営者としての手腕も備えていたようで、ときに果敢に事業の拡大にも挑戦した。
1914(大正3)年1月に『へちまの花』を創刊したことは、事業的に見ても大きな転換点だったと思う。
『近代思想』に遅れること1年3か月、1914(大正3)年1月に売文社は『へちまの花』というふざけた紙名を冠した機関紙の発行を始めた。月刊で、判型はタブロイド判4ページというカジュアルなもの。政治的な気負いも衒学的な臭いもまったく感じられなくて売文社によく似合っていると思うが、そうは言っても定期刊行物を出すには金も人もいる。堺はその前年、事業拡大のための社債募集を行なっている。
その結果、創刊時には社員13人、特約寄書家/社友諸名家7人という体制を整えている。なかなかの大所帯だ。
第1号の一面には堺の「序」が掲載され、その最後に「こんな訳で、兎に角『へちまの花』で小さな旗上をする事になった」(P .408)と書いている。
本書『パンとペン』はその後の掲載内容に触れていないが、発禁処分を受けるような冒険は一度もしなかったようだ。では、「小さな旗上」とはどういう意味だったのか。
推測するしかないが、大逆事件の判決(と即時の死刑執行)から3年が経ち、猫を被ることに変わりはないとしても、もう少し顔を上げても大丈夫なのではないかという、堺なりの観測気球だったのではないかという気がする。
社会主義者の残党が、転向したわけではないけれど、政府を怒らせるような活動は自制して、こうやって面白おかしく日銭を稼いでいますが、何か?と。
堺利彦の周りの人々——とくに若年の同志——は、彼を思想的に中途半端で決断力にも欠ける人間と見ていた嫌いがあるが、この本を通読して思うのは、彼は大抵の局面で生存戦略としてもっとも賢明な選択を、時期を違えずにしているということだ。大逆事件後の彼は、同志の暴走を抑えて政府に弾圧の口実を与えず、内紛を避けて社会主義勢力全体として生き残りを図ることに注力した。
そして、石橋を小まめに叩きながら、一見そうとは見えない形で歩みを進めていた。売文社そのものがそうだったし、『近代思想』の支援、さらに『へちまの花』の発行と、絶妙のタイミングで小さな一歩を進めてきたと言える。飄々として、一見他人にどう思われようが意に介さない人間に見えるが、逆に自分がどう見られているかを誰よりも鋭く感知していたのかもしれない。
『新社会』への発展
1915(大正4)年9月、堺利彦は次なる一歩を踏み出す。『へちまの花』を『新社会』と改題し、判型も一般的な雑誌形式に改めボリュームアップしたのだ。
現在の感覚ではピンとこないが、「社会」という言葉を使ったこの誌名はこの時代としてはかなりの冒険だったらしい。大逆事件以降、この言葉はタブーとなっていて、『昆虫社会』というタイトルの本が官憲によって差し押さえられるというコントのようなことが現実に起こっていたのである。(P .435〜436)
しかも堺は『新社会』を、時事を報ずる雑誌として政府に届け出た。これにより新聞紙法の適用を受けることになる。言論統制法規として猛威を振るった法律である。『へちまの花』も『近代思想』も避けて通った手続きだった。(だからこの二つは原則として時事を論じることができなかった。)自ら退路を断つような、思い切った判断に見える。
さらに堺は、『新社会』初号の巻頭に「小き旗上」という挨拶文を掲げ、次のように語っている。二度目の「小き旗上」である。
(略)
先(まず)は落人の一群が山奥の洞穴に立籠つて、容易に敵の近づけぬ断崖を恃みにして、蕨葛(わらびくず)の根に餓(うえ)を凌ぎ、持久の策を講ずると云う、みぢめではあるが、且は聊か遠大の志しを存する、義軍の態度であります。
従つて、明日や明後日に山を下つて、敵の戦線に逆襲を試みると云う企てもなく、又それだけの実力もない。其点は敵軍に於かれても当分御安心あつて然るべく存じます。只遠近の同族と纔か(わずか)に相呼応して、互に励まし慰さめつゝ、おもむろに時機を待つの決心は、可なりに堅く致して居る積りである。(後略)(P .436〜437)
遠回しと言えば遠回しだが、“まだ先になるけれど必ず再起しますよ”という宣言であることは誰が読んでも分かる。大胆というか、ずいぶんとふてぶてしいご挨拶である。いったい社会のどんな変化を感じ取って、こんな大胆な行動に出たのだろう。
と言うのも、売文社に対する官憲の監視の目が緩んだようには見えないからだ。相変わらず売文社の門前には何人もの刑事が張り込み、堺らが外出するときはもちろん、仕事の依頼主にまで尾行がつく。堺はその様子を面白おかしく誌面で紹介していたが、緊張を強いられる日々だったことは確かだろう。(P .443)
荒畑寒村が後に語ったところによると、『近代思想』はサンディカリスト派、『新社会』は明白にマルクス主義の立場に立っていたという。(『日本社会主義運動史』)(P .437)
堺は『新社会』誌上にマルクス主義関連の外国の文献の翻訳や自らの論文を本名で精力的に発表した。彼の他にも社内の高畠素之、山川均、そして社外の多くの社会主義者が執筆している。
売文社という広告代理店兼編集プロダクション兼翻訳会社を営むかたわら、正面からマルクス主義を掲げた言論活動を再開したわけである。
しかし、当然のごとく『新社会』はしばしば発禁処分になった。(『へちまの花』は一度も発禁になっていない。)本当に社会の潮目が変わっていたのかと問いたくなるが…。
売文社の最盛期
大逆事件後、東京を離れて西日本を転々としていた山川均が、堺利彦の誘いに応じて1916(大正5)年1月に上京し、売文社に加わった。
そして1917年、堺は売文社と『新社会』を切り離す。社会主義の旗を掲げ、頻繁に弾圧を受ける『新社会』が売文社の中にあると、ビジネスに支障をきたすという判断だろう。そのうえで、売文社の事業を拡大していく。
著者によると、1917年と1918年の二年間が売文社の最盛期と言えるようだ。多種多様な文書の作成、翻訳のほか、書籍の代筆、雑誌・機関誌の編集請け負い、世界各国の旅行案内書『世界通』(上下巻1,400ページ)や『内外文豪美辞麗句叢書』20巻の編纂といった大きな仕事も次々とこなしている。
社内の分裂から解散へ
1916年に山川均が加わって堺、高畠、山川のトロイカ体制が整い、事業規模の拡大に成功した売文社だったが、それに伴うスタッフの増員、入れ替わりの中で社内の力関係が崩れていく。
読んでいると、スパイ——というか撹乱分子——を送り込まれたのでは?と疑いたくなるが、著者があからさまにそう言っているわけではない。まぁ、三人の中心人物の一人である高畠素之が国家社会主義へと思想的に急転回してしまったのだから、外からやって来た人間の小細工で起こるような単純な派閥抗争ではないのかもしれない。
米騒動
本当の契機は、もしかしたら1918(大正7)年に日本社会を揺るがした米騒動だったのかもしれない。
前年に始まったシベリア出兵や長引く第一次世界大戦の影響で米価が急激に上がり始めたこの年、救済を求める嘆願運動が7月に富山で始まると、瞬く間に全国へ広がり暴動化した。力で沈静化できるレベルのものではなく、寺内正毅内閣を退陣に追い込むほどの衝撃を日本全体に与えた。これまでの住民運動と決定的に違ったのは、発端が一般の(働く)主婦であった点だ。
この出来事をどう受け止めるかで、売文社内で意見が割れたようだ。
高畠素之が国家社会主義へと急転回した正確なタイミングは分からないが、米騒動の影響を受けた可能性は十分にある。一方で山川均と荒畑寒村の二人は、直接行動を重視するサンディカリズムに急速に近づいていった。
政府による弾圧から協働して身を守る橋頭堡だった売文社の中で、この具体的な社会事象をめぐり方向性の違いが露わになってきたのである。
新人会と黎明会
では、堺利彦はどう考えていたのか。実はこの時期の彼の動きは分かりにくい。
この頃、堺は売文社の運営を高畠に任せ、たまにしか顔を出さないようになっていた。自宅に籠り、彼ご指名の仕事は直接そちらへ持ち込まれるようになる。また東京帝国大学に「新人会」(1918年12月結成)ができると、そのメンバーが彼の家に入り浸るようになった。
新人会は吉野作造から思想的影響を受けた人道主義的・理想主義的社会主義の立場から啓蒙活動を行う学生組織である。
新人会とほぼ同時期に吉野作造ら学会・論壇のリベラル派が「黎明会」を設立しているが、その陰の仕掛け人の一人が堺だったという見方がある。
山川均の自伝によると、堺は、“社会主義者は民本主義運動に浸透していかなければならない”という立場だったというから、可能性は十分にある。ただ、弾圧を避けるために黎明会は社会主義者を入会させなかった。
堺自身がこの件に関して何も書き残していないから推測するしかないが、“その時が来た”と感じた堺が、社会主義の前提条件となる民主主義——政治的、市民的自由の獲得——を確立するための統一戦線作りに奔走していたとしても不思議はない。山川に「私はあくまで正統マルクス派の立場を守る」と言った堺は、このときもブレずにその道を進もうとしたのではなかろうか。
しかし、堺が不在がちになったその時期、山川と荒畑は独自に発行した別の雑誌の筆禍で投獄され、売文社は高畠とその一派の独壇場となってしまった。社内では堺への中傷が飛びかい、『新社会』に極右論文が大きく掲載されるようになる。
売文社の中心にいた三人は、米騒動という社会の新風を受けて、こうして別々の道を歩み始めたのである。
結局溝を埋めることができず、売文社は1919(大正8)年3月、8年余りの活動に幕を下ろし、解散する。(売文社という社名は残し、高畠とその一派が引き継いだが、それも1年ほどで消滅した。)
高畠素之
高畠素之は弾圧を逃れるために国粋主義的な偽装をしたのだという見方もある。
1920年から24年にかけて単独でマルクスの『資本論』の全訳をなしとげたところを見ると、その可能性も大いにあると思う。しかし、堺らと袂を分かった後の彼は、その体制擁護的な言論にもかかわらず弾圧を受け、やがて存在感を失っていく。
1928年に42歳の若さで亡くなったこの元同志について、堺はこんなことを書いている。
私としては、資本論の反訳を完成した、マルクス学の大功労者が、遂に自ら純正のマルキシストであり得なかった事を幾ら憾(うら)んでも憾んでも憾みきれない(「日本社会主義運動史話」)(P .535)
売文社以降
どうやら堺利彦が待ち続けた「時機」は1919年に到来した。売文社は直接的には内部分裂という形で消滅したが、前年の米騒動を契機として明らかに社会の空気が変わり、売文社の存在意義自体が薄れていたと言うこともできる。
しかし、本書『パンとペン』は、これまで思想史上も社会主義運動史上も無視されがちだった売文社の実像に迫った著作であり、「冬の時代」の後のわずかばかりの春についても、その後にはじまる暗黒の時代についてもほとんど言及されていない。
堺はその後、日本共産党の創立(1922年7月)に関わり、解党後は労農派の立場で活動を続ける。最後まで統一戦線の樹立に心を砕いていたようだが、詳細は分からない。
1929年2月の東京市議会議員選挙で当選するが、1931年の12月に脳溢血に倒れ、再起することなく1933年1月23日に亡くなる。享年64。
倒れた翌日に彼が妻の為子に口述筆記させた言葉が、後日『中央公論』で紹介された。
僕ハ諸君ノ××主義××反対ノ叫ビノ中ニ死スルコトヲ光栄トス(P .575)
当時(1933年)伏せ字にされた××部分を、娘の近藤真柄が『わたしの回想(上)』(1981年)で明かしている。
帝国主義戦争絶対反対(同)
「正統マルクス派の立場を守る」と言った堺利彦の社会主義者としての最後の言葉がこれだった。萬朝報時代の日露戦争反対に始まる反戦思想を、最後まで彼は貫き通したのである。
堺利彦という人
他者への優しさ
とんでもない長文になっているが、この本を読んでもっとも心を打たれたのは、人としてのお手本と言いたくなるような、堺利彦の人間性である。社会主義にアレルギーを持つ人は“坊主憎けりゃ…”で気づかないかもしれないが、この本に描き出された堺利彦という人は、そこらの宗教家よりもよっぽど寛容で慈愛に満ち、人に優しい。
自分を裏切って離れていった人にさえ手を差し伸べ、若くして亡くなった同志がいれば、手厚く弔い、遺族を気遣い、足跡を刻むために追悼集を作る。大逆事件後の彼の行動が典型だが、その前もその後も彼はつねにそういう人だった。
どうやったらこんな人間になれるのだろうと、つくづく思う。生まれ変われるなら、堺利彦に少しでも近づけるように心がけつづける人生にしたい——こんなことを考えたことはなかったが、心底そう思う。
一歩一歩成長して社会主義者へ
旧制中学時代の堺はめちゃくちゃなクズ男だったが、その後、愛妻家かつフェミニストになり、恵まれない人生を歩む人々への視線を育て、その生活改善に心を尽くし、やがて強い反戦の意思を持つに至る。クズ男は別にして、この段階的な成長も(ヘンな言い方になるが)理に適っていて、真似したいと思ってしまう。
彼は一歩一歩成長しながら社会主義思想に行き着いたのである。実際、彼が己れを社会主義者だと自覚したのは三十歳を過ぎてからだった。流行りの思想にかぶれたという類いの軽薄さが微塵も感じられない。
また、親友の幸徳秋水をはじめ、彼の周りにはアナキストも多かったが、彼は早い時期から「正統マルクス派の立場を守る」という信念を持ち、そこからブレなかった。この点も尊敬に値する。
べつにアナキズムを否定するものではないし、何かを信じ続けることが無条件に正しいとも思わないが、彼にとってマルキシズムはその人間性と一体となっているような気がして、「ああいう人生を歩んでいけばそこに行き着くよな」と妙に納得させられるのだ。
つねに大同団結を模索する
つねに左翼陣営を一つにまとめようと努力を続けたことも彼の特徴だと思うが、その一貫性にも敬服する。若者の目には日和見主義と映ったかもしれないその性向は、しかし、彼が生きた時代を長いスパンで見たとき、運動の継続に大いに寄与したと思う。
カリスマではない
カリスマではなかったことも、(なんとなくだが)大事なことのように思う。「世話好き人間 堺利彦」にも書いたように、幸徳秋水、大杉栄らが備えていたカリスマ性を堺は持っていなかった。自分を差し置いても仲間を救おうとした彼に多くの人が感謝したが、尊敬されるのは幸徳や大杉だった。今も多くの人に知られている初期社会主義者の大物だから、これはちょっと意外だった。
ユーモリスト
そして、忘れてはならないのがユーモアのセンスだ。三十歳からの彼の人生は、つねに権力に監視され、干渉され、力で押さえつけられる日々だったのに、明るく笑い飛ばし、飄々としてその妨害をすり抜けてく。天賦のものなのだろうが、これが羨ましくてならない。この点も、自分もそういう人間だったらと強く思うところだ。
笑顔
終章「一九二三年、そして一九三三年の死」の扉に、「東京市会議員選挙に当選して喜ぶ堺父娘(1929)」というキャプションのついた写真が載っている。二人は満面の笑顔で、目にしたこちらももらい笑いしてしまうような素敵な写真だ。
それまで集合写真しか出てこなかったから、初めて堺利彦の顔を見るような気がした。そして、これが本当に気のいいオジサンの衒いのない馬鹿笑いで、なるほどこれが堺利彦か——情に篤く面倒見が良くて、なのに若者からは同輩のように文句をぶつけられ、かと言って思想の違う人からも信用され、慕われ、天賦のお笑い系で、カリスマ性はないけれど歴史に残る偉人となった——と納得させられる、本当にいい笑顔だ。

その他 印象に残ったこと
堺利彦の諧謔
すぐ上に書いたように、堺利彦はユーモアにあふれ、ときに人を食った痛快な言動をやってのける人だった。センスがあるだけでなく肝もすわっていて、売文社という発想自体がそうだし、尾行警官へのおちょくりなどにもそれが表れている。中でももっとも痛快に感じたのは次の「共産党宣言」をめぐる話だった。
共産党宣言
堺は『平民新聞』時代に「共産党宣言」の翻訳を掲載して発禁処分にあっているが、そのときの大審院判決は「宣伝目的で掲載するのは禁ずるが、研究のためなら発表してかまわない」というものだった。これを逆手にとって彼は『社会主義研究』という雑誌を発行し、その創刊号の巻頭に「共産党宣言」の全文を翻訳して掲載したのである。政府も黙認したというから面白い。ただ、この雑誌は経営が行き詰まり第5号で終刊する。(P .216)
『楽天囚人』とペンネーム「貝塚渋六」
堺利彦は生涯に5回投獄されている。(P .173)最初は日露戦争中の1904年で、『平民新聞』紙上で政府批判を行ったことが新聞紙条例違反とされた。軽禁錮2か月が確定すると、彼は『平民新聞』に「告別の辞」を掲載する。
花見には少し後れたれど、小生は本日より二箇月の間、面白き『理想郷』に入り休養致します。
(中略)
何ぞ小なおみやげでも得られぬかどうかと、自身に取りては、聊か楽みな様な、気遣ひな様な心地も致します。(略)(P .174)
なんとも人を食った口ぶりだが、もちろん出所後にはたっぷりの土産話を同紙に連載している。また、彼はそれらの獄中手記を『楽天囚人』というふざけたタイトルの本にまとめて出版している。
また、堺は1911年以降——赤旗事件による投獄を終えたあと——「貝塚渋六」というペンネームを使い始めたが、「貝塚」は千葉監獄の所在地で、「渋六」は獄中の四分六飯(しぶろくめし)に由来するという。四分六飯とは南京米4割、麦6割のまずい飯の意味だ。(P .20)
どれも反権力の姿勢をたっぷりのユーモアで包んだ物言いで、彼の生き方をよく表していると思う。
堺利彦の醒めた自己認識
命がけの道楽
売文社で働き、解散後は共産党、労農派で活動した橋浦時夫の次の言葉も印象に残るものだった。
生活が安易に流れると半面に革命の殉道精神が勃動して来る、(中略)しかし堺さんはこうした高潔ぶった精神主義には冷ややかであった。
『われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ、幸徳でも僕でも士族出で本物の社会主義ではない、本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるのだよ…だからといってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもある…。』(P .378)
翻訳者としての堺利彦
このメモではほんのちょっと触れただけだったが、堺は思想関係の本の他に数多くの外国文学も翻訳している。メシの食い種だったのかもしれないが、一時は小説家を目ざした彼の訳文——梗概/抄訳も——は、原作の雰囲気を巧みに伝える優れたもので、また名作をいち早く日本に紹介したという点でも功績が大きかったようだ。
ゾラの小説は、日本でも十九世紀末には知られるようになったが、堺利彦はその翻訳を手がけた先駆者の一人だった。(P .129)
とくに、バーナード・ショー作品の翻訳を手がけた先駆者として、堺利彦の名前を挙げないわけにはいかない。(P .343)
彼が紹介したショーの作品の中には映画『マイ・フェア・レディ』の原作として知られる『ピグマリオン』の梗概もある。「堺は日本におけるバーナード・ショーの第一の理解者だったといっていい」と著者は言っている。(P .350)
英米文学者の中田幸子氏によると、
ジャック・ロンドンを初めて本格的に日本に紹介したのは堺利彦で、日本人の多くは堺訳『野生の呼声』を経由してジャック・ロンドンという作家を知った。『野生の呼声』で人気を得たロンドンは、大正期後半の日本で大流行することになる。(P .470)
彼が取り上げた作品は、面白いだけでなく、社会主義の視点で書かれたもの、労働者や下層民の生活実態を描いたもの、社会を風刺したものが多かったという。(P .343)ただのやっつけ仕事ではなかったということだろう。彼にとっては、(食べるための)翻訳も自らの思想の表現方法の一つだったと言えそうだ。
著者 黒岩比佐子さんについて
奥付の前のページに「本書は講談社百周年書き下ろし作品として、2010年10月、小社より刊行されました。」と書いてあるのを見て、ふと隣の奥付に目をやると、著者の略歴の最後に「2010年11月17日逝去。」と書かれている。
あとがき——日付は2010年7月だった——に、この本の執筆中に膵臓がんであることが分かり、治療を受けながら仕上げたことが書かれていて、しかも周囲に転移していたとあったので、半ば予想はしていたのだが、それにしても…。
『パンとペン』は本当に面白い本で、よくぞ書いてくれたと思ったのだが、出版の1か月後に亡くなったと知って、一瞬頭がくらくらした。
今さらだけれど、売文社(と堺利彦)という忘れられた存在に目を留め、「冬の時代」の抵抗のあり方をありありと物語ってくれたことに心から感謝する。
2026年2月13日 読了
