本/映画

上西充子『呪いの言葉の解きかた』

何と言っても「呪いの言葉」というネーミングが秀逸

「呪いの言葉」という文字を見ただけで、多くの人はピンとくるものがあるのではなかろうか。得体の知れない魔力を持った言葉に、屈したり、傷ついたりした経験が誰にでもあるはずだ。「なんか違う」とこちらは感じるのに、相手は自信満々で、それなりに理屈が通っているようにも思えてきて、返す言葉が見つからない。魔法にかかったように急に気力が萎え、「こっちが間違っている?」と思えてくる。大きな実害を被ったかどうかは別にして、そういうもやもやした敗北の経験が誰にでもあると思う。

「呪いの言葉」と聞くと、そうやって立ちすくんでしまった時の自分の感覚が甦る。そうだ、呪いをかけられたような感じだった、と思う。今まで名前を与えられず、“得体の知れない”としか言いようのなかったぼんやりとしたものが、急に輪郭を現し、視覚化されるのを感じる。それだけのインパクトをこの言葉は持っていると僕は思う。

正確には、この言葉の名付け親は著者ではないらしい。しかし、著者がいなければ、誰もここだけを切り出して言語化しようとは考えなかっただろう。

あとでもう少し詳しく触れるけれど、著者は労働問題の専門家で、その立場から、昨年の国会で審議されていた働き方改革関連法案に対し積極的に発言していた。その過程で、「一つひとつの論点で対峙するだけでなく、『呪い』によって私たちを縛ろうとする政権のありようそのものにも対峙しなければならないのだと思うようになった」(P.257)のだという。

そして、ツイッターでこんな投げかけをする。

「私たちには理があり、黙らせにかかっているあなたたちは間違っている、そう言える言葉、そう見方を変えていける言葉を、私たちはさらに豊かに、持つ必要があります。」(P.258)

これを受けて、歌人の白川ユウコ氏が「#呪いの言葉」というハッシュタグをつけてリツイートしたのが、この言葉のはじまりだった。著者が最初に求めたのは、ネーミングというより、呪いの言葉を撥ね返すフレーズだったのかもしれないが、「呪いの言葉」というキーワードが生まれたことで、多くの人を振り向かせることに成功したのではないかと思う。すぐに「#呪いの言葉の解き方」というハッシュタグが生まれ、そのもとでたくさんの人が参加して事例や意見が交わされたという。

この本の原点となったのは、このようにしてツイッター上で繰り広げられた交流だった。そこに寄せられた文例の一部は巻末にも紹介されている。しかし、本文はすべて書き下ろしだ。「解き方」の文例もいくつか出てくるが、それを紹介するだけの内容ではない。漫画やTVドラマ、出会った人々の言葉などを巧みに引用しながら、しかし基本は著者自身の言葉で、経験したことや考えを綴っている。著者は学者さんで、専門以外の本を書くのはこれが初めてだろうと思われるが、それにもかかわらず、肩肘張らずに読めるエッセイとしてこの本はすこぶる面白い。

「呪いの言葉」とは?

「嫌なら辞めればいい」という言葉を例に、著者は「呪いの言葉」を次のように説明している。

「嫌なら辞めればいい」という言葉は、働く者を追い詰めている側に問題があるとは気づかせずに、「文句」を言う自分の側に問題があるかのように思考の枠組みを縛ることにこそ、ねらいがあるのだ。不当な働かせかたをしている側に問題があるにもかかわらず、その問題を指摘する者を「文句」を言う者と位置づけ、「嫌なら辞めればいい」と、労働者の側に問題があるかのように責め立てるのだ。(P.16)

つまり、「呪いの言葉」は、「相手の思考の枠組みを縛り、相手を心理的な葛藤の中に押し込め、問題のある状況に閉じ込めておくために、悪意を持って発せられる言葉」(P.16)なのだ。

では、そうした言葉を投げつけられたとき、どうすればいいか。
「相手の土俵に乗せられない」ことだと著者は言う。乗せられていることに気づいたら、そこから降りる。

もちろん、こんな簡単な言葉で解決できるような問題ではない。しかし、一番重要な原則がここにあるのは確かだ。絡め取られたままでは身動きが取れない。そこから離れ、一歩引いて、本当の問題点がどこにあるかを見極めるしか方法はないのだ。

「呪いの言葉」とはどういう言葉なのか、「相手の土俵に乗せられない」ために何が必要かを、著者は飾らない言葉と落ち着いた口調で語っていく。ハウツー本ではないから即効性のある対処法が出てくるわけではないし、「相手の土俵に乗せられない」とは相手と対峙しないことを意味するものではないから、土俵から降りれば安心というわけでもない。

著者が説くのは、“当事者であり続ける”ことの大切さだ。そして、人間が何者かの“囚われの身”になるのはおかしいということ。当事者であれば、何者にも囚われることなく、不当なことに対して“異議申し立て”をする権利があるのだということ。

簡単にできることではない。今の世の中、誰もそんなことは教えてはくれないし。しかし、だからこそ著者はツイッターで発信し、交流し、またこのように本を著して語りかけているのだろう。呪いをかけられてうずくまったままでいるのではなく、呪いを解いて、異議申し立てをするということ。これをできる市民が増えていかないと、本当に民主的な世の中は生まれないのだということを、この本は教えてくれる。

著者 上西充子氏

データ改竄の追求

著者の上西充子氏を知ったのは、昨年の働き方改革関連法案をめぐる与野党の攻防においてだった。一般の労働者より裁量労働制で働く人のほうが労働時間が少ないというデータもあると安倍首相が答弁し、それを受けて、元となった厚労省のデータに対する疑問の声がわき起こった。その中心にいたのが著者だった。結局データの不備(というより改竄)が明らかになり、安倍首相はこの発言の撤回を余儀なくされた。

法政大学キャリアデザイン学部教授という著者の肩書きも印象的だった。「働き方改革」を名乗る法案に対し、この肩書きを持つ研究者が真っ向から反論したのだから、インパクトが大きかった。すごい人が現れたと感じたものだ。

「ご飯論法」

「ご飯論法」という流行語を生み出したのも著者だった。これも同法案の審議中のことだ。加藤勝信厚労相(右の写真)が微妙に論点をずらしながら答弁する様を皮肉って言った言葉だ。著者が下のようなツイートをし、続いてWeb記事で詳しく説明すると、それを読んだ紙屋高雪氏が「ご飯論法」と名付けたらしい。SNSで爆発的に拡散され、その後マスコミでも広く取り上げられた。その結果、昨年末の『「現代用語の基礎知識」選 2018ユーキャン新語・流行語大賞』でトップ10に選出された。

Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」
Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

そんなやりとり。加藤大臣は。

国会パブリックビューイング

著者が始めた「国会パブリックビューイング」もツイッターを中心に話題になった。

働き方改革関連法案の国会審議における政府の態度は、最初から最後まで欺瞞に満ちていた。不都合な事実を隠蔽し、野党の質問に対する答弁は姑息に論点をずらして誤魔化す。しかし、ニュースでは政府のそういう不誠実な態度はほとんど報じられない。また新聞は各社取り上げ方がバラバラで、ほとんど報道しないところさえある。

審議に関わりながら、著者はこの法案の問題点と政府の誠意のなさをツイッターやWeb記事で発信していたが、ネットを利用していない人にはまったく伝わらないことに危機意識を高めていた。そこで、またツイッターで投げかけたのだ。

街頭上映会とか、できないですかね。
働き方改革をめぐる国会審議のこの状況を見てください、と。
問題場面をハイライトで編集して。
野党の皆さん、労働団体の皆さん、どうですか?
国会審議の液状化、一般市民に可視化が必要です。
(P.180〜181)

するとすぐに反応が返ってきて、数日後には実現してしまう。国会中継の動画を編集し、街頭に持ち出したディスプレイで道行く人に見せる。テレビニュースのように秒単位で切り刻んだ映像ではなく、質疑の模様をある程度見てもらえば、政府の杜撰さと傲慢さが誰の目にも明らかになる。その場にいる人にしか伝えることはできないが、ネットと無縁の人にも、またネットは使っていても政治に無関心な人にも触れてもらえる。

著者は「国会パブリックビューイング」という団体を作り、その後も街頭上映活動を続けた。その様子はツイッターでも頻繁に流れてきた。多くの人がこの活動に注目し、拡散していたのだ。

一人の市民としての活動

それにしても、ここまで紹介してきたことがすべて昨年一年間の出来事であることに驚く。いや、流行語大賞の受賞以外はすべて最初の半年の出来事だ。発端となったのは働き方改革関連法案。この法案が上西充子という研究者を時代の表舞台に引っ張り上げたのだ。

ただ、著者が労働問題の第一人者だったから注目を浴びたというのとは少し違うと思う。航空機事故のあとで“航空評論家”がテレビで引っ張りだこになるのとは話が違う。昨年の時点では僕も区別がつかなかったのだけれど、この本を読むと、彼女が自らの意思でこの問題に関与してきたことがよく分かる。しかし、学問的あるいは社会的野心といったものとは無縁で、また、もともとどこかの政党と近い関係にあって、そういうしがらみから、というのとも違うようだ。

この本からおぼろげながら見えてくるのは、研究者としての知識とスキルを持つ一人の市民として“異議申し立て”を行う姿だ。その意味では、この本で語られる「呪いの言葉の解きかた」を地で行っているようなところがある。当事者として、何者にも囚われることなく、不当なことに対して“異議申し立て”をしているように見えるのだ。まあ、これまでだってたくさんの知識人が政治的(とならざるを得ない)な意思表明を個人として行ってきただろうし、僕がそういう人たちをちゃんと見てこなかっただけかもしれないが、僕は彼女の一連の行動をとても新鮮なものに感じた。

この本の面白さ

本文中では、「嫌なら辞めればいい」の他にもいくつもの「呪いの言葉」が紹介され、それについての著者の考えが述べられているが、この本の面白さはそれだけではない。

成長の記録

昨年、著者が彗星のごとく登場した経緯が、ごくあっさりとではあるが書かれている。それまでもWebに記事を寄稿(?)したりはしていたらしいが、そうした発言をきっかけにある日突然注目されるようになり、野党ヒアリングへ、衆院予算委員会中央公聴会へと引っ張り出され、NHKの「クローズアップ現代プラス」に出演するなど、目まぐるしく物事が動いていく様子だ。しかも、その間にも、明らかになった問題点を次々に文章化してWebに発表していたという。もちろん、労働問題の専門家としてキャリアを積んできたということが土台にあるとはいえ、一種のシンデレラ・ストーリーと言えなくもない。

しかし、政治に関心を寄せるようになったのは、東日本大震災とそれによって引き起こされた原発事故のあとだったという。母親として子どもの健康に不安を感じたが、政府や学校の対応は納得できるものではなかった。そこから集会や学習会、そしてデモに参加するようになる。学者としてではなく、一人の母親としてそうした運動に関わり始めたということだろう。それからまだ10年もたっていないわけだが、運動に参加する中でいろいろな人に出会い、影響を受け、考え、少しずつ変わっていった様子が読み取れる。

筋金入りの運動家というわけではないから、昨年の活躍も、何人かの人がかけてくれた「灯火の言葉」が背中を押し、また心の拠り所となっていた。そんなナイーブな部分も率直に書かれていて、大学教授でもこうなのかと意外にも思え、またとても身近にも感じる。

つまりこの本は、(ちょっと偉そうな言い方に聞こえるかもしれないけれど)政治に対して当事者意識を持ち始めた一人の人間の成長記録としても、なかなか魅力的なのだ。

引用の妙

もう一つ、引用の巧みさにも触れておきたい。

各章ともけっこう大事なところで引用文が挿入されている。章によっては引用文そのものが論旨と言えそうなものまである。出典は漫画、映画、TVドラマ、デモや集会での発言、ツイート、メールなど多種多様。もちろん文献からの引用や要約も多数あるが、そういう専門的な部分は噛み砕いた表現に置き換えられていることが多く、ほとんど目立たない。だから、ここで「引用の巧みさ」と言うのは文献以外からの引用のことだ。

この引用部分がどれを取っても面白いのだ、とても。

ふつうの(文献からの)引用と少し違って、とくに漫画・映画・TVドラマといったヴィジュアル表現からの場合、話の流れそのものをたっぷりと引用しているのが特徴的だ。ただし、引用されるのはセリフのみ。それがテキストで挿入される。場面の説明や展開は上西氏がト書きのように言葉で補うが、基本それだけで、漫画やドラマの場面がヴィジュアルとして挿入されることはない。だから、それを読んでも実際の登場人物たちの姿を思い浮かべることはできない。

たまたまだけど、引用されたものはどれも、僕が見たことのないものだった。TVドラマの中には見たことのあるものもあったが、引用された回はどれも未見だった。

それでも読んでいて面白い。

長くなったついでに、引用されたソースを書き出してみよう。

  • ・海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』(コミック/ドラマ)
  • ・ドラマ『ダンダリン 労働基準監督官』
  • ・映画『サンドラの週末』(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督)
  • ・やまだ紫『しんきらり』(コミック)
  • ・杉山春のルポ
  • ・「#私は黙らない0428」集会での福田和香子氏のスピーチ
  • ・「9・11原発やめろデモ!!!!」での柄谷行人氏のスピーチ
  • ・参院公聴会における奥田愛基氏(SEALDsメンバー)の意見陳述
  • ・日本国憲法第12条
  • ・著者による国会での意見陳
  • ・安倍首相の国会答弁
  • ・法政大学総長田中優子氏の総長メッセージ
  • ・匿名の応援者からの手紙
  • ・松田奈緒子『重版出来!』(コミック・ドラマ)
  • ・中学時代の教師からの手紙
  • ・映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)
  • ・ドラマ『カルテット』
  • ・岡野玲子『陰陽師』(コミック)

この他にもツイ—トやメールが多数挿入されている。

中でも印象に残ったのは、『サンドラの週末』『わたしは、ダニエル・ブレイク』という2本の映画だった。2本とも実際に観たような気になっている。

『サンドラの週末』は、「当事者が中心に立たなければ、状況は変えられない」(P.55)ことを教えてくれる物語だ。手を差し延べてくれる人がいたとしても、そうした人々に庇護されたままでは、それ以外の人を動かすことはできない。当事者が中心に立って異議申し立てを行ったときにはじめて、他の関係者も問題を真剣に受けとめるのだということ。そして、当事者の位置に立ち続けることではじめて、自分自身に誇りを持てるのだということ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』には究極の一言がある。

デイジー:一つ聞いていい? 前 助けてくれた?
ダニエル:たぶんね
デイジー:じゃ 助けさせて
(P.219)

ダニエルはデイジーの母親が慣れない土地で苦労していたときに手を貸してくれた人。そのダニエルが精神的に落ち込み、電話にも出なくなったとき、デイジーが彼を訪ねていく。彼女はたぶんティーンズにも満たない少女だろう。その少女が「助けさせて」と言う。なぜなら、あなたは私の母親が苦しんでいたときに私たちを助けてくれた人だから。いや、これ、シビれますよね。

この少女の言葉は、「呪いの言葉」と真逆の力を持つ言葉だった。

「相手の思考の枠組みを縛り、相手を心理的な葛藤の中に押し込め、問題のある状況に閉じ込めておくために、悪意を持って発せられる言葉」(P.16)というのが著者による「呪いの言葉」の定義。しかし、映画の中でダニエルの「思考の枠組みを縛」っていたのも「心理的な葛藤の中に押し込め」ていたのもダニエル自身だった。少女の言葉がその閉じられた土俵からダニエルを解放したのだ。

えー、現場からは以上です。

日本全体が呪われている(?)説

今の日本は、経済も政治も社会も急激に劣化しつつあると思う。あるいはもともとレベルが低かったのに、何かメッキのようなもので覆われていたためにそう見えなかっただけで、そのメッキが剥げ始めたということなのかもしれないが。いずれにしても、どこに問題の本質があるのかを、(僕ももちろんそうだけど)日本全体として把握できていないのが現状だ。

この本を読んで感じたのは、すでに意味のなくなった古い慣習や、かつては常識だったのかもしれないが今やまったく通用しない古い価値観が、「呪いの言葉」となって変化の芽を摘んでいるのではないかということだ。権力を握っているのはいまだに古い世代の人々だけれど、彼らは「失われた30年」を終わらせることができなかった、はっきり言って無能な人々だ。その彼らの「知識」とか「経験」がいまだに日本を動かしているのだから、これは笑うに笑えないブラックジョークだろう。そのうえ彼らが今の若者たちの「思考の枠組みを縛」っているのなら、これほど不毛なことはない。

空気を読むことだけに長けた人間や、寄らば大樹の陰と考える人間には、今の状況は打開できないだろう。当事者意識を持って、恐れずに異議申し立てできる人材を一人でも多く育てていかなければならない。そして、古い世代が(おそらく無意識のうちに)振り回している「呪いの言葉」を一つずつ無効化していかなければならないのだ。

「いや、『呪いの言葉』を吐き散らす輩を駆逐するほうが早いだろ」と言われそうだが、これはねえ、どうなんだろう。そっち側の人も、土俵の外から戦略的に相手を追い詰めている人ばかりではなくて、自分も同じ場所に閉じ込められ、逃れられなくなっているケースも多いような気がするのだけれど。『ダンダリン』の店長たちがそうだったように。つまり、そっち側の人も、解放してあげられるに超したことはないのだ。

だから結局のところ、人々を不当に呪縛する「呪いの言葉」というべきものがあることを世間に周知させることが大事なのだと思う。パワハラやセクハラと同じで、この言葉を知るだけで土俵から半歩踏み出せる人がいるかもしれない。あるいは、自分の言葉が相手を萎縮させていることに気づく人がいるかもしれない。

ツイッターでの投げかけに始まり、この本の上梓にいたる著者の問題提起は、その意味でも本当に意義深いものだったと僕は思う。